読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

カフカの『変身』から考えた、オタクの「クソみたいな続編」との向き合い方

芸術/映画/文学 エッセー

f:id:arcadia11:20140925213503j:plain

 

 

 

 

 

うーん…、記事用に『COD:Ghost』を軽く遊んだけど、やっぱり微妙なゲームだ。続編として期待すると、コレじゃない感がすごい。

『Ghost』に限らず、ゲームなり映画なり、カルチャーに携わる者の宿痾として、「続編に裏切られる」ことは避けては通れない哀しみなのだろう。

先日紹介した『GameLife』氏でさえ、この哀しみと怒りは痛感しているという。

 


 

 だが中には、愛着どころか嫌悪感すら抱いてしまうような作品が存在する。それは過去の作品の価値をも落としてしまうような続編だ。これは漫画や映画などに も共通することだが、大抵の場合続編というのは売る側の理屈によって無理やり作られるので、作品世界に歪みを作ってしまうことが多い。「あそこで終わって いれば傑作だったのに」というパターン。

  -blog

 

 


ところが最近、そうでもないように思えてきたのだ。

確かに、シリーズというブランドを用いて、商品を喧伝しているのだから、つまらない続編はファンの信頼を濫用してる点から、開発者は非難されるべきだと思う。

しかし、いくら期待していた続編がつまらなくても、「ガッカリ」する、失望する必要はないと思う。

文化を楽しむ者なら、クソな続編に「まぁ仕方ないね」と、サラッと流せるような器量、それが必要だと思うのである。

彼の文脈に合わせれば、「あそこで終わっていれば傑作だったのに」という失望を抱く必要はないのではないか?ということだ。



そう思ったのは、たまたまカフカの『変身』を思い出したからだ。

  1. 朝起きて、もし自分が芋虫に「変身」したらどうする?
  2. 「変身」を日本語訳すると「成長」or「中二病
  3. あなたの親が「変身」したらどうする?
  4. 妹の「変身」
  5. 「変身」はハッピーエンド
  6. 結局、「変身」とは何か
  7. オタクと「変身」

 


朝起きて、もし自分が芋虫に「変身」したらどうする?

 

 

 

f:id:arcadia11:20140925213553j:plain





カフカの『変身』は古典としても有名で、短編なので親しみやすい作品だが、せっかくなのでストーリーを紹介しよう。


 主人公グレーゴル・ザムザは、しがないサラリーマンながら妹と両親を養う幸福な生活を送っていたが、ある朝に目覚めると、自分は足が何十本とある巨大な虫へと姿が変わってしまった。

    主人公は「自分はザムザである」という思考は残っているものの、虫になったために言葉を話せず、自分がザムザであることを家族に伝えられない。同時に家族も、虫の正体がザムザであることに半信半疑のまま、何とか養おうとする。

    しかし、次第に醜い虫の行動に、家族の不満が募り、家族は遂にザムザを見限ってしまう。変身した自分を受け入れてもらえなかたザムザは、一人孤独に自室で死を迎える。



本作は文豪カフカの言わずと知れた傑作である。ブックオフの100円コーナーで投げ売りされてるのをよく見るので、漫画を買うついでにでも、是非手にとって欲しい。



さて、本作の感想として真っ先にあげられるのが、「タイトルの”変身”(Metamorphose)とは、何を表すのか?」という点である。

本作を要約すると、「ある日唐突に主人公が巨大な虫に「変身」し、彼を含めた家族が不幸に巻き込まれる」という悲劇であるに関わらず、

肝心の、「何故」変身したのか、「何に」変身したのかは、作中で全く説明されない。変身という悲劇は、一切の不条理のよって構成されているのだ。

であるから、虫になってしまった主人公を憂い、世間では本作を「暗い話」「ホラー」と解釈する人も多い。

しかし、本当に『変身』は荒唐無稽なホラー・悲劇に過ぎないのだろうか。

いや、そうではない。

実は、突拍子もなく思える「変身」は、読者である我々にとってもありうることなのだ。





「変身」を日本語訳すると「成長」or「中二病

 

 

f:id:arcadia11:20140925213740j:plain

 



唐突だが、あなたが14~5歳の頃、俗にいう思春期において、こんな経験はなかっただろうか。

学生生活のある日を境に、友人と馬鹿騒ぎしていたはずが、唐突にその馬鹿騒ぎが退屈でくだらないようなものに思え、徐々に友達とソリが合わなくなったこと。

平たく言えば、「思春期において価値観が変動してしまったこと」が。



私が思うに、これも「変身」の一例である。

我々は絶えず変化する。何気なく手にとった漫画や本に感銘を受け、今までの価値観がガラッと変わり、自分に自信をつけたり、或いは周囲とのギャップに悩むことになる。

まして、子供という「持たざる者」たちが、とてつもないスピードで周囲の情報を吸収する、思春期においては顕著なことだ。



しかし、「変身」は必ずや不幸とも、または幸福とも言えない。

思春期によって「変身」してしまった少年は、友人とは盛り上がれず、次第にクラスで孤立し、いじめに合うかもしれないし、

「変身」したおかげで、今まで興味が持てなかった勉強や部活に、全力で取り組む喜びを得るかもしれない。



かように、我々が日夜経験する「変身」とは、そういうリスクとリターンありきの、それでいながら突拍子もない、変化を指す。

よって、カフカは決して「変身」を肯定も否定もしていない。むしろ、とても人間に決められない、超自然的な力こそが「変身」と解釈したのではないか。

一方で、凡作の小説や漫画において、思春期を、肯定的な「成長」、或いは否定的な「中二病」と捉える解釈は、あまりに短絡的という他ない。

思春期の「変身」を、都合よく「成長」として無理に肯定しようとしても、必ずや「中二病」という迫害を受ける。こういう短絡的な青春ドラマや漫画がいかに多いか。


「これは一体どうしたことだ。」と彼は思った。夢ではない。見回す周囲は小さすぎるとはいえ、とにかく人間が住む普通の部屋、自分のいつもの部屋である。四方の壁も見慣れたいつもの壁である。

 






あなたの親が「変身」したら、どうするか

 

f:id:arcadia11:20140925213753j:plain

 




先ほど、「作者は「変身」を肯定も否定もしていない。」という話をした。

本作において、「変身」の是非を問う場合において、情報の欠落以外に、もう一つ重要な要素がある。

それは、主人公の「変身」に対し、①「自分」がどう思うか、②「自分の両親」はどう思うか、③「赤の他人」はどう思うかが、それぞれ冷静に分析されていることだ。



まず最初に、「変身」に気付いた主人公の感想を聞いて欲しい。


「やれやれ俺はなんという辛気臭い商売を選んでしまったんだろう。…(中略)…この、早起きというやつは人間をうすうすバカにしてしまう。人間はたっぷりと眠らなければいけないのだ。他の外交販売員はハレムの女のようにやってるではないか…」




何と、彼が変身した直後のセリフは、仕事の愚痴である。彼にとって、「変身」は所詮、仕事の悪影響の一つに過ぎないと考えているのだ。

いくら自分が「変身」したことに対して夢心地であるといえ、

普通に考えて、ある朝巨大な虫に変身していたら、泣け叫んだり、怖がったり、自分の悲劇を嘆くものではないのか。

かように、主人公は「変身を望んだわけではない」だろうが、主人公は「変身」そのものを嘆いているわけではないのである。

それは我々も同じである。我々が「成長」するにせよ、「中二病化」するにせよ。望んで成長するなんてことは、あり得ない。(そんな都合の良い変身があったら俺でも変身したい)



しかし、彼が「変身」を恐ろしい悲劇だと気付いたのは、朝起きて自分が変身したことに気付いた時でなく、他の人間に「気付かされた」時である。


「以前は明けても暮れても目の前に見える向こうの側の病院が忌々しくて仕方なかったのに、その病院さえ見ることもできなくなってしまった。(中略)注意深い妹は、椅子が窓際にあるのを見たのは、ただ二度ばかりだったが、それからというものの、掃除を済ませるといつも通り窓際に椅子を押していき、のみならずそれ以来内側のガラスは常に開けっぱなしにしておいた」




これは、主人公が虫に変身して、しばらく経った後の模写である。

主人公が現役のサラリーマンとして働いていた時、「金持ち」を目指す彼にとって、目の前の巨大な病院は、自分の家が貧しいことを思わせる、忌々しい存在だった。

ところが、変身してしまい、妹の介護を受ける身では、もう「金持ち」にはなれない。すると不思議なことに、貧しさを感じる病院から、逆に豊かさを感じるようになったという描写だ。



これは「変身」における二重の結果を伺わせている。

一つは、自分の価値観が変化したこと。今まで意味を持たなかったモノに、愛おしさを感じるようになったこと。

二つは、自分の能力が変化したこと。かつては一人で生きてきたのに、今では他人の手が無ければ何もできなくなってしまったこと。

この文章は、本作における「変身」の意味を、端的に表している。肉体の「変身」によって痛みを感じるからこそ、精神も「変身」し、新たな価値観を主人公は見出したのである。

しかし、問題は家族だ。家族、つまり主人公以外の人間にとって、「変身」は悲劇しかもたらさなかった。

今まで主人公に養われていた人間は、「変身」によって、逆に養う必要に駆られたのである。

つまり、他人にとって「変身」は悲劇以外の何物でもなかったのだ。



妹の「変身」

 

 

 

 
本作には主人公の他に、主人公の妹がいる。

主人公は妹を寵愛し、妹もまた主人公に献身的なので、主人公は昇進したら彼女の学費を負担しようと考えていた。

しかし、周知の通り主人公「変身」によって、逆に妹が主人公の面倒を見ることになる。それでも、妹の兄への愛情は、失われることはなかった。


「妹が親切心から運んできたものを見て二の句を告げない気持ちになった。妹は兄の嗜好を試すため、様々なものをかき集めてくれた」





ところが、主人公という一家の大黒柱を失ったことで、家族の家計は急激に苦しくなる。

そこで、主人公に養われるばかりだった家族が、自分の力で生きていく力を身につけ、社会に進出していく。

あの主人公に甘やかされていた妹さえもが、趣味のバイオリンを放り出し、家族のために寝食を惜しんで働き続けるのだ。

そして、その「妹さえもが変身」を遂げる、決定的な場面がある。


「”放り出しちゃうのよ”妹が言った。”一体どうしてこれがグレーゴルだと言えるの。もしこれがグレーゴルだったなら、(中略)自分から出て行ってしまったわ。”」




今まで、誰よりも親身になって虫と化した主人公を世話していた妹は、社会の厳しさを身をもって知ることで、ついに主人公を排除する決断を下したのである。

そして、妹は主人公の部屋に閂を閉め、彼女自身の手によって主人公を殺してしまう。



「変身」はハッピーエンド

 

 

f:id:arcadia11:20140925213844j:plain




多くの読者は、この「妹の変身」を、実に悲しい場面だと考えており、妹や家族を残酷な連中だと捉える声も多い。(Amazonなど参照)

一方で物語自体は、瞬く間に「ハッピーエンド」に近づいていく。


「三人の職業はどれもこれも、話し合ってみれば全く恵まれたものだったし、こと将来は甚だ有望だったからだ。
 (中略)ザムザ嬢が真っ先に立ち上がって若々しい手足をぐっと伸ばした。その様子は、ザムザ夫妻の目には、彼らの新しい夢とよき意図の確証のように思えた」




以上の文章は、物語の締めの文章である。

あれほど純真無垢な妹が、冷酷に兄を見殺しにする変身を遂げた直後に、この晴れ晴れとした場面に繋がっているのだ。

主人公は家族の手によって餓死し、家族は悲劇を忘れるべく、新たな引っ越し先を目指したシーンで、この物語は終わる。

最後の最後まで虫に変身した主人公は救われることもなく、「主人公がかわいそすぎて、後味悪い。」と思う人もいるだろう。

しかし、単なる悲劇を描く話だったのだろうか。そうだったとして、この「新しい夢とよき意図」を思わせる、この輝かしい未来を思わせる締めは何なのか。



むしろ、私はこれを「ハッピーエンド」だと思う。

何故なら、主人公の「変身」という、偶発的な「事故」に対し、家族もまた自らの努力で「変身」を遂げ、能動的に「運命」を切り拓く力を手に入れたのだから。

だからこそ、妹は残酷な性格に「変身」したのではない。

むしろ、生きる知識を得たことで、人生を耐え忍ぶ「大人」に「変身」したのである。

その証拠に、「妹」と呼ばれ続けた彼女は、最後の文章では「ザムザ嬢」と表記されている。



結局、「変身」とは何なのか

 

 

f:id:arcadia11:20140925213930j:plain

 



長々と説明してしまった。

結局、表題の『変身』とは何なのだろうか。

私は、恐らく「様々な運命に巡りながらも、強く生きること」だと思う。

人生は常に新たなことの連続である。新たな友人に出会い、未曾有の困難に見まわれ、その結果として生涯の伴侶に出会うこともあれば、致命的な障害を負うこともある。

「淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、等しく留まりたるためしなし(方丈記)」ではないが、これだけの不可避的な出来事に、人間は振り回される運命にある。

それは時に不幸、時に幸運と呼び替えられる。

しかし、それは半ば間違いである。不幸も幸運も、人間がどう「変身」するのかという点が抜けている。

主人公が虫に「変身」したように、酷いいじめを受けた少年が自殺する悲劇もあれば、いじめへの怒りをバネに素晴らしい才能を見出すかもしれない。

同じように、本作の家族とて、主人公の「変身」による「貧窮」という事件により、「生きる」ことのリアリティを確信させ、結果的に彼らは「変身」した。




我々は生きていく上で、常に予想もつかない事件に出くわし、それによって予想もつかない「変身」を遂げる。

「生きる」こととは、大変なものである。我々は常に、「事件」と「変身」という二段階の、不可避的な事件に巻き込まれて、生きていくのだから。

しかし、この作品は、後者である「変身」の可能性を残している。

未曾有の「事件」に出会った時、自暴自棄になったり、悲劇だと嘆くのでなく、

「生きる」ことと向き合い、新たな解釈や人間性を見出す「変身」が出来るのではないかと。

主人公の「変身」を通し、主人公自身も心境を「変身」させ、周囲の家族もまた「変身」した。

どんな苦悩があっても、そこに精神が宿る限り、必ずや運命を変えることが出来る。そういう力強さが、本作には満ちてるのである。

同時に、我々がいかに崇高な魂を持つ人間であっても、所詮は動物に過ぎず、絶対的な「運命」の前には、ただ「狩られる」だけしかない。

そういう、宗教的な観念論についても、本作は再考させてくれる。


 

 

 

「変身」とオタク

 

 

f:id:arcadia11:20140925213948j:plain




さて、本編を丸ごと批評したので長くなってしまったが、「変身」を日常で例えるなら、何に当たるだろうか。

私は例えの一つとして、「続編」に当たると思う。

我々がゲーマーなり、映画好きなり、文化的な趣味を持っていると、一度や二度、続編にがっかりさせられたことがあるはずだ。

Battlefield 3』、『クリスタル・スカルの王国』、『1Q84』…等、挙げればキリがない。

我々はこれを「裏切り」と捉え、「悪意」「傲慢」を見出し、辛辣な言葉をぶつけようとする。

「鑑賞者」が「開発者」の「裏切り」に対して抱く感情は、即ち怒りである。これは言わずもがな、望ましいことではない。

本来は互いに協力すべき「鑑賞者」と「開発者」が、続編の処遇を巡って感情をぶつけあい、喧嘩することなど、何の生産性もないはずである。

しかし、私は彼らの怒りに同意してしまう。実際「鑑賞者」が続編のために用意した、長年待ち続けた時間と、そのための費用は、決して戻ってくることはないのだから。



そこで、私は「続編の裏切り」を、本作『変身』に喩えることで、その怒りを諭したい。

本作の主人公、その両親、その妹が、それぞれの「変身」を遂げていったように、

人間は、突拍子もない運命から、予測できた理由から、絶えず「変身」し続ける。

それは、我々にとって「成長」と好意的に映るときもあれば、「失敗」と否定的に映ることもあるだろう。

だが同時に、我々「鑑賞者」とて、常に「変身」し続けていることを忘れるべきではない。



つまり、我々は二つ重要な見落としをしている。

一つは、「開発者」が絶えず変身し続け、それが好意的なのか否定的なのかは、後から「鑑賞者」の意志によって決めているだけということ。

二つは、「鑑賞者」も絶えず変化し続け、それが好意的なのか否定的なのかは、恐らく誰にもわからない、酷く不安定な状態ということ。

我々は、作品の「進化」を当然のように期待し、それは勿論正しいことなのだが、現実問題として「進化」ではなく「変身」が先に始まっている。

同時に、我々も開発者も「変身」し続けているのだから、「変身する前の開発者」と「変身した後の開発者」は、分けて考えることも出来るだろう。

何も、続編がクソだからといって、開発者の内部の人間性を否定し、前作の魅力まで貶めることはない。逆に、前作がいくら優れていても、クソな続編に対しては情など忘れて厳しく糾弾すべきだ。

望む望まずとに関わらず、人間は常に「変身」し続けるのだから。

そして日々の「変身」の中から、また次の「変身」の参考となるような、痛烈な批判を含めた努力や反省を行うことこそ、最も正しい「変身」だと思う。