ゲーマー日日新聞

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『アメリカン・スナイパー』感想 堕落した西部劇

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原題:Americn Sniper(2014年公開)

監督:クリント・イーストウッド

主演:ブラッドリー・クーパー 

 

「戦争映画」からの解放

 

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主人公のカイルは、カウボーイに憧れていた。

狙撃技能も高く、ロデオも上手な彼は、正に「カウボーイ」だった。ただ、現代でカウボーイなんて何の役にもたたない。彼は要するにフリーターであり、クズである。

そんな時、「アメリカ大使館爆破」のニュースが流れた。定職にも就いていなかったカイルは、すぐさま特殊部隊に入隊し、イラクへと飛び立つ。

すると、テロリストどもはのろのろ銃を構える素人ばかり。自慢の狙撃技術でバッタバッタ敵を射殺し、彼はすっかり「伝説」として誰からも褒めそやされるようになる。

 

ここから従来の戦争映画と大きく差別化された本作の像が浮かび上がってくる。例えば、イーストウッドの『父親からの星条旗』は「戦争が人間を定義する」というテーゼに抗う人間を描いた。

一方、本作では、主人公が戦争と出会い、超人的な才能を見出すくとで、主人公が戦争を定義してしまうのだ。

また、イーストウッド監督は、自身の作品において、常に「暴力」を否定した。自ら俳優時代の経験を生かした『許されざる者』『グラントリノ』に代表されるように。

しかし、本作では近代化で死んだはずのカウボーイが、現代戦という局地によって蘇る話ともいえる。

 

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これにより、巷で言われる「PTSDや戦争の恐怖を描いた」という指摘が、少し噛み合ってこない。本作では、カイルが入隊する前に、浮気相手をボコボコにする場面があり、彼の暴力的な性格はPTSDの被害というより、カウボーイの才能と性格といった方が近いだろう。

(というか、PTSDなんぞより国中爆撃されるイラク市民の心境はどうなんだ)

これは同時に、文字通りスナイパーの個人的な人生を描き、しかも主役が例外的な才能を発揮することで、従来の戦争映画でよくある「戦争とはこういうものだ」みたいな達観を一蹴してしまうのである。

 

狂気の西部劇

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とにかく、本作は西部劇のオマージュが多い。

スコープを覗くと敵が写り、トリガーを引くと敵は血を吹いて倒れる。まるでフラグムービーのような快感。

それに加え、頻繁にPOVを用いたり、弾丸をスローモーションで描くなど、現代的の技術を用いた「ネオ西部劇」とも呼ぶべき、華麗なアクションを見せ付ける。馬に乗る代わりに、ジープで荒野を駆けるシーンも見事だ。

カイルは敵を「野蛮人」と一蹴してならないし、さすらいのガンマンが悪を殺して英雄視される、というのも人物像も西部劇らしく、

最後の包囲戦に至っては、完全に『アラモ』のそれである。

 

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(イーストウッド主演『The Good, The Bad And The Ugly』より)

 

しかし、本作の映像は、徹頭徹尾リアルな、イーストウッドらしい造りになっていて、それが本作の「西部劇」の異様さを浮き彫りにする。

例えば、音楽やエフェクトは少なく、死体はグロテスクに描かれる。外傷はなくとも、PTSDによって心を病んだ弟の表情や、女子供を撃ち殺す主役のガンマンなど西部劇とは正反対だ。大迫力の包囲戦も、UAVのカメラを通すと、なんてことのない小競り合いに見えてしまう。

このように、本作は常に「西部劇」を現実的な視点で俯瞰する。西部で死んだはずのカウボーイたちが、現代においてなお必要とされている様子を。そこに、本作のアイロニーが存在するのだ。

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堕落したカウボーイ

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ただし、本作は戦争が西部劇化してしまう皮肉だけを描いたわけでなく、そこにカイルという一人の人間性を浮かび上がらせる。

元々、カイルは場末のロデオ大会に出場する放蕩息子で、本人も強いコンプレックスを抱いていた。自分は変わらねばならない、ちゃんとした職に就きたいという義務感が、彼の背後にあったのだ。

そこに飛び込んできたのが、ニュースでヒロイックに描かれる大使館爆破の様子。誰にも必要とされなかった若いカウボーイにとって、これはまさに転機だったのだろう。

そうして参加したイラクでは、正にカウボーイのように活躍できた。周りの兵士に感謝され、自信たっぷりに髭を生やし、カイルは自分が必要とされる居場所を、自分が持って生まれた才能を、戦場のど真ん中で見出してしまったのだ。

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だが、彼のように活躍できる兵士などわずかで、他の大勢の兵士にとって、戦場など恐ろしい場所でしかない。PTSDに蝕まれる弟、ゲームに熱中するスポッター、失明した相棒。カイルは彼らの苦しみを分かち合うことが出来ない。

そこで、カイルは卓越した技能のおかげで、カウボーイだったこと知る。こうして、彼は家庭からも遠ざかる一方で、戦場でも微妙に孤立してしまう。平凡なフリーター生活から抜け出た喜びと、天才故に孤立する悲しみが、同時に一人の若者を襲う。

そんな最中に体験した、あの「アラモの戦い」を通じ、彼の中で何か変化が起きる。家庭に帰り、傷病兵の看護に努めることにしたのだ。ロデオのベルトと、リボルバー拳銃を、家の戸棚に置くカイル。彼はカウボーイであることを止めたのだった。

敵である、ザルカーウィーを、ついぞ逃がしたまま。

・・・この絶妙な脚本もさながら、それを台詞もなしに表現するブラッドリー・クーパーの演技には目から鱗である。

 

 

実を言うと、序盤を見た感想は「あれれ?」と思った。なんかライバルとか出てくるし、造りがやたら娯楽映画っぽい。でもこれは、説教臭くあれとする既存の戦争映画に対する挑戦状だったのかもしれない。

実際、最後まで観ると、戦争に西部劇を持ち込むアイロニー、天才スナイパーの悲哀、才能を見出してしまった喜び、戦争の内外で拡散する暴力、どこを切っても面白い映画になっていた。

こういう独特で、それでいて熾烈なメッセージは、やはり脚本や演出の一辺倒じゃどうしようもない。映画という一つの作品を完成させて、初めて実現するんだと思う。

これで、いつものイーストウッド映画だなと安心してしまう辺り、この爺様はやっぱりすごいんだろう。