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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

FPSの面白さとは何か -ベルクソン哲学とFPS

ゲーム業界について

Destinyalphaandbeta.jpg FPSは面白い。 本ブログを訪れてくれる人ならまず肯定してくれるだろう。 では、FPSの何が面白いのか。 これについては、私は考えることが殆どなかったことに、最近自覚し始めた。 それでも、私はFPSを何年も遊び続けてきた。だからこそ、自信を持って言えることが、 数あるゲームの中でも、FPSというジャンルそのものが、他にはない魅力を秘めている。ということ。

20年間も遊ばれ続けているのに、これだけ同じ形式、構成で遊ばれているのは、FPSというジャンルが普遍性を持っているからだと思う

では、何がFPSの面白さなのか、何故他の作品と競合しても尚、同じ形態を留めていられるのだろうか。 それはFPSの面白さが「ベルクソン哲学」に通ずるものがあり、彼が描いた人類と道具の関係が、ゲームシステムに落とし込まれているからだと私は思う。

唐突にそう言っても「ベルクソンって誰だよwwww」という人も多いと思うので、まずはFPSのシステムから見直していきたい。 もし本稿を読んでFPSの原点に立ち返り、その魅力を再確認していただければ幸いである。

 

FPSの面白さ=「道具」を扱う面白さ


さて突然だが、以下の二作を見比べてほしい。 どこが異なるか、おわかりいただけただろうか? B0088lg.jpg ↑国民的アクションゲーム『スーパーマリオ FPSの始祖として知られる『Half Life 000000180x1080.jpg

なになに、「三人称視点と一人称視点で異なる」…と。確かにそれも大きい。 では、その視点の違いによって、プレイヤーはどのような影響を受け、特に画面のどこを注目するだろうか。

例えば、『スーパーマリオ』をプレイする人間は画面のどこに注目するか。 もちろん、あのヒゲを生やした配管工、マリオに注目する。恐らくプレイヤーはプレイ時間の8割を、マリオのヤッフゥゥゥと跳躍する様を見ながら過ごすことになる。 では『Half Life』をプレイする人間は、バールを握りしめたゴードン・フリーマンのヒゲに注視しながらプレイするだろうか。 いや、プレイヤーが注視するのはフリーマンではなく、画面の右下に映るMP7という「銃」だ。

そう、「主人公」でなく「主人公の道具」を操作することこそ、他のゲームとFPSの一番の違いなのだ。

これまでの多くのゲームは、『スーパーマリオ』のように「主人公」を操作することで遊ばれてきた。 しかしFPSでは、「主人公」の代わりに「主人公の道具」である銃がプレイヤーの目に直接触れることとなる。 ここがTPSと異なる点であり、例えばTPSの銃は「主人公」の手足の一部であって、我々の視界に直接映るのは「主人公」そのものである。

FPSでは我々は「主人公」と同格の存在となりながら、代わりに「主人公の道具」たる銃こそが、作品で我々を誘う水先案内人となるのだ。

Half Life』のように主人公が完全にプレイヤーど同一化するものもあれば、『DukeNukem3D』のように主人公がプレイヤーに視界と肉体を貸与するゲーム等、 「主人公」の扱いに差はあるにせよ、「主人公」はプレイヤー側の案内人であり、銃こそがゲーム側の案内人となる。

この「人間」と「銃」の「ちょっと不均等な二人の主人公による物語」こそ、FPSの醍醐味だ。

そして不均等な二人の物語は、小説では古今東西で愛されており、古くは騎士と従者の「ドン・キホーテ」、最近では探偵と助手の「シャーロック・ホームズ」が挙げられる。 その小説における定番パターンを、見事にゲームという媒体に落とし込んだジャンルこそ、FPSの真の魅力だと思う。

DOOM0051.png ↑画面の中央下で、新たな「友」を見つけて狂喜するDOOMGUY。

 

「道具」を扱うことで人類は発展したと主張する哲学者、ベルクソン


これらの魅力を踏まえた上で、更なるFPSアイデンティティに迫っていこう。

まず、FPSといっても、ただのゲームの1ジャンルであり、同時に文化の一部に過ぎない。 それは同時に、FPSも他の文化に支えられて作られているのであり、文化とは人類の価値観の粋である。 故に、FPSの本質を掘り下げるには、FPSを包摂する文化一般と対比させる必要があるだろう。

そこでまず、二人の哲学者による、人類と文明の定義を参考してみよう。 ホイジンガに言わせれば人類は「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」であり、自由な精神に基づく遊戯によって、人は人間性そのものを見出し、文化を創造する動物だという。

また、ベルクソンに言わせれば人類は「ホモ・ファーベル(工作人)」であり、道具を考察して生産し、それを用いて別の物資を生産する、二重の生産を行い、文化を創造する動物だという。

そしてこの二つの人類の定義を、人類の文化たるメディアに落とし込んだ作品こそ、私は他ならぬFPSだと確信している。 さて、前者「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」ならばゲーム全般に当てはまることだろう。

特にゲームは、映画や小説と異なり、プレイヤーが直接操作し物語に触れるなければならないことは、正に「自由な精神に基づく遊戯による文化の創造」と言える。 例えば、『ドラッグオンドラグーン』をプレイして人類に絶望する者もいれば、『Civilization』をプレイして歴史の偉大さに歓喜する者もいる。

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プラグマティズムの権威、アンリ・ベルクソンプルーストサルトル等、彼に影響を受けた人文学者は数知れず。

さて、それにプラスして、FPSと他のゲームを画する点、それが「ホモ・ファーベル(工作人)」という人類の定義だ

この観念を生み出しノーベル文学賞の受賞したベルクソンについては、長くなるので割愛するとして、「ホモ・ファーベル」について述べた『創造的進化』という彼の著作を紹介しよう。 『創造的進化』とは、ベルクソンダーウィンの『種の起源』に影響を受け、『種の起源』で語られた人類の進歩について、更に奥深く語った書物である。 そこでは、我々人類が進化してきた力の根源は、沈黙する無機物的な知識や肉体といった物質と、雄弁でありながらまだ謎の多い精神の、両立によるものと彼は語る。

更に要約すると、 サルが腕を使ってリンゴを取ったり、キリンが首を伸ばして高い木の草を食むように、動物は知識や腕といった「道具」を本能のために利用する。 しかし、人間はその知識や腕の「道具」を使い、そこからノコギリやハンマーといった「道具」を”二重に”生産し、利用できる。 そして人間が二重に生産できる能力の根源こそ、「精神」という不可思議な器官にある。という考えだ。(もちろん多くの内容を割愛した。興味ある方は本著をどうぞ)

 

(知性とは)「道具を作るための道具を製作し、その製作を無際限に変化させる能力である」 「完成した本能は有機的組織を道具として使用し、そうした道具を作り上げさえする能力であり、完成した知性は無機の道具を製作し使用する能力である」 -『創造的進化』 ベルクソン

 

ここで何より重要なのは、ベルクソンが精神と肉体は切り離された、孤立した個々の存在としたことだ。

ベルクソンの時代には近代の科学が普及し、「精神」という存在が曖昧なものは否定され、「肉体」こそ万能であり人類の全てとする考えも敷衍していった。 それならば、我々が善き人間であろうとするのは、生存本能のためか? 我々が恋愛を求めるのも、生存本能のためか? この唯物論と観念論の論争は今でも続けられ、止むことはない。

いずれにせよ、ベルクソンの主題は「たかが道具の肉体」を支配するのが「目に見えない精神」である。という二分論であり、

FPSでは、銃が突然喋り出したりして道具の範疇を出ることもなく、主人公が画面に映る等して精神の範疇を出ることもない。(例外はあるが) その道具と精神の明確な区切りと、区切ることでお互いの短所が一層強まり、お互いを更に求め合うことこそ、FPSの醍醐味だと思うのだ。

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ベルクソンに言わせれば、腕の部分までが「道具」です。

 

ベルクソンの定義を、システムから浸透させ、面白さに落とし込んだFPS


さて、話が少し逸脱してしまった。 ここで先述したベルクソンの「ホモ・ファーベル」とFPSを照合してみよう。

「ホモ・ファーベル」はつまり「道具」と「道具を支配する精神」の二つが支えあうことこそ、人類が文化を創造した根源であるとする考えだ。 あくまで「道具」は沈黙した無機物な存在であり、「精神」は雄弁だが生の飛躍にささえられた透明な存在。 それはまさにFPSのコンセプトそのものではないか。

我々は「主人公」という画面に映らない透明な存在となり、「銃」という沈黙した友を支配することで、作品からカタルシスと快楽を得る。

それは「主人公」と「銃」の決してお互いに離れることの出来ない二人が、「道具」と「精神」の両立によって進化したとする「ホモ・ファーベル」の考えと合致してると、私は考える。

例えば、「銃」は破壊力があって、画面の中央に鎮座して存在感を放つが、「主人公」によって引き金を引かない限り、敵を倒すことが出来ない。 一方、「主人公」には我々の持つ、狙いを合わせる技術や引き金を引く技術を持つが、「主人公」一人では技術を画面内に反映させることが出来ない。

故に無色透明な精神である「主人公」は画面の外から「銃」に語りかけ、沈黙していた「銃」は「主人公」の意志に応えて、鉛球で敵を斬り裂く。

勿論、「銃」は不器用で沈黙した友であるから、何度もリロードする必要のある友、強力な弾頭で戦車もふっとばす友、それぞれいるだろう。 故に、「主人公」は己の知能で「銃」を選び、友の持つ長所と短所を理解して使い分けなければならない。

互いの存在なくして、決して物語を進める事はできず、不均等な二人が何とか徐々に心を通わせ、ようやく辿り着く終幕と別れ。

この沈黙する者と雄弁な者が、互いに手を組んで戦うゲームを、「ホモ・ファーベル(工作人)」的なゲームと言えず、なんと言えようか。

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COD4屈指の名シーン。ラスボスを倒すのは、「上官」でなく「上官から渡された銃」だった。

こういうと、あまり哲学等に興味が無い方は、哲学とFPSという組み合わせに、少々面食らってしまうかもしれない。

しかし、ベルクソンの哲学自体が、人類全てを普遍的に述べた、大変に広大な哲学である上に、 彼の発想は、あのダーウィンの『種の起源』や、アリストテレスの『形而上学』から得たものであり、 人類の文化全てを研究する哲学と、人類の文化のコンテクスト上にあるゲームは、決して相容れぬものではないと思う。

FPSベルクソン哲学のエッセンスを、システムから抽出したことが、偶然の産物であっても、ベルクソンがこれ程に広範な哲学を述べているのだから珍しいことではない。 またベルクソンの考えはプラグマティズムの一部とされ、デューイやミードといった類似する考えを持つ哲学者も多くいるので、そちらも参考にしてほしい。

勘違いしないで頂きたいのは、私は「実はFPSベルクソンの弟子によって作られたんだよ!」と言いたいのでなく、 「文化のコンテクスト上にあるFPS」は、「文化の創造を研究したベルクソン」という師匠の考えに通ずるものがあり、そこからFPSの新たな魅力が見いだせるのではないかと問いたいのである。

さて、流石にFPSの本質に立ち返る。ということで、かなり長くなってしまった。 初代FPSのWolfensteinの販売から約20年経過しても、未だゲームマーケットの真っ只中で注目を浴び続けるFPS。 個々の作品が語られることが増えてきたが、反比例するようにFPSの本質について語る機会はあまりなかったと思う。

だからこそ、自分の10年近いFPS人生におけるマイルストーンとするためにも、執筆させてもらった。 ここまで長々と付き合って下さった方に感謝。

 

KennyMIX


ここまで読んでくださった方、本当にお疲れ様でした。