読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

コンテンツのマイナー路線(インディーズ)と商業主義(AAA級)は重複しないという話

エッセー

 

 

f:id:arcadia11:20150607164613j:plain

“もう作ろうと思わない”アート系インディーゲームの雄「Tale of Tales」が最新作で商業的失敗 | AUTOMATON

 

よく、売れないが作りたいものを作るマイナー路線と、作りたくないが売れるものを作る商業路線を、二項対立的に考える人がいる。

特に、昨今のゲーム業界ではインディーズゲームが伸びてきたのもあって、「AAA級 VS インディーズ」「渋いレトロゲーム VS ハリウッドな新作」「ヌルゲー VS マゾゲー」みたいな構図で、作品が説明されることが多く、

ゲームのレビューを読んでいても「これは○○出身で~」というバイアスありきで書かれているものが多い。

だが、これは早計だと思う。多少なり傾向があったところで、「良い作品」とは、マニアにもカジュアル層にも受けて、初めて良い作品なのだ。

 

例えば映画ならどうか。

日本で有名な『ローマの休日』なら、序盤に誰もが憧れるようなローマの景観や、王女と平民の禁断の愛を仄めかすことで、誰でも感情移入できるような「カジュアルな」導入部が設けられるが、

中盤では主人公が、記者としての職務と王女への庇護欲を巡って葛藤したり、結果として自分の情愛を曲げてでも王女の生き様を尊重するなど、非常に「シリアス」な決断が迫られるシーンが挿入されている。

また、一般的に「泣きあり笑いあり」は、優れた映画を評する紋切型の批評だが、これも端的に「笑い」でカジュアル層を取り込み、「泣き」で映画マニアを落とす、両義的なテクニックである。

 

f:id:arcadia11:20150607164646j:plain

 

ゲームにおいても同じことだ。

一般的にAAA級タイトルの代名詞的に扱われる『Call of Duty』にとっても、ただグラフィックや演出を盛り上げるだけでなく、そこに国家間のすれ違いや唐突な戦死といたシリアスな話題もぶち込み、

ゲームだけ見ても、持久戦や狙撃戦といった豊富なシチュエーション、スプリントやADSといったアクションなど、他FPSとは一線を画する快適性と奥深さを維持している。(そもそもこのフィーチャーを広めたのは『CoD』だ)

逆に、マイナー路線を突き進む作品として認知されている作品、『Dark Souls』シリーズの場合、

硬派なレベルデザインでプレイヤーを試す一方、隠された武器を拾うとサクサク進めるとか、強敵はマラソンで抜けられるとか、実は抜け道が結構ある。

何より、困った時にはCOOPしてもいい、という救済ルールが面白い。どんな強いボスだろうと、3人で袋叩きにすれば瞬殺であり、これを「マゾゲー」と呼ぶのは無理がある。

インディーズの『Super Meat Boy』も難しい作品として有名だが、こちらは死ぬ度に主人公の肉体が四散する滑稽な演出がされ、ちゃんと「笑いどころ」でモチベーションを保たせているし、

『The Swapper』は難解な哲学的メッセージがウリだが、幻想的な宇宙空間をぼんやりと眺めていて感動するように、ビジュアルだけで十分楽しめる。

 

f:id:arcadia11:20150607164734j:plain

 

 

結局、マイナー路線と商業路線は重複しないどころか、むしろそれぞれが相互作用を果たすことで、更に面白い作品に仕上げることが出来るのだ。優れた作品は「泣きも笑いも」満たすのである。

だから、クリエイターさんが「こういうの作りたいけど、理解されないなぁ」と落ち込む必要もないし、それを言い訳にマイナー街道まっしぐらに突き進んでも、そうそう面白い作品は作れない。

何より、鑑賞者にとって、AAA級とかマイナーとか、そんな概念に縛られて作品を切り捨てるのは勿体無い。いくら高尚だろうと、つまんねーなと思えばぶった切ればいいし、逆にカジュアル化しても、「あの硬派なシリーズが日和ったな」と落胆せずとも良い。

もちろん、『ARMA』のように、両方の路線を採択せず、あえてマイナー一本で進むことで名作が生まれることもある。何にせよ、様々な作品を楽しめれば、それに越したことはない。

 

真に魅力的な作品は、決してカテゴライズできず、どんな環境や題材でも見出すことが出来る普遍的なものである。