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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

【評価】神戸、ホドラー展の感想 善きリズム

芸術/映画/文学

「もし幸運にも、相応しい場所を見つけられたなら、その絵のほとんどは既に完成している」

ーフェルディナント・ホドラー

 

ホドラー展に行ってきました。

ホドラーとは、スイスの国民的な画家で、かつてはスイスフラン紙幣のデザインも手がけたことのある方らしいです。とても興味深かったので、色々感想を残していきます。

 

フェルディナント・ホドラー《アハシュエロス》1886年

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アハシュエロス、というのは、聖書のエピソードを元に作られた、中世ドイツの伝承に登場するユダヤ人を指す。

その内容とは、あるユダヤ人がキリストの教えを嘲笑し、刑場へ移動する彼に手を貸さなかったために、罰として永遠に彷徨うこととなった、というもの。

「彼らは聞き従わないので、わが神はこれを捨てられる。彼らはもろもろの国民のうちに、さすらい人となる」

『ホセア書』9:17

当時、象徴主義に代表される様々な文化が発表される中、ホドラーもまた感化され、いくらか人物の苦悩を描いた作品を残している。ここで描かれる放浪者も、宗教画というより、むしろ世間から理解されずに苦悩するアーティストたちの象徴として描かれたように思える。

さて、作品で目に付くのは、まず周囲の荒涼さだ。滑らかなタッチで描かれた大地に加え、遠近法によって描かれた道は、どこまでも続くよう。そんな中、ただ一人、胸を抱えて歩き続けるアハシュエロスは、同情など一切受け付けないような豪胆さを感じる。

中でも、海と空を描く、うっすら残されたグラデーションは絶妙で、本来は救いや恵みとして描かれる蒼の世界すらも、ここからではあまりに遠く、あまりに儚い。

ここが構図の見せ所で、もし逆に、海や空を描かなければ、永遠のユダヤ人がいずれオアシスにたどり着くような希望を与えただろう。

だが、彼の道のりを振り返ると、既に海も空も通り過ぎてしまった後。彼は「蒼」にさえ救われなかった、真の放浪者であり、後印象派を思わせる蒼が本作の悲壮さを一層際立てているのである。

Ferdinand Hodler《Ahasuerus》1886 

 

フェルナンド・ホドラー《オイリュトミー》1895年

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老人が5人、どこかへ向かって移動する様子を描いた作品。その姿には、どこか死に行く様を思わせる。

貧しい家庭に生まれたホドラーは、若き頃に両親と兄弟を全員結核で亡くしている。そのためか、彼の初期の作品には、いつも「死」の影が漂っているのだ。

しかし、この作品をじっと鑑賞すると、死の悲しみより、むしろ脈動するアジテーションが呼び起こされるようではないか。

それもそのはず。この作品では、パラレリズムによる、平行かつ反復する描写が、ある種のリズムを呼び起こしているからのだ。そもそも、タイトルの「オイリュトミー」も、「良いリズム」という意味の造語である。

「反復」と言っても、ただ同じ描写を使い回すわけではない。むしろ、老人たちの表情は死を悟りながらも絶妙に異なり、靡く白衣は歩行の瞬間を切り取ったように撓り、彼らがそれぞれ独立した存在であることを伺える。

それでいて、彼らの足は左から、右足、左足、左足、左足、右足を突き出し、細部まで心地よい反復を繰り返している。

モデリングとシンメトリーの絶妙なリズムは、まるで静謐な天空でマーチング・バンドの行進を鑑賞しているようなスリルを与えるのである。

Ferdinand Hodler《Eurhythmy》1895 

 

フェルナンド・ホドラー《シャンペリーで見るダン・ブランシュ》1916年

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スイスのアルプスで生まれ育ったためか、ホドラーの風景画にはよく山岳が登場する。

この作品は、先述のパラレリズムを積極的に応用した風景画の一つであり、雪の残るダン・ブランシュ山は、蒼空に向かって屹立し、雲は霊峰を囲むような奇妙な形で散開している。

特に、この無骨な岩をむき出しにするダン・ブランシュ山の造形は、アルプスの険しい自然を体現しており、岩の一つ一つの面を立体に描きながらも、全体では山頂を中心として左右対称に描くことで、その強固さが強調されている点が白眉。

反復による強調とリズムを重んじるパラレリズムにとって、剛健なスイスの山岳は、正に虎に翼の構造と言える。

だが、そもそも山岳の頂点だけ切り抜いて描くというのは、人によっては「邪道な、冷めた風景画である」と批評しそうなものだ。しかし、そこにホドラーの魅力があると私は思う。

例えば、ホドラーは他に《悦ばしき女》という、高揚した踊りを見せる女性を描いているが、よく観ると、全身を描いてもまだ空間が余っていて、衣装や背景も感情を昂ぶらせるような赤に染められている。まるで、「悦ばしい女」と言うよりは「絵が悦ばしさを女に与える」かのようだ。

実は、ホドラーは功利主義的な思考も学んでおり、彼のパラレリズムも「我々のあらゆる歓喜と苦痛は、他のそれの反復に過ぎず、同一の、または類似する身振りによって可視化する」というホッブズらしい理論により構成されたものであり、実際に写真家とも交友があった。

故に、あまりに無骨な、それ自体に何らロマンチシズムも寄せ付けないアルプスの霊山も、ホドラーの合理性とパラレリズムの反復にとっては最高の主題であることが、この作品から感じる不屈の実在から理解できよう。

Ferdinand Hodler《The Dents Blanches near Champery》1916

 

フェルナンド・ホドラー《木を伐る人》1910年

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森林労働者らしき男性が、大きな斧を振り上げ、疵ついた針葉樹を切り倒さんとする情景。

数々の作品によってその名を轟かせ、スイスの国民的画家として評価され始めたホドラーに舞い込んできた仕事、それがスイス・フランの紙幣に印刷する絵、つまり本作を描くことだった。

さて作品を鑑賞すると、テーマたる「勤勉な国民の姿」が、ホドラーの描いてきたリズムとダイナミズムの集大成として描かれていることが、一目でわかる。

中でも、跳躍せんばかりに張り詰めた脚、突風に繰り出すように翻るオーバーオール、重力に逆うように振り上げられた腕、これらすべてが、手斧に向かって抽出され、今まさに渾身の一撃が与えられんとしている。

ホドラーは、元々この作品に《力》と名付けるつもりだったそうだが、正にこの作品には、この男の持つ、有機物質が、意志が、生命が、その一撃を与えんとしている様を観れば、確かに《力》以外に形容しようがない。

背景の構図もまた秀逸で、己の影を映す積雪のほかには、遠い空と、白い海だけ。「力」を行使する者にとって、その他は何も必要なく、その聖域に立ち入ることも許されないかのような、神聖な閉鎖感を感じる色使い。

かつて「象徴主義」として描いた悩める様はもうどこにもなく、この労働者は完全に無私であり、憤怒も、憂愁も、憎悪もなく、ただプラトニックな魂が実在するのみ。この透明性は、表情だけでなく、全身を描くことで人を描いた、ホドラーの醍醐味と言えるだろう。

Ferdinand Hodler《The Wood Cutter》1910