ゲーマー日日新聞

ゲームを「ゲーマー目線」で語る独立系ゲーム紙 | 依頼等はメールに | note https://note.mu/j1n1 | 連絡先ak47ava(at)gmail.com

#ゲーム批評祭 『MOTHER2』批評 著者:あめ

f:id:arcadia11:20190625195425j:plain

著者:あめ(@shumige

 

MOTHER2は芸術的に遊ばれることを意図して作られたゲームである。

 

今回、1994年に任天堂より発売されたMOTHER2について紹介する。MOTHER2と言えば、言わずと知れた名作RPGであり、地球侵略を目論む宇宙人から少年少女が世界を守るという物語だ。販売数としては当時それほど多くなかったが、未だに熱狂的なファンが多いことは知っている方も多いと思う。

一般的に本作の面白さは、メッセージ性、個性豊かなキャラクター、心に刺さるセリフにあると言われることが多い。

僕もその点は同意するところであるが、なぜそれほどまでに多くの人に愛されているのか、それにも増して、僕が人生でプレイしてきた中で最も好きなゲームソフトとして、なぜそれほどまでに面白いのかという理由がはっきりしない。

そこで、本作の特別感をメッセージ性、キャラクター、セリフ、効果音、戦闘システムの順に考察する。

 

MOTHER2の特別感をメッセージ性に感じる方は多いと思う。では、それはどこから来るのか、本作について述べる上で、糸井重里氏抜きでは語れない。

糸井氏はMOTHERシリーズのプロデューサーでありシナリオから、すべてのセリフの監修を手掛けている。本作は「離れて暮らすお父さんに愛されている」というメッセージを糸井氏自身の子供や同じような境遇の子供たちにも伝えたいという思いで作られた。

インタビューにて糸井氏はお父さんと離れて暮らしている子供たちに味わってほしいことがたくさんあって彼らが元気のでるように、それが一番大きなテーマだったと語っている。この子供たちに向けた親心が本作の軸となるメッセージであり、作中には父の愛、母の愛を感じさせる印象的な演出がなされている。

物語では主人公の父親は姿を見せず、電話の会話でのみ登場し、本作の代表とも言える特徴がパパに電話をしてセーブを行うシステムである。そして、「がんばれよ」、「無茶するなよ」と電話越しに主人公を励ましてくれる。それだけではなく、ゲームのプレイが長時間に及んだときにはパパから「おせっかいかもしれないがちょっと休憩してはどうだ?」と電話がかかってくる。

一方、主人公の母親はいつも家で「おかえり、なにもいわなくていいのよ」と言って主人公の大好物を作って温かく迎えてくれる。しかも大好物はゲーム開始時にプレイヤーが主人公らの名前とともに名付けることができる。

そのため、ふざけた名前をつけるととんでもないものを食べさせられることになる。それはそれで面白いが。

これらの演出によりプレイヤーは遠くから主人公のことを心配し見守る父と家で大きな愛を持って子供を待つ母を感じることができる。

僕自身この演出に主人公と自分を重ね合わせて、家族ならではのほっとする感覚を覚えたことを記憶している。セーブをするとなんとなく温かい感覚が沸き起こった、必要がないのに主人公の家に帰っていた、そんな方も多いのではないだろうか。

ここまでで、本作は親と子供との関係を描くというゲーム史上稀な等身大の温かいテーマで作られたこと、それを見事に演出する絶妙なセリフや仕掛けがあることが分かっていただけたらと思う。

 

では、ファザコン、マザコンゲーなのかと言えば、そうではない。

僕が本作から見出したメッセージ性を挙げると、親の愛の他に、勇気、かけがえのない仲間、思いやり、人とのつながり、人を外面ではなく内面で見るなどがある。そのようなメッセージを得られたのは、プレイする子供達に大切なものを伝えたいという作者の思いがあったからだと推測する。

きっと親子のつながりだけでなく、RPGという冒険を通して成長して欲しいという親心があったのではないだろうか。

僕がそう考える理由は先に述べたテーマに加えて、作中に登場するテキストメッセージをスクロールして見せる独特の演出があることだ。

分かりづらい方はスター・ウォーズのオープニングを想像してもらえると良いかもしれない。作中「コーヒー」、「お茶」を一服すると突然画面が切り替わり文字が流れ始めるという唐突な演出に、当時子供だった僕は面食らった思い出がある。

この演出は主人公に向けて発信されるが、プレイヤーに壮大な冒険を想像させ、大切なことを伝える効果がある。そして彼らを勇気づけ励ますのだ。

あえてキャラクターのセリフではなく作者からのテキストメッセージにしたところに、どうしても伝えたいという思いと、プレイヤーを励ましたいという糸井氏の愛を感じる。

これを読んで、本作はメッセージ性がくどいゲームなのかと思った方もいるかもしれないが、むしろ解釈をプレイヤーに放り投げるスタンスをとっている(糸井氏談)。

その例として、ドラクエなどでお馴染みである主人公が喋らないことはもちろん、仲間も仲間になったときとエンディングぐらいしか喋らないことが挙げられる。

起こった事柄について、仲間がとやかく感想を言ったり、解釈を促したりしない。その他のキャラクターのセリフが参考になることもあるが、何が正しいと考えるかはプレイヤーに任されているのである。

このことが、本作の随所に見られる解釈に悩むイベント、ステージ、ラストの演出の意味合いを想像する楽しみを与えてくれ、本作プレイヤーの醍醐味の一つになっている。

 

次の特別感の要因として、個性豊かなキャラクターとセリフがあるが、考察する上で重要な三つの要素について触れておく。

第一の要素として糸井氏がフィクションの設定が的確だった事実を抑えておきたい。それは、現代に生きる子供との関係を表すために現代の町という舞台を用いたことだ。

本作の設定は199X年、アメリカ風の田舎町が始まりの舞台だ。糸井氏は、RPGにありがちな「剣と魔法で世界を救う」という伝統的な世界にゲーム制作の動機を見いだせず、描きたい世界、作りたいものが先にあって、それを表すためにRPGという仕組みを使うべきだと思ったと述べている。

剣と魔法の世界ありきで表現したいものを考えるのは本末転倒なのである。まさに設定が適切であり、メッセージが正しくプレイヤーに伝わったことは前述の説明で分かっていただけると思う。補足として、現代の町を舞台にしているが、主人公達は超能力を使えることや、架空の生き物、世界が登場するなど現実に忠実というわけではない。

 

第二の要素としてクリエイター陣がプレイヤーの感情を揺さぶることに徹底的にこだわって作ったということがある。本作はプレイヤーを楽しませる、驚かせる、泣かせる、ほっこりさせる、不安にさせるなどの心を刺激する遊びや仕掛けがふんだんに盛り込まれている。

そして、特に重要なことはクリエイターが生の感覚を大切にしたということである。生の感覚とは現実で味わったことのあるような、リアルな感覚ということだ。このことが、本作の世界観、キャラクター、セリフ、演出、音楽、システムすべてにおいてMOTHER2らしさとして現れる鍵だ。

 

第三の要素として子供目線で作られていることが挙げられる。本作の主人公は12歳であり、子供のプレイヤーが感情移入しやすく主人公に自分を投影して冒険することができる。

私自身の小学生時代プレイした記憶を思い起こしてみると、主人公に自分の名前を付け、主人公の体験を自分のものとして感じ、そこで味わう感情を自分の感情として捉えていたことを覚えている。また、本作は童心をくすぐる仕掛けにこだわっている。

主人公の武器は野球のバットであり、敵は恩知らずな犬から、不審者、暴走車、女性が見たら悲鳴をあげそうなものまで身近なものを題材にしたあらゆるものが登場する。そして、夢の大冒険を演出するために、自転車やバスはもちろん船に潜水艦、UMA からUFOまでいろいろな乗り物に乗ることができ、世界中を旅する。

個人的に最も秀逸だと思うのは、地底大陸のフィールドの演出である。二次元鳥瞰型のマップで主人公たちを豆粒サイズの縮尺にすることでモンスターのサイズをバカでかく感じさせる演出は楽しいだけでなく発想に舌を巻く。

ひたすら温泉に吹き上げられていたのは良い思い出だ。この仕掛けの数々に子供は自分自身の旅を想像しながら、大人は過去の自分を思い出しながら、あるいは自分の子供を重ねながらMOTHER2の世界に引き込まれるに違いない。

 

三つの要素を確認したところで本題に戻る。個性豊かなキャラクターとセリフを、お気に入りのシーンを参考に紹介したい。

それは主人公を導くヒーローが友人のママに一撃で殺られるシーンである。まず、ヒーローはハエかカブトムシかよくわからない表現をされてはいるが、主人公を襲いに来た宇宙人を圧倒的な力の差で倒す、がしかしママに「キイイー!こうるさい便所バエだよ!死んで地獄へ行け!!」とはたき落とされ絶命してしまう。

このヒーローがハエかカブトムシかよくわからない感じは現代社会を舞台にしているからこそである。実際どんな姿をしているかは不明だが、ハエやカブトムシと表現されておりプレイヤーはハエとカブトムシを想像しその百歩間違ってもヒーローにならなさそうな小ささ、虫っぽさ、ちょっと不潔な感じを鮮明に思い浮かべることができる。

これこそが生の感じでありその違和感が面白く魅力的なのだ。しかしこれがファンタジーの世界が舞台なら、ハエやカブトムシとは表現できず、虫と表現してしまえばイメージが貧弱だし、そもそもファンタジーの世界だからそういうものなのかと納得してしまうかもしれない。

次に友人のママに関して言えば、このセリフの字面だけで笑えてくるのだが、この「ママが便所バエを見つけた感じ」は現代社会ならではだ。

ハエはママを脅かす天敵であり、ママは便所バエを見つけると殺さなければならないという使命感に駆られてしまう。プレイヤーはこのママの内に湧き上がる感情と光景を想像でき、いきなり頼もしかったヒーローがママに殺られる衝撃と理不尽に殺されてしまったこと対するショックを受けつつも、便所バエに見えたのなら仕方ないと社会の摂理を感じてしまうのだ。

これらの生きた感覚があるからこそクリエイターの遊び心が光るこの一幕にプレイヤーは絶大な衝撃と面白さを感じるのである。

そして虫やママといった子供の世界にお馴染みの題材を用いることで子供でも直感的に理解できる。人の心を揺さぶるには、感情移入する対象や出来事が自分と同じ価値観、背景を持っているかが重要だ。

本作で擬人化したサルやネズミに感情移入できるのに対し、少なくとも同じ倫理観をもっていなさそうな宇宙人に感情移入できないのはそのためだ。

それを最適なフィクションの設定と追求方法で作り込んだ本作が面白いのは必然だろう。ついでに補足しておくと、このあとママに話しかけてもこの出来事についてまったく触れない。これが、解釈をプレイヤーに放り投げるという本作の見事な余韻である。

 

ここまで子供に向けたテーマや子供目線を取り上げてきたことから、子供向けのゲームという印象を受けたのではないだろうか。

実際、子供の頃にMOTHERというタイトルや可愛らしいキャラクターデザインから子供っぽさを感じ友達に紹介するのが恥ずかしいと思っていた記憶がある。

しかし、子供目線であることと幼稚であることは違う。本作のキャッチコピーである「大人も子供もおねーさんも」は伊達じゃなかったということを大人まで楽しめる登場キャラクターやセリフを取り上げて説明したい。

まず、町にいるなんでもないキャラクターひとりひとりに個性を持たせてセリフが作り込まれており、人に話しかける楽しさが本作の魅力だ。

主人公を子供だと思って見下しているサラリーマンや、同性愛者の子供、無口な人、みすぼらしい人、才能を秘めた社会的弱者など、本当にこんな人いるよねと思う瞬間がある。

僕が印象深いのは、道に通りかかると世界を汚れないものにするためにという理由で寄付を求めてくる女性だ。寄付に応じると絵はがき(使い道のないアイテム)を渡してきて「幸せになりますよ」と言われ、断ると「付きまとってやるぞ」と脅してくる。

これは子供ながらに恐怖を覚えたが、大人になり多くの人が味わう宗教勧誘の不気味さと人間の怖さを見事に表現している。

余談だが当時自分は宗教活動という認識がなく寄付しまくっていたが、兄に忠告されて気づいたということがあった。また、都会のビルに「立派なオフィスで働く私はエリートです。」という男性がいるのだが、この冗談の憎らしさと痛さは大人にならないと分からないだろう。

この現実を絶妙に切り取った生の感じは本作ならではの面白さだ。本作は、社会における子供の弱さや、人の多様性をありのままに描いている(糸井氏談)。そうして世の中の怖さや矛盾などを生の体験として受け取り、考えることができる。

 

さらに、本作はキャラクターの幅も広いけど奥も深いと感じさせる例として、RPGでよくある「いいえ」と返答した場合、お金が足りなかった場合、アイテムがいっぱいだった場合、仲間がいないの場合のセリフなどまで用意されていることがある。

そのことをなんと町のおばあさんが説明してくれる。

「うちの孫は『マザー2』っていうゲームをやってるんだけど 今(主人公)がツーソンの町のただのばあさんに話し掛けてるところさ。あんまり重要じゃないセリフも細かくフォローしているところがあのゲームのいいところらしいねぇ。」

このメタ発言自体がまず面白いが、マザー2をやっていると言うキャラクターが作中に結構登場し、作者が自分で自分のゲームを宣伝するガツガツ感が笑いを誘う。

そしてビデオゲームをする人物がいてもなんらおかしくないところに現代という舞台設定が活きている。ウィットに富んだキャラクターやセリフの面白さは大人になってから分かることが多かった。これらのことから、世の中が分かってくると本作をより深く味わうことができるのではないだろうか。

 

ここまで、本作の特別感をメッセージやセリフを中心に考察してきたが、音楽や戦闘システムのクオリティの高さも触れずにはいられない。

本作は名曲が多いことで有名であるが、ゲーム音楽と言えばクラシック風という既存の慣習にとらわれない幅の広い音楽性が魅力だ。本作が最も好きなゲームであるだけでなく、最も好きなゲーム音楽は何かと聞かれたら、MOTHERの曲と答えるだろう。

ここでは、曲についての批評ではなく、本作の特異な点という意味で効果音の秀逸さについて述べる。

曲が好きなゲームはあっても、効果音が好きだというゲームはなかなか無いのではないか。本作は音で感情を刺激することにこだわりが感じられる。

まずはなんと言っても、冒険の始まりの名前入力で決定すると「OKですか?」と聞いてくる衝撃は忘れられない。これからの始まるMOTHER2のプレイに胸が高鳴った記憶がある。ちなみに声は糸井氏のものである。

メニューを開閉する音、選択する音、ドアを開ける音などどれも他のゲームとは異質で癖になる。特に本作の戦闘では効果音が感情の機微を刺激する大きな役割を果たす。

SMAAAASH!!の文字が浮かびクリティカルヒットを与えたときの音が手応えを感じさせ、致命的な一撃を受けたときの音が緊張感を一気に高める。

レベルアップの効果音の透明感と新しい技を覚えたときの華やかな音は心地良い。

これらは普通なことに感じるが本作ほど魅力的な作品はあまりない。重要なセリフを聞いたときに流れる音の不気味さはなんとも言えない怖さを演出し、当時はトラウマだった。

個人的にはバンッと言うメニューの開閉音がとにかく大胆で好きだ。以上、感想の羅列になってしまったが、本作の楽しさの重要な要素であることが伝われば何よりだ。

 

そして、RPGと言えば戦闘は欠かせない、本作はシンボルエンカウントおよびドラムカウンター形式と呼ばれる一風変わった戦闘システムとなっている。

これが、ゲームに慣れない人でも難しすぎず、かと言って簡単すぎない絶妙なゲームバランスを生み出した重要な点である。わざわざこのことを取り上げるのは、前作のMOTHERは難易度が高く、敷居が高いと言われていた背景があるからだ。

前作は当時のRPGで一般的だったランダムエンカウント方式およびコマンド選択式ターン制バトルだった。

前作はエンカウント率が高く、戦ったら負けと言うほどの強敵が所々にいるシビアな難易度であり冒険序盤で挫折した人も多かったと思う。キャッチコピーである「大人も子供もおねーさんも」遊べる難易度にするために、戦闘システムの変更が最大の課題であっただろう。

本作の戦闘システムの二つの特徴のうち、まずシンボルエンカウントについては、敵が画面上に見えるので強敵との戦いを避けることができるというメリットがある。

さらにこのシステムを面白くしたのが、接触方向によって先行後攻が決まるという点だ。敵の背後をうまく取れば有利に戦うことができ、反対に逃げていると背後をとられて不利な状態から戦闘が始まる。後ろから迫る敵に追い詰められ、観念したときに覚悟を決めて振り返る一瞬の悔しさは本作の風情である。

そして、ドラムカウンター形式については、基本的にはコマンド選択式ターン制バトルであるが、ダメージを受けたとき、回復したときに、一瞬でHP(ヒットポイント)が変わるのではなく、スロットのように数字が徐々に増減していく方式だ。

これにより、HPが0以下になるような致命的な攻撃を受けてもすぐには戦闘不能にならず、減少中に素早くコマンドを選択し回復が間に合えば戦闘不能を免れることができる。

逆に、回復も時間がかかるので、コマンド選択画面で回復しきるのを待つという戦略性が生まれる。ターン制バトルでありながらアクティブタイムバトルのようにコマンド操作中も戦闘時間としての性質を持たせることでプレイヤーの緊張感が持続する。

さらにHPを超えるような大ダメージを許容できることにより、ボス戦などでは常に瀕死と回復を行ったり来たりするギリギリの戦いが可能になり、スリリングな戦闘を楽しむことができる。

 

最後に、本作は子供との関係という身近で切実なものをテーマにしゲームという媒体を通してプレイヤーにメッセージを伝えるために表現に徹底してこだわって作られたという点で芸術的である。

この芸術作品を最大限に楽しむためには、課題をクリアし、レベルを上げてボスを倒すというクリアすることを重視したプレイから、クリエイターがプレイヤーの感情を揺さぶるために用意した遊びや仕掛けを積極的に見つけ、何を伝えたいのか、なぜそうしたのかを考えることを楽しむ作り手とのコミュニケーションを重視したプレイが大切なのではないだろうか。

 

―――――

J1N1の「ゲーム批評」批評

 

この企画に寄せられた無数のゲーム批評の中で最もゲームへの愛を感じたのは、あめさんの『MOTHER2 ギーグの逆襲』への批評である。

では具体的に何をもって「愛」と言えるのか?「尊い」とか「神」などと連呼することなのか、そのゲームのグッズにお金をつぎ込むことなのか。文面でいたずらに作品の美しさを讃えることか。

 

答えはこのあめさんの批評のように、作品が伝えようとしていることをよく聞き、よく見て、よく知ることだと思う。どんな些細なセリフも諳んじられるのではないか、という作品への徹底的な理解。「論より証拠」ではないが、彼の『MOTHER』への愛は本物だと納得せずにはいられない。

そして作品の在り方をただ盲目的に崇拝するのではなくて、その作品を通して自分は何を感じ取ったのか、どうしてこの要素が優れているのかを、しっかりと伝えることができる。

その本質はコミュニケーションと同じだ。他者を尊重するとは、他者の話をちゃんと聞いて、それが一体何を意味するのか推察し、そこに敬意を払える能力のことである。そして、そういう人間同士の共同体は必ずうまくいく。

だが心しなければならないのは、その「愛」は決して誰もが心がけで手に入るものではないことだ。コミュニケーション能力が一朝一夕で手に入らないように、作品への本当の愛情、作品を尊重する一方で、客観的に捉える姿勢は、人が生まれながら持ち合わせているものではない。

 

いくらお金で何かを貢いでも、いくら情熱的な言葉をかけても、愛は手に入らない。相手の愛はもとより、「自分が誰かへ投げかける愛」でさえ。