読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

運ゲー=クソゲーなのか?

f:id:arcadia11:20150607140026j:plain

インダス文明が世界で最初のサイコロを創りだしたのは、4000年前のことらしい。

それからというもの、場末の賭博から国際経済に至るまで、少なからずランダム性はシステムの中を這いずりまわっている。

テレビゲームとて例外ではない。「この敵を倒せば、1%の確立で伝説の剣をドロップする」という誘惑に、どれほどの少年が睡眠時間を削ったことか考えれば、ゲームは「運」と共にあったと言っていい。

だが、そもそもゲームは人間が知略を尽くして戦う競技である。そこに、理論や法則を受け付けない「運ゲー」は、果たして必要なのだろうか?

 

結論から論じよう。私は「運だけのゲーム」は嫌いだ。プレイヤーの創意工夫を奪ってしまうし、何よりゲーム側の作り込みが足りないものになりがちだからだ。端的に言って、ソーシャルゲームに多いパターンである。

だが一方で、製作者が「運」の配分を徹底的に計算した上での、「運ゲー」ならばむしろゲームの可能性を広げてくれると思う。

では、この両者を分かつ基準は何なのだと疑問に思うかもしれない。そこでまず、我々が日常的に触れる「確立」と、ゲームの中での「確立」の、本質的な違いについて論じてみよう。

 

まず第一に、我々が日常的に触れる確立、つまり自然災害がいつ発生するのかとか、友人と雀卓を囲んだ時の勝敗といったものの確立は、全て神に委ねられている。

当然だが、現実生活における確立を人間が改竄することは出来ない。ダイスの目、カードの種類… どんな富豪であっても、どんな才能の持ち主でも、「確立」の聖域に踏み入ることは出来ない。

だからこそ、プレイヤーは平等に与えられたチャンスを奪いとることを夢見る。そして確立という甘美な響きに釣られて、人々は博打に吸い寄せられていく。

 

f:id:arcadia11:20150607140319j:plain

一方で、ゲームにおける確立の場合はどうだろうか。

仮に、「1%」でメタルキングの剣をドロップ出来るゲームがあったとする。これは一見、前例の「確立」と同じ性質の聖域だと思うだろう。即ち、誰も改竄することのない聖域としての確立である。

だが、それは大きな過ちだ。何故なら、この確立を決めているのは神ではなく、ゲーム製作者だからである。

ゲーム製作者がその気になれば、「1%」で得られる激レアアイテムを、「100%」取得することも出来る。たった、ほんの少し権利を行使するだけでだ。

これはパチンコでも同じことが言える。経営者が決して博奕で敗北しないのは、カジノ側がゲームをコントロールしているためであり、彼らはその支配を隠蔽するために、出玉やカードのような「確立」を思わせるカモフラージュを駆使し、まるで神が仕組んだかのように錯覚させているだけなのだ。

 

では、神の座にこっそり製作者が座っている現状を前提にした上で、あるランダム要素の強いゲーム、『Civlization』について考えてみよう。

この作品は一般的に「ストラテジーゲーム」にカテゴライズされており、その名の通りプレイヤーの知性と戦略が問われる、中々に硬派なゲームだ。

しかし、こんなゲームにもランダム性は結構ある。首都の資源、隣接するNPCの立地は一定の法則を除いてランダム。調整されてるとはいえ、このランダム性は当然プレイヤーの間で格差を作り出す。ある程度の実力差なら運だけで勝負を制してしまうほどに。

では、何故こんな「運」をゲームに盛り込んだのか。

それは、「運」という非武装中立地帯を設けることで、「ゲーム製作者」をゲーム内に参加させるためである。

 

f:id:arcadia11:20150607140606j:plain

e-SportsとSportsの本質的な違いもまたここだ。Sportsは、選手同士の黙約と、伝統に則した最低限の規制の元に、プレイヤーの技術と勇気を最大限試すからこそ面白い。

だが、e-Sportsでは、技術や勇気といった能力もさながら、徹底した介入を憚らない製作陣のルールや性格を理解せねば、勝利することは出来ない。

そして、運ゲーと呼ばれるランダム性は、製作陣の最後の切り札である。この切り札があれば、製作陣の作ったゲームを完全攻略することは不可能になるからだ。

だからこそ、e-Sportsプレイヤーは本来のSportsよりも、いかに「寛容」に「適応」できるかが問われるのであり、テレビゲームとは、プレイヤーと製作者の戦いなのだ。

だからこそ、巷で言われる「運ゲー」は「初心者救済」の一環として導入されたのだという説には、あまり同意できない。

むしろ、「運ゲー」はゲーム製作者の茶目っ気であるようにすら思える。プレイヤーの集中が全方位に向けて疲れないように、非武装中立という穴を掘っておいた上で、「俺らも混ぜてくれや」的なニュアンスで、製作者と一緒にゲームが遊べる程度のものではないか。

 

 

だが、彼らは時として卑怯な手段にも出る。こっそりと神が支配すべき確立の玉座に居座り、自在にゲームをひっくり返している癖に、「神」の御姿を借りているのだから。

つまり、プレイヤーが「運ゲー」に敗北した時、誰もが平等に与えられたチャンスがなかったのだ、自分はただ運がなかったのだと言い訳したくなる。

ところが、確立や傾向を決められる以上、「製作者」は紛れも無くゲームに参加していて、NPCとかイベントとか、そんな形で我々を監視している。彼らは「神」ではなく「ビッグブラザー」だったのだ。