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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

【評価】『Dear Esther』の感想やレビュー FPSが可能にした実存主義

ゲームレビュー

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傑作です。

ゲーム概要

The Chinese roomによって開発された、主人公の独白を聞きながら孤島を探索する、FPS視点のアドベンチャーゲーム。

全く敵の現れない島をただ歩いて回るだけの、一見変わった作品。元は『Half Life 2』のMODであり、製品版ではグラフィック等に様々な調整を加えている。

 

 

「アート」というより、むしろ「文学」なのか

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「エスターへ」・・・ゲームの随所で聞ける謎めいた独白、武器も敵も存在しない奇妙な孤島。

そう、この作品は単なる「ゲーム」ではない。最近流行りの「アートらしいゲーム」であり、よくインタラクティブメディアと評される類の作品である。

近年でも、悪夢を味わう『Neverending Nightmares』や、謎めいた探偵の『the vanishing of ethan carter』などの類似作が、PCゲーマーの間に広く膾炙した。

本作も実に美しい景観を描いていて、暗雲から漏れる日光や、ざわめく枯れ木、放棄された灯台など、歩いているだけでも楽しめるような「アート」である。

 

だが、本作を「アート」として捉えると、一つ致命的な欠点がある。

それは、「独白がうるさい」ということだ。

本作の独白はとにかく多く、しかも難解で不明瞭な表現が最後まで続く。ぶっちゃけ、ゲームの大半は「独白」を理解する時間に費やされるだろう。

しかも、主人公である「私」(名前は最後まで明かされない)には「Esther」を含めた複数の人物との交友があって、余計にややこしい。アートにテクストを入れるのは珍しくないが、正直やりすぎと思う程だ。

「このゲームは島を散策するのでなく、島を散策する「私」の精神を散策するゲームでは?」

そんな皮肉な仮説を考えて遊ぶと、本当に散策がオマケで、むしろメインは主人公の精神を探ることな気がした。つまり、このゲームは「直接自分が触れるアート」でなく、「主人公を介して触れる文学」ではないかと考えたのだ。

 

プレイヤーを追放するFPS

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では、このゲームを「アート」でなく、むしろ「文学的」と評する理由は何か。

私が最初に違和感を抱いたのは、本作はFPSにして感情移入させるつもりがない点である。

例えば、『Call of Duty』『Half Life』のような、没入感と感情移入を重視するFPSは、主人公の透明性を重視する。

こういった作品では、「主人公=プレイヤー」であり、主人公の味わう体験をダイレクトに楽しめる作品でなければならない。

だから、主人公は自分の声で喋ってはならず、出自に至るまで、ごくごく平凡なものでなければならない。『COD』の場合は一般的な兵卒で、『Half Life』の場合は下っ端の研究員だ。

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一方、本作における「私」はかなり「個性的」である。

まず、「私」の人生には「Esther」という人物が間近にいて、しかも「Esther」が交通事故に遭遇したことで「私」は心に深い傷を負っている。オマケに、「私」は声優付きでぺらぺらと自分語りを続ける。これではなかなか感情移入できず、島の散策に集中できない。

そう、このゲームには、ストレートに感情移入させて当たり前だという、一般的なFPS観を一蹴する厳しさがある。この作品は、プレイヤーのための楽園でなくて、「私」が所有する楽園を描いた作品なのだ。

 

主人公の心情を再現したような「島」

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また、プレイヤーの直接的な接触を阻む「文学」らしさとして、「私」が歩む「島」の奇妙さが挙げられる。

端的に言って、本作における「島」は、よくあるオープンワールドのような、現実の地形を再現したものではない。むしろ、これは主人公そのものではないかと思う程、不思議な「島」なのだ。

例えば、海岸から上陸した「私」を出迎えるのは、様々な廃墟であるが、それら何者かが用意したように等間隔で配置されていて、たまたま滑り落ちた「島」の最下層には、不自然に交通事故の現場が広がっている。

更に、主人公による「島の観光」であるが、これもルートを選ぶ自由はほとんどなく、二手に分かれる道が現れても、どちらを選んでも元の道に戻ってしまう。まるで何をやっても上手くいかない苦しさのように。

以上から、「島」は「交通事故」という辛い記憶に覆い被せた、「私」の都合の良い心象風景であって、本作で描かれる「島」の観光は、「私」がどのように自分と向き合うか悩む、自省の旅ではないかと思う。

だからこそ、この美しい「島」は、プレイヤーが主人公の独白を読み進めるための、「挿絵」のような役割を果たすのである。

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実存主義とFPSの奇跡的な調律

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そこで、「私」がプレイヤーに心を開かず、「島」が主人公の心象風景で、「島の観光」が主人公の葛藤を描くなら、結局、主人公は何をそこまで苦しんでいたのか疑問に思うだろう。

だが、独白や探索をいくら繰り返しても、結局「私」は何に悲しみ、「Esther」へ何を伝えたいのか、ほとんど描かれない。そもそも、「Esther」という人物、「私」という人物、彼らが一体何者だったのかすら、ほとんどわからない。

これは、ただ作者が面倒だから「雰囲気ゲー」でごり押した結果だろうか?

 

 

実は、その不明瞭さが本作の醍醐味だと思う。本作は様々な比喩表現と、美しくも奇妙な風景、常に何かをはぐらかす独白、それらはすべて「何も理解できない」主人公の苦しみそのものではないだろうか。

まず、独白を読んでいくと、「私」の認識する自分の存在、いわばアイデンティティはとても不安的で、「Esther」や世界に対しても、強い懐疑を抱いていたことが、二転三転する独白から伺える。

結局、この独白と、この観光と、この島といった、本作から得られる全ての要素からプレイヤーが把握しうるのは、「私は誰か」といった確たる答えではなく、自分の世界でゆれ続ける「私」と、絶海の孤島で孤立したような深い孤独を味わう「私」の姿だけ。

そして最後に、本作は「FPS」である。「FPS」の視点では、プレイヤーは主人公の存在を知る術はない。プレイヤーの視点は、主人公の眼球に固定され続け、己の姿を己の眼で見ることは出来ないからだ。

故に、プレイヤーは、いつまで経っても、「私」の姿を見ること、理解することは出来ない。「私」が何者で、「私」が何に苦しんでいて、何故島を彷徨い歩くのかわからない。わからないから、彼と同じ視点を「FPS」で共有しながら、島を彷徨い続ける。そうやって彷徨う間に、最初は意味不明だった「私」の独白と、プレイヤーの意識は奇妙なまでにリンクし始める。

ここまで言えば、もうおわかりだろう。そう、本作は「実存主義」をそのままゲームで表現した作品なのだ。「”わたし”は誰?」「”世界”は本当に”世界”?」・・・本作には人が生きる限り、いつかぶつかる根源的な苦しみと懐疑が詰め込まれている。

独白、島、主人公の正体。本作の全ては不明瞭で、何一つミステリー小説のようにストンと解決しない。それもそのはず。主人公自身、それがわからなくて苦しんでいるのであり、本作におけるFPS視点の機能は、プレイヤーを不明瞭な世界へ拘束する「枷」なのだから。

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本作における体験は、決して一人称ならではの、「非現実を楽しめるジェットコースター」ではない。

だが、プレイヤーが長い時間「私」に寄り添い、「私」の赤裸々な告白に耳を傾けることで、徐々に「私」の快苦はプレイヤーの思考へ流れ込み、同じ痛みを分かち合った「私」とプレイヤーは、二人で目的地へと歩みだす。

これは、誰かがドフトエフスキーの『罪と罰』を読んだ時、突発的に殺人を犯した主人公に最初は戸惑いながらも、徐々に彼の苦しみと悲しみを理解してやるようなものだ。

 

独白、島、遺物、Esther。全ては、プレイヤーに用意された晩餐でなく、「私」の懐疑と達観そのものである。だからこそ、我々は本を一ページずつ捲るように、「私」の持つ全てに耳を傾け、眼を凝らし、理解してやり、本当のカタルシスに到達する。

全てが不安定で、全てが悲しくて、全てが理解できない。そんな「私」の「存在」を、FPSで体験できる、感極まる共感。

『Dear Esther』は稀有な傑作である。数々のインディーズゲームの中でも、これほどの作品はそう味わえないだろう。まだプレイしてない方は、是非今からでも遊んで頂きたい。

最後に。私は「主人公は懐疑している」と言ったが、別に主人公は記憶障害という意味ではない。だが、「交通事故」で愛する人を失った彼であれ、このゲームを何気なく遊んでいる私であれ、誰が自分の全てを受け入れて生きているだろう。そういう普遍的な葛藤が、本作の醍醐味である。興味を持った方はレゾンデートルで調べてみて欲しい。

ちなみに、インタビューによると、作者はストルガツキー兄弟やフィリップKディックに影響されたそうだ。