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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

本当に「サイレントマジョリティ」なんて存在するのか?

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「サイレント・マジョリティ」というのは、直訳すると「黙する多数派」という意味だ。

語源を辿ると、1969年のニクソン大統領が「我々の政策に反対する連中もいるが、黙ってるだけで実は政府を支持してくれる人だっているんだ!」と民衆に訴えかけた演説らしい。

当時、ベトナム戦争直後ということもあり、学生による反戦運動で厭戦感情が高まっていたアメリカなわけで、

言うまでもなく、戦争を指導した大統領がそれを言っちゃ「お前、それは詭弁だろ」とマスコミに突っ込まれたわけだが、言葉自体は何だかんだと現代まで使用されている。

 

特に、インターネットが普及する現代ともなれば、民衆の声はSNSを中心に大きなものとなり、政治運動に限らず、時事問題とか、ゲームの評価すら、(うるさい程に)ネット中に溢れかえっている。

で、ここで再び持ち上げられたのが、この「サイレント・マジョリティ」という概念だ。

つまり、仮にある作品がネットでボロカスに叩かれたとしても、ネットユーザーで実際に発言してる人は一部だから、実は「ある作品」が好きだという人も、黙ってるだけでいるかもしれない。ネットの評判など気にするな!というロジックである。

ところが、これに対し「証拠だ!証拠を出せ!」「ラウド・マイノリティー乙ww」と紋切型の反論が予想される。「サイレント・マジョリティ」が実在する証拠はあるのだろうか?

 

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なんと、これが存在するのだ。そう、「鍵付きアカウント」という形で。

これは私の経験談だが、さる2014年の春、『Dark Souls 2』が発売された時、それはもうネット中では賛否両論の…と言っても、賛:否=2:8ぐらいの比率だったが、とにかく物議を醸したことを覚えているだろうか。

大ヒットシリーズの最新作でありながら、その評価たるや、敵がやたらに固い、対人戦のバランスがクソ、マラソンが面倒だと、不満が噴出し、ボロクソに貶されたのである。

Twitterとて例外ではない。議論好きな人々は、さっそくダクソがいかに退屈であるか語り始めた。それを様相を知れば、私でなくとも「ダクソ2はやらかしたんだな」と思うだろう。

一方で、私の友人、とりわけ身内同士でしか読めない「鍵付き」のアカウントの友人たちはどうか。何と、世相に反してダクソ2がいかに魅力的か、他の友人に喧伝していたのである。

ここで重要なのは、「世間では○○と言われてるが、私は××だと反論する」という形で『ダクソ』を持ち上げるのでなく、純粋に自分の感性でそこそこ面白かったと評していた点だ。

彼はSNSでネット仲間と絡まないし、ネットにどっぷり浸かってるわけでもないが、前作を何周もプレイする程に熱心なファンだった。少なくとも、私は彼の意見もまた、真実味のあるものだと感じ、『ダークソウル2』は優れた作品なのだろうと期待した。

 

別に私はマイナーゲームを支援しようとか、大衆の意見に流されるのはよくないとか、谷村ソウルは神ゲーだとか、そういう話がしたいのではない。(いずれ批評は書く予定)

要するに、今までの「サイレントマジョリティ」という概念が弱者の詭弁に終始したのに対し、

ネット全盛期の現代では、本当に「サイレント」な言論が集まっていて、しかもそれが「マジョリティ」へ膨れ得る現象が、「鍵付きアカウント(非公開アカウント)」という実体によって、可視化しているぞと言いたいのだ。

 

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インターネットのユーザーが増えるほど、身内とコミュニケーションを取るだけの、比較的カジュアルな層もユーザーが主流となるだろう。

彼らはネットを道具と割り切るので、面倒なチャネルは開かない。FacebookやTwitterの鍵垢にしてもそうだし、鍵垢にかぎらずとも、単純にリアルの知り合いしかフォローしない小規模なアカウントとかもそう。

これらが、存在を確認できる「サイレント」な人種であり、その数はネットが普及する程に増えていく。

 

ならば、聞こえる「サイレント」な人種が、「マジョリティ」である可能性を具体的な規模で仮定し、「世論」を補完する必要もあるのではないか。

よく「ネットの意見が全てではない」と言うけれど、それ以前に、我々が普段利用する「ネット」や「世論」といった概念は、果たしてこのような「閉ざされたネットユーザー」をも含んでいるか、改めて考えるべきだと思う。

仮にあなたが、理不尽な世論に愛想を尽かしても、思わぬところに、良識ある理解者は存在するかもしれないから。