ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

エアプレイでレビューとか、ゲーム業界なら常識なんじゃなかったのって話

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arrow1953.hatenablog.com

今更感漂うんだけど、昨今話題になってる「ゲームをプレイせずにレビューした」という件について、こちらで少し論じたい。

まず結論から言うならば、私は大衆の議論が「エアプレイ」に向いていること自体が不毛であり、真に問題とすべき課題は「レビュー」そのものだと思う。

ゲームというメディアにおいて、インターネットの口コミはとても強い影響力を持つ。そこを踏まえた上で、「エアプレイ」の根本的な問題と、模範的な「レビュー」のあり方について述べたい。

 

エアプなんてそこらにあっただろ

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単刀直入に言って、今のゲーム界隈でまともに読みたくなるレビューは少なすぎる。

かつて、この界隈の有力な論者が「日本でゲーム批評が受け入れられない理由は、批評が受け入れられる程、その文化が成熟しているかどうかが怪しいからだ」と唱えたことがあるが、これには私も同意せざるを得ない。

 

とりわけ、なんとか通のように、仮にも企業単位で運営しているメディアにおけるレビューでさえ、あまりに杜撰だ。プレスリリースを基軸に公式サイトのプレイ動画の印象を加えただけのような、ライターの保身に徹した内容にして、その分量だけは無駄に多い。要するに、プレイしなくても書ける(分かる)内容のレビューだ。

今どき、一々ストーリーから「○○と××が存在する世界で~」と説明し始め、「△△を駆使しながら~」などとゲーム内容を一から説明し、それだけで完結する文章など必要だろうか?youtubeには「公式サイド」の素晴らしいプレイ動画、そして公式サイトには無駄のないリリースが掲載されているというのに。

私は「PC GAMER」や「IGN」の海外誌を盲信しているわけではないが、それにしても日本の雑誌のレビューはつまらない。確かに、ウェブを「PC」から閲覧するのが常識だった時代なら、こういったレビューも必要だったろうが、SNSが発達し、ブログが横溢した今になって、もはや「広告的レビュー」は飽和状態だ。

これがプロのレビューだと平然とまかり通るなら、或いは、炎上を恐れてこの程度のレビューしか書けない程にメディアを萎縮させてしまったなら、今の日本が、レビューを受け入れられない土壌であることの、何よりの証左だろう。

 

【囲みレビュー】『Bloodborne』──過去作品との比較を含めて、本作の魅力を語り合う | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

(一時期話題となった商業誌のレビュー。実際のゲームプレイと食い違う記述が多々見受けられる。とりわけ「リゲインでゴリ押しできる」というのはさすがに厳しいか。)

 

自白しただけで叩かる/正直者が馬鹿を見る

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だからこそ、今回の「動画を鑑賞しただけである」と前置きしたレビューにも関わらず、「遊んでもいないくせに批評するな」と多くの非難が集まったことは滑稽でならなかった。

AmazonやTwitterのようなSNSならいざ知れず、プロのライターが集まる雑誌やサイトで、どれだけ「エアプレイ同然の」レビューが平然と受け入れられているのだろうか、そのレビューに影響され同じようなレビューを偏見だけで語る人間が多いのだろうか。

まだエアプでも自分で判断しているうちはマシで、一番酷いのは、ただ偏見を雪だるま式に固めたような世論に乗っかり、暴言をまき散らす意志薄弱な大衆だ。そして当然のように、そんなものがレビューサイトのトップに踊り出ることすらある。

 

だが先述したように、私はエアプレイレビューに対する「大衆の攻撃」がアホらしいというだけで、「レビュー」そのものを否定しているわけではない。商品の魅力をしっかりと伝えることもまた大切なプロの仕事だ。筆者がゲームに触れたかどうかはおいといても、面白いレビューは一つの作品として面白いのだ。

当然、私も一人のゲーマーとしては、より個性的なレビューが読みたいと思う時もある。だがそれは、所詮一人の読者の欲求に過ぎない。ライターとて時間が無限にあるわけでなく、個人の好みや能力だってあるだろうから、いくら「本当にプレイしたのかよ」と突っ込みたくても、一つのレビュー、一つの作品として読んできた。(論外なレビューはそっ閉じした)

 

だからこそ、「エアプ」という言葉はあまりに便利すぎると思う。先ほど指摘したレビューでは「エアプ」であることを自白していたが、元々、気に入らないレビューに逐一「エアプ認定」していけばいいという風潮は、いつぞやのハード論争のように根強く残っている。

そもそも、ブログのように論者を特定できるメディアならいざ知れず、SNSや匿名掲示板でどうやって「エアプかどうか」確かめるというのか。仮にプレイしたとして、それは序盤だけクリアしたのか、裏ボスまで倒したのか、どこまでを「プレイした」と認めるのか。あまりに定義として弱い。

故に、「てめぇプレイしてねぇだろ」とツッコミを入れた人間が、「てめぇこそプレイしてねえだろ」とツッコまれないはずもなく、結局「エアプ」云々は下卑たレッテル貼りに終始する。

もちろん、露骨にゲームの内容と食い違った印象を与える記事には反論すべきだが、一つの根拠に漬け込んで叩きまくった結果、「海外レビューまとめ」とか、「2chの感想まとめ」をそんなに読みたいと思うのかね。

とにかく、レビューを批判するなら記事に触れた点とゲーム内容と比較して言うべきだろう。

 

http://www.4gamer.net/review/live/comanche4.html

(2000年当時の4gamerによる『Comanche 4』のレビュー記事。中立的な内容にして、しっかりと情熱の落とし所を掴み、それでいて無駄のない文章。これぞプロの仕事だろう。)

 

以上、「エアプレイでレビュー」と類似したレビューがいかに数多く業界に浸透しているかに触れ、そして次に、「エアプレイ」によるレッテル貼りで一箇所に集る大衆の攻撃性を指摘した。

この話題は正直まだまだ掘り下げようがあると思うが、一つ確実なことは、インターネットというメディアに大きく依存したゲーム文化にとって、「レビュー」は依然として強い影響力があるということ。だからこそ、こうして広告的なレビューが横溢する現状があり、また気に入らないレビューをエアプ認定して絡む人間もいる。(その結果、エアプと前提に書いた記事が発火したわけだが)

何にせよ、ゲームの開発事情が刻一刻と成長する中で、ゲームを鑑賞する鑑賞者としての文化もまた、成長する必要性が多少なりあるのかもしれない。

 

(オマケ:理想的なレビューとは何か)

レビューを論じたからには、こっちも触れておこう。

まず、私が理想とするレビューは、「自分の頭で考えて書いたレビュー」、ただそれだけである。

別に突飛な解釈を入れる必要はない。ただ最後に「私はこう思う」と付け加えるとか、或いは誰も褒めてなかったようなポイントに触れるとか、何か少しでも独自の発想があるなら、少なくとも私は喜んで読ませて頂いているし、仮に私と異なる立場であっても嬉しく思う。

オタク同士の肴でも、頼まれてもいない広告記事でもなく、堂々とした話者の作品が読みたい。そして同時に、まだ日の当たらない作品がいくらでも残っているのだ。ヤクザ地味た倫理性よりも、その人の個性と経験が生かされた文章のほうが、よほど文化に貢献するというものだろう。