ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

昔のゲームは何故面白かったのか?

f:id:arcadia11:20150218200746j:plain

 

「昔のゲームはよかった」

「今のゲームは全然ワクワクしない」

 

ゲームという文化が世間に根付いて、既に20年以上が経過した。ゲームを遊んで育った子供も大人に育ち、こういう愚痴も少なからず見受けられるようになった。

そこで、冷静に考えて昔のゲームは面白かっただろうか。

 

ここの「昔」の定義を、10年前の2005年と仮定しても、現代とは違う面白さがあったと思う。

まぁ、そういっても作品を引き合いに出して評価するのは難しい。

そこで、昔の作品が面白かったというよりは、昔のゲームを取り巻く環境が、現代とは大きく異なるものだったと仮定して考えてみよう。

(この記事における「昔のゲーム」とは、主に任天堂やSCEによる主流タイトルを指します)

 

社会がゲームを応援してくれた過去

f:id:arcadia11:20150218200757j:plain

まず第一に、昔は日本の社会、つまり「世間」が一体となって、ゲーム業界を支援してくれたのは大きかった。

例えば、『ドラゴンクエスト3』の発売に際して、親子連れの行列が各地のゲームショップで発生し、日本中のテレビでその様子が放映されたりするなど、ゲームが社会現象として発生する面がままあった。

このように、社会全体がゲームという文化に注目し、一種の「お祭り騒ぎ」が形成されることで、ゲームは発売すらされずとも「お祭り」を楽しめたのである。

 

一方、現代でも『妖怪ウォッチ』などが大きな話題となったが、それはアニメやキャラクターを介した、マルチなメディアとしての側面が強い。

今はデジタル媒体が強く、ゲームに限らず映画や小説など、様々なコンテンツが複数のメディアを横滑り出来てしまう。

故に、一本のゲームに局地的な注目が集まることも、実際に行列や集会といった具体的な事件も発生することもなく、顧客は「当事者である」という意識が抱きづらい。

現代のデジタル化は、ゲームを普遍的に普及させる面では素晴らしいのだが、一方で世間の注目が分散することで、「お祭り」が形成されないために、子供の頃「お祭り」を楽しんだ古参ゲーマーは満腹感を得られないのではないか。

それでも、「E3」や「東京ゲームショー」のようなプレスカンファレンスは今でも盛況で、プロゲーマーによる大会も海外では盛んだ。また「祭り」を作り、更に世間の注目を集めることは、不可能ではないと思う。

f:id:arcadia11:20150218200918j:plain

また、かつては日本がゲーム産業を実質独占していたことも大きいだろう。任天堂やソニーといった名だたる企業が、ゲーム業界というフロンティアに殺到する中、新たな日本の経済成長の可能性を鑑みて、社会がゲームへ注目していたことは大きいと思う。

勿論、今でもゲームの可能性は注目されているが、ソシャゲから次世代機まで規模が広がりすぎて、マスコミもどこから手をつけていいかわからないのではないか。

現代のゲーム産業と比べ、まだ様々な可能性が期待されていて、新たな「家電」として世間と綿密に繋がっていた1990~2002年辺りだからこそ、社会とゲーマーが一体となる「お祭り」が形成されたのだろう。

これは皮肉な話だが、「家電」「おもちゃ」としての側面が強いからこそ、ゲームは軽蔑された時代だった。現代は立派に独立した文化となったが、それは世間から見れば「かわいくない」文化なのかもしれない。

 

情報量が増えすぎた現代

f:id:arcadia11:20150212120337j:plain

一方、現代の「ゲーム業界」に注目すると、やはり情報量は増えすぎたとは思う。

かつて、まだネットやスマホが普及してない頃、ゲーマーの主な情報源は、漫画雑誌かテレビCMくらいで、発売前のゲームは、ある程度ゲーマーが想像するに留まった。

これは同時に、周囲の評判に振り回されずにプレイできるという面もある。当時も雑誌内のレビューはあったが、質はどうあれ、少なくとも突っ込んだ話をせず、あくまで広告のレベルで評価していたからだ。

また、当時の情報は、商業誌とゲーム会社が綿密に加工した「広告」としての情報が主だったことも見逃せない。

というのも、掲載された画像や情報は全て、「ゲーマーが続きが気になって買いたくなるような」期待を煽るような情報ばかり載せられていて、子供は存分に期待を膨らませたのだ。

これは、ゲーマーに公平な情報を与えず、不要な購入を煽るメディアとクリエイターの癒着とも取れるが、一方では、ゲームをプレイヤーの手で楽しめるよう工夫された前情報を与えたとも言えるだろう。

何故なら、この「広告」により、ゲーマーはわけもわからず世界に放り出されて混乱することもなく、むしろどう遊べば楽しめるのか、プロのライターによる高度な誌面から直々に教えてもらえたとも言える。

(一方、本格的なゲームの理解を深めるには、過去の「広告」よりは現代のネットの方が優れているといえるだろう)

f:id:arcadia11:20150202035601p:plain

一方現代では、多すぎる情報に困るほど、ゲームの情報で溢れている。

とりわけ、Youtubeなどにアップされている、ゲームプレイ動画の情報は強烈で、文章や画像では到底出来ないレベルの「ネタバレ」を実現してしまっている。

例えば、『Skyrim』の「ホワイトラン」周辺のプレイ動画を5分だけ観たとしよう。確かに、ストーリーやフィーチャーのネタバレはほとんどないだろうが、それでも「どうゲームを進めるか」まで完全に予習できてしまう。それも、実際に遊ぶのと全く同じ視点でだ。

正直、他のメディアと比べても、ゲームはある程度は同じことを繰り返すメディアだ。なので、この5分間のネタバレによって、あと何十回と繰り返すゲームプレイまで予見できてしまう。勿論、それでゲームの真の味わい深さが失われることは決してないが、「新たな世界を体感する、幼児になったような新鮮さ」は失われてしまうだろう。

故に、昔の子供がゲームで得るワクワク感という点において、「ゲームプレイ動画」は、「犯人はヤス」よりもよっぽど致命的なネタバレだと思う。

皮肉なことに、動画のネタバレが致命傷となるのはゲームぐらいで、映画のトレーラーは勿論、ゲームでもティザートレーラーなら、そこまで新鮮さが失われることはないと思う。ゲームにとって動画サイトが天敵となるのは、「自ら体験する」ことを何より重視するが故ではないだろうか。

(だから、「ゲームプレイ動画」そのものの面白さは無限大に広がっている。それが「ゲーム」自体をスポイルすることとなろうとも。)

f:id:arcadia11:20150218201235j:plain

最も、情報量の増加は、ゲームの「透明性」を向上させる点では素晴らしいと思う。

ゲームは新作なら一本7000円もする。決して安い買い物ではない。だからこそ、「プレイ動画」によってゲームを知ることで、自分の期待と異なる作品だったと失望することはかなり減った。

逆に、ゲームプレイ動画も観ずにプレイすれば、期待よりクソゲーへの警戒が勝ってしまうかもしれない程だ。

 

 

 

以上から、「何故昔のゲームが面白かった」と考える人間が多いのか、当時の作品でなくゲーム業界全体から考察した。

理由として、第一に、「日本の家電」の延長線上にあるがため、世間が一体となってゲームに注目しており、更にマスコミの報道や開店前の行列のような具体的現象と共に「お祭り」が形成され、それに参加すること自体が楽しかったこと。

第二に、情報量が限られていたためにネタバレが少なく、「ゲーム会社→雑誌→プレイヤー」という緊密なパイプによって期待感を煽る情報が多く、更に現代の「ゲームプレイ動画」が致命的なネタバレとなること。

これらが複合的に組み合わさり、多くの古株ゲーマー(古株ですらない人も)が「昔はよかった」と考えている環境となったのではないか。

 

勿論、現代が必ずしも劣っているわけでない。

例えば、「お祭り」自体もゲーマーの手で積極的に作り出すことが可能となったことや、癒着による腐った情報が減ることで、ゲーマーは安心して新作を購入できるようになったし、「ゲーム実況」などの新たなゲーム文化も育まれつつある。

 

いずれにせよ、「現代」と「過去」は区分して冷静に考えるべきである。

だが、それでも「昔は良かった」は単なる懐古ではなく、過去ならではの独特の環境があったことも踏まえておくことで、古株ゲーマーと新規ゲーマー相互の理解に繋がると私は思う。