ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

何故くだらない政治議論を繰り返すのか。ルールの自覚とTwitterの罠

 

総論:  昨今ネット上で政治を論ずる機会をよく目にするが、その多くは議論というゲームを意識しない発言であり、議論のルールに従って発言すべきである。  また、TwitterのRT等のネット上の様々な機能は、他者によって他人の発言のために利用されることも多い。自分だけの人格を維持する自覚が欠かせない。  ルールを守り、個人は集団に巻き込まれやすいことを自覚すれば、自分が発言するだけでなく、他人の主張を聞く上でも充実した議論となるだろう。

さて、普段はゲームについてばかり語っているが、本稿では少しばかり世俗を顧みた話をしようと思う。 私はここ数日、ある出来事に関心を寄せていた。「安倍政権による集団的自衛権の閣議決定」である。 だがそれ以上に興味を引いたのは、この閣議決定におけるネット住人の反応だ。

率直に言って、現状あらゆるサイトで散見される意見に関して言えば、思想の傾倒問わず「論外」というほど酷い代物だった。

もう右翼左翼関係なく、論理の飛躍や文法の欠如、何よりほとんどが他人への誹謗中傷というのはさすがに「論外」という他ない。 私は政治を語る人は好きだし、政治そのものも大好きだ。だからこそ、彼らの政治思想の如何に関わらず、政治の会話は好きだ。では何が「論外」たらしめているのか。 要するに彼らは無知すぎるのだ。純粋に知識量が少なくて論理は飛躍する、議論における道徳を知らないから誹謗中傷する、といった具合だ。

もはや、彼らは最初から政治に興味などなく、或いは興味はあれど知識を得る術を知らないがために、ただの暴漢と化しているのである。 私は政治も学問も好きだ。 だからこそ、「自分が知識に触れている」という責任もなく、集団に巻き込まれている自覚もなく、大好きな政治が論じられているのは慙愧に堪えない。

そこで、彼らが具体的にどのような基準でもって暴漢たりうるのか、また、なぜ彼らが暴漢となってしまったのか。 我々がSNSと向き合う上で、必要な心がけについて論じていきたい。

 

 

ルールを守ろう


唐突だが、今ネット上で散見される、多くの意見は聞く価値の全くないゴミである。 もしあなたが、ネット上の誰かと議論する中で、違和感を持ったりしても、それは全く問題ないことだ。 何故彼らの意見もなしに、そんなことを断言できるのか。

それは簡単、彼らが「ルールを守っていない」からだ。

ルールを守っていない以上、ネット住人の主張を主張と認めることは出来ないし、彼らの議論が成立することもない。 さて、ここで彼らの集団的自衛権を巡る罵詈雑言を取り上げ、私の六法と判例集で逐一反論してもいいのだが、 ここはあえて、そんな瑣末な部分でなく、なぜ彼らの意見が「ゴミ」なのか根本的な点に触れていきたい。

あなたが複数の友達と集まって、サッカーを遊んでいたとする。少なくとも、味方チームの中に、自分より下手な友達が一人くらい混じっているかもしれない。 そこで、その友達が試合中にミスを犯しても、あなたが友達にマジギレすることはないだろう。 しかし、もしその友達が自分のみぞおちを殴り、ボールを奪ったとするなら、大抵の人間は怒るに違いない。

要するに、どんだけ下手でもいいけど、せめてルールはちゃんと覚えるのが、相手と何かやり取りする上での最低限のマナーということ。 これは学問、ひいては議論の場でも全く同じではないだろうか。

最低限、「立場、根拠、結論」に合わせて独自性、それから罵倒しないとかの最低限のマナーあって、初めて議論は成立するのだ。 こういうお固いことを言うと、所詮はSNSなんだからいいじゃん。と思うかもしれないが、 仮に友達と深夜で遊ぶ草野球であっても、ルールを無視するような友達と遊びたいか? と私は思う。

逆に言えば、いくら政治や議論と言っても、気軽に楽しめるゲームとも私は思っている。(おまけに、知識や見解といったお土産も手に入る!)

 

もちろん、これは正式なディベートではないのだから、本格的にルールを決める必要はない。

しかし、自分で集めた知識で、自分で考えたロジックで、相手の言葉に耳を傾ける。それぐらいはコミュニケーションする上での最低限のルールではないか。 その上、「立場(肯定か反論か)、根拠、結論」程度なら、140文字以内に十分まとまるものでないか。

例えば、「(集団的自衛権に反対するデモ集団の画像と一緒に)子供をデモに参加させるな」というツイートがあった。 このツイートの目的は何だ。デモ集団の誹謗中傷以上の目的があるのか。子供をデモに参加させるべきでない根拠は当然記載されていない。 他には「戦争やだよー。女子も戦争に行かなきゃいけないって。まだ死にたくない」なんてツイートがあった。 これは目的はまだしも、根拠を見事に踏み倒している。徴兵と集団的自衛権の因果は何一つない。個別的自衛権でも徴兵はありうるし、根拠がなければ主張が成立しない。 芸能ニュースではなく政治やモラルを論ずるなら、学問に相応しいルールに従う必要がある。

ホッブズ、ミル、ロールズ等、幾多の先人が築いた神聖な学問に、ゴシップ感覚で口を出せば、自分の価値観もそのゴシップ同然に腐ってしまうからだ。 ルールを破るならまだしも、ルールや様式を認識しないままに、フィールドに上がり込んで暴れまわるなど論外である。

まずは自分の主張を持ち出し、それから相手の意見との相違を吟味する。そこで明瞭に落ち度があって、初めて相手の過失を追求するのがディベートだ。 遊戯王ではないが、ルールに従ってお互いマナー良く遊んだほうが、少なくとも自分にとっては有意義である。

 

Twitterは無意識のうちに個人を包摂してしまう

まぁ、ここまではリアルでもよくあることだ。 文脈のなき当て付け同然の主張や、極度の政治アレルギー、根拠も敬意もない批判。 そこまでなら、あえて記事にする程のことでもないのだが、ネット上の何よりの特徴といえば、右翼左翼の二極化だ。 普段、政治の発言に興味がない方でも、この二極化に疑問を抱く人が多いことと思う。

その中でも顕著なのがRT(リツイート)機能だろう。 恐らくこの記事を読む人には説明するまでもないだろうが、他人のツイートを無断で引用し、かつ他人の名義まで引用するという 先ほど述べた「立場、根拠、結論」を全て放棄し、薙ぎ倒すような画期的な機能である。

かつてネットで「①嘘を嘘と見抜けず鵜呑みにし、②それをネット上やリアルで口にしてしまう」という通説があったのだが このRT機能によって、①と②の手順を同時に行うことが出来るようになってしまった。

これは、安易な発言を増やすに留まらず、個人と集団の境界を極限まで瓦解させ、偽物の一般意志を形成する要因となっている。 RT機能で何より危険なのは、自ら都合のいいツイートをRTするほど、個人の意見は、無責任な集団の意見に塗り替えられ、個人としての人格が薄まっていく点にある。

これは民衆の意見が、集団によって二極化するに留まらず、政治意見をする民衆にとっても、人格を無意識のうちに削られるわけで、大変危険な過程といえるだろう。 RT機能は確かに楽である。わざわざ意見を構築する手間もなく、更に誰かから反論される責任もない。 あるツイートが1万回RTされていれば、それをRTすることで自分も1万人の一部となり、自分の主張はより強固なものとなったと感じるだろう。 しかし、それは錯覚である。

RTは、本人の思考が一切存在しない一方で、「自分の主張」として他人の主張に支配されていることを、わざわざ示すようなものである。

引用とRTを決して混同してはいけない。RTには何の目的も、労力も、何より自分にとって得るものは何もない。 「たまたま」自分のTLに流れてきて、「たった」1クリックで発言してしまう内容と、 自分から図書館やシンポジウムに赴き、メモに何度もペンを走らせた内容、 あなたはどちらを良く記憶しているだろうか。

そして、あなたがRTした内容を記憶していない一方で、あなたのTwitter上の友人もまた、そのツイートを一瞬だけ記憶し、RTすることだろう。 あなたは結局、この「他人に記憶してもらう」ためだけに利用されたにすぎない。

更に言えば、あなたを利用して肥え太った、1万RTの勲章を胸に携えるツイートは、1週間もすればネットの海に消失するだろう。

決してRTに便乗しているのではなく、むしろRTに便乗されている。という考えを捨てるべきでない。 それでもRTするのなら、自分の人格を預けられる程に信頼できる集団のツイートを、RTするべきだ。

あなたの貴重な時間は、集団の中で蠢く亡者に奪われ利用されるには、あまりに惜しい資源なのだから。

英国のロマン派、ジョン・マーティン作。人とは常に呑まれる運命にあるのだろうか。

 

総論


さて、いかがだっただろうか。 普段からSNSに触れてる方にとって、これらの現象は意外と身近なものだったかもしれない。 しつこいようだが、私は政治が好きだ。 それ故に、私の好きな政治で暴言を吐いたり、RTでもって集団に居座るのは、あまりに惜しいと思う。 次回は、逆に政治を学ぶ上でのメリットや意義について論じていきたい。 少々きな臭い話題となってしまったが、最後まで読んで頂いてありがとう。