読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

【ネタバレ】映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の感想 愛に溺れた愚者の生き様

 

f:id:arcadia11:20150418033651j:plain

原題:Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

出演:マイケル・キートン、エドワード・ノートン、ナオミ・ワッツ、他

公開:2015年4月10日(日本)

 

磨き上げられた技法

f:id:arcadia11:20150418033704j:plain

本作はまず、長回しによる映像が美しい。古くはタルコフスキーやヒッチコックが愛用したテクニックだが、本作の長回しは史上最長クラス。何と、映画中たった一度しかカットが入らないように見せかけられていて、カメラはいつも主人公たちの周囲を往復している。

この演出の目的は後においても、この酔いそうなまでの長回しを実現したエマニュエル・ルベツキの高度な撮影技法には恐れ入る。場面はひっきりなしに変化し、本作の主題である「夢と現の彷徨」を実現しているのだ。この映像だけで、本作を楽しむ価値はあるだろう。

 

肝心の内容は、かつてバードマンとして名を馳せた一人の俳優が、一念発起してブロードウェイの劇場で公演を行うが、熾烈な批評家や協調性のない同僚、ブロードウェイとハリウッドの意地の張り合いのような困難に阻まれる、という話。

言うまでもなく、本作は現代のエンターテインメント産業を皮肉っている。タイトルの「バードマン」はそのまんまバットマンだし、主役のマイケル・キートンは実際に1989年の劇場版バットマンのブルース・ウェイン役だった。

そこに、ゴシップに振り回される無知な観客や、クリエイターより影響力を持つ批評家がシニカルに活躍するのだが、ここでキーとなってくるのがインターネット。人々はスマートフォンを片手に情報を発信し、SNSによって誰もが批評家と同等の権威を持っている。

現代のエンターテインメント産業は、実質的にインターネットにおける批評に左右される側面があるような描写がされ、主人公らクリエイターすら「いかにネットで目立つか」画策するほど。暗にインターネットやSNSの普及が、コンテンツ産業をユーザーの奴隷にしたようにも思える。

何より、当のクリエイター側からこんな作品をぶつけてくるのは中々に挑戦的で面白い。理想的な鑑賞者というのは、確かに鑑賞者同士で議論されることがなかったアジェンダだ。

 

本当にただの皮肉なのか?

f:id:arcadia11:20150418034204j:plain

本作はコメディだ。

主人公は、かつて本当に「バットマン」としてスターに上り詰めた実力と美貌をものにしながら、結局は鳴かず飛ばずだったマイケル・キートン自身の生涯そっくりで、ものすごく自虐的な伝記映画にすら思えてくる。

では、本作はただアメリカを風刺しただけの、ブラックジョークなのだろうか?本作がアカデミー作品賞に選抜されたのも、単なる身内ウケがよかったからなのだろうか?

そんなはずはない。本作はその「ジョーク」の中に、根底的な「希望」を隠していると私は思う。

 

f:id:arcadia11:20150418034217j:plain

(実際にマイケル・キートンが演じたバットマン/『バットマン』(1989年))

 

本作の監督、イニャリトゥ監督の作品で『Biutiful』というものがある。不況とグローバリゼーションが蔓延するスペインで、不法移民を斡旋する犯罪業に手を染める主人公ウスバル(ハビエル・バルデム)が、癌で余命宣告されたことをきっかけに、自分の人生を見直すという話だ。

コミカルな『バードマン』と真逆に思えるが、共通する点が一つある。それは幻覚だ。

ウスバルは霊能者を自称しており、実際に「霊」を認識しているが、普通に考えてそれは霊など存在しようもない。彼は軽い統合失調症に近く、実際には会ったはずもない「父親」(彼はスペイン独裁政権と戦って亡命した)と会話し、逆に彼の信じた善意は全て裏切られていく。

だが、彼はその幻覚で救われる。実際に明らかな悲劇が起きても、主人公の幻覚ではなかったことになっている。本作のタイトル、「Biutiful」は、主人公が娘に「美しい」のスペルを教えてくれと頼まれ、無知故に間違って教えてしまうスペルである。

恐らく、この「Biutiful」が本作を象徴している。仮に無知蒙昧の幻想であっても、そのために引き起こされる悲劇であっても、必死にしがみついて生きようとするウスバルの姿は美しいと。

この映画は『バードマン』と同じく、ドキュメンタリー調の撮影技法を用いて、現代のスペイン社会における格差と移民問題を風刺している。だが、そこで描かれているのは、単なる悲嘆だけでなく、その新たな社会でどう生きるか見出す賛歌的なテーゼが一貫して込められている。(同監督の『バベル』『アモーレス・ペロス』もそんな感じ)

f:id:arcadia11:20150418034400j:plain

(これが自分の生き様だと信ずる姿は、黒澤映画に影響されたと監督自身が語っている/『Biutiful』(2010))

 

愛に飢えた道化師たち

f:id:arcadia11:20150418034539j:plain

さて、話題を『バードマン』に戻そう。

主人公リーガンは、四苦八苦しながら演劇の準備を進めていくが、その動機は単純で、「愛に飢えているから」と呟く。自分は「バードマン」としてハリウッドスターに上り詰めたが、それから世間で忘れ去られ、失った愛を取り戻そうとしている。

実際、滑稽な動機だ。彼は表立ってはブロードウェイで「芸術性」を追求するように振る舞うが、より多くの声援を獲得するためなら、ハリウッドの凡作でドンパチするだけでも構わないと感じている。彼がしばしば耳にする「バードマン」というもう一人の人格は、その自分の無知さと貪欲さそのものだ。

一方、彼が大事に持っているのは、自分が高校の文化祭で演じた処女作で、作家のレイモンド・カーヴァーから受け取った「よかったよ」という書き残し。たった一人のプロに自分の芸術性を認められた、というのもまた彼にとって貴重な愛であり、彼はその二つの「愛」を求めて葛藤する。

そして、主人公が渇望する「愛」を横取りするのが、アコギな同僚と無粋な批評家である。批評家は陳腐な解説で、芸術を解せないファンたちの愛を独占し、ブロードウェイの俳優とは愛を求めて競合する。

本作は複雑にしてダークな人間関係が登場するが、登場人物の全員が「愛」という共通項で結ばれている点を踏まえると、作品を容易に理解できるだろう。

 

f:id:arcadia11:20150418034515j:plain

かように、本作は誰よりも貪欲に愛を求める、アーティストという職業の本質を描こうとした作品だ。オープニングでチカチカと光る「AMOR」もまた愛という意味で、オープニングの問答も「何を望んだ?」「みんなの愛」である。

しかし、ここで巷に言われる「ラストは観客の理想であり、皮肉なんだ!」と断言するのは早い。では最後に、誰もが疑問に思ったラストシーンに触れて感想を終えよう。

主人公は、愛に飢えている。「バードマン時代」に得た、無秩序にして無数の愛。レイモンド・カーヴァーから得た、芸術性による高度な愛。失った家族との、止めどない愛。だが二兎追うものはなんとやら。主人公の努力は尽く空回りする。

それでも、必死になって公演を続け、演者と真剣に喧嘩し、親友に支えられ、恐れていた批評家に本音でぶつかり、最後には避けていた娘や妻に本気で「成し遂げたい」と吐露までに信頼する。

全身全霊を賭けた最後のチャンスで死に物狂いになって、彼は大きく人間的に成長していくのだ。

その成長が端的に表れているのが、ラストの寸前。離婚した妻に真実を話すシーンだ。

 

f:id:arcadia11:20150418034557j:plain

「結婚記念日、君に不倫がバレて大変なことになったね。あの後、実は自殺しようと海に向かった。でも、クラゲに刺されて陸に逃げ、一人で泣け叫んだよ。」

 

リーガンは妻に「日焼けしたから」と嘘をついた日、自分がタフな男だと演じた日、本当は罪への呵責から自殺をするまで追い込まれていたのだ。それでも彼女に謝ることが出来ず、不器用に誤魔化してしまった。だが、最終的に彼は正直に自分の弱さを打ち明け(演技を捨てて)、彼女に正面から「客席で観ていてくれ」と頼む勇気を見出した。

一方、過去の栄光に縋るバードマンの幻聴に、「客は暴力を求めてるんだ。ハリウッドで暴れた方が儲かるぜ」と囁かれる。重要だが、この幻聴は本物のバードマンでなく、彼の本音が生み出す妄想だ。だからこそ、ただ「俺はハリウッドなんか興味ないぜ」と反論することは、自分自身を否定しているだけに過ぎない。

そこで、ラスト。妻を寝取られて自殺するシーンを演じるリーガンは、本物の拳銃に弾を込めて自分の頭を撃つことを選ぶ。

これにより、彼は「誰もが好む暴力性」というバードマンとしてのアイデンティティを発露しつつ、本来の「芸術的な演劇」を同時に演じたのだ。彼は二人の自分を同時に追求したのである。

 

その拳銃は、誰を殺したのか

f:id:arcadia11:20150418041320j:plain

だが、リーガンは本当に自殺してしまったのだろうか。ここで思い出して欲しいのが、誰もが愛する「バードマン」としての自分と、妻に捨てられ他人に愛想を尽かされた哀れな自分、二人の自己が分離している彼の性格だ。

本作では「長回し」によるリアリティで誤魔化しつつ、実際にはあり得ない描写がある。バードマンとして空を飛び、超能力を使う姿は、全てリーガンの妄想だった。

だからこそ、最後の自殺シーンはリーガンの心理的なメタファーに過ぎず、実際には死んでないと思う。根拠としては、事前に妻と「自殺できなかった」と打ち明けたことの他に、

リーガンの幻想は他人と共有できない(彼が妄想している時、大抵は他人にツッコまれて現実世界に戻ってくる)のに、自殺シーンの後も娘や同僚とちゃんと会話できているからだ。彼は他人を恐れて妄想するのであって、世界ごと妄想する勇気はない。

 

f:id:arcadia11:20150418041431j:plain

では、何故本物の拳銃を撃ったのか。それは、自分の中にいる「バードマン」を殺すためだ。

「バードマン」は自分が何より誇っている栄光だ。空をも飛べる万能の力があり、言動もタフで、何より誰もが愛するヒーローだ。

だが、実際にバードマンは存在せず、ファンからも飽きられた。彼は確かに自分の大事な記憶だが、時間が経つに連れ、「バードマン」以外の何かを見出す必要が生まれたのだ。

誰にだってあるだろう。「高校の時は学年トップだった」「中学の時は3人も彼氏/彼女がいたのに」と過去のバードマンに縋ることが。しかし、時が移り皆の愛が失われた時、その記憶と共に、新たに踏み出さねばならない。

だからこそ、リーガンはただバードマンを否定するのでなく、彼の望み通り「血と暴力の娯楽」を舞台で達成してやった。そしてその暴力の対象は、他ならぬ自分自身だったのだ。

(二重人格の片割れを殺すために自殺するのは『ファイト・クラブ』にもあったな)

 

f:id:arcadia11:20150418041543j:plain

そして閉幕。彼は病室で娘サムと話す。リーガンがバードマンとしてスターダムにのし上がっていた頃、一方では娘のことを放置し、親の愛を失ったサムはドラッグに溺れた。

「バードマン」を舞台で殺したリーガンは、ようやくサムと腰を据えて話す。しかし、サムが席を外した隙に、リーガンの姿は消えた。また自殺かと顔を真っ青にしたサムの目の前に、鳥人間のような影が。サムはほっと胸を撫で下ろす。

そしてここが最も重要なのだが、この「鳥人間のような影」はカメラに映らず、サムの安堵する表情だけが我々に把握できる。

「バードマン」として一人で戦い、一人で栄光を勝ち得たリーガンが、改めて同僚やライバル、家族とぶつかり、そして成長した時、彼は「娘にとってのバードマン」であることを決意したのだろう。

だからこそ、彼の姿は我々観客の前に表さず、サムの前だけに姿を表した。誰もが望むバードマンは殺された。彼は決してネット上の他人が与える無数の愛に溺れることに身を委ねず、演劇を通して見出した、家族や同僚、生身の人間から得られる愛を選んだ。無知がもたらす予期せぬ奇跡が起きたのだった。

(だから、「ラストシーン=観客の望む都合の良いオチ」という巷のそれは邪推だと思う。何故なら、本当に観客が望むバードマンの姿を、カメラから隠すという裏切りに走るからだ)