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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

「はちま/JIN/まとめサイト」が嫌われるのは同族嫌悪かもしれない。

 

あらゆる人間が自由にコンテンツを提供できるウェブ業界と言えど、実際に他者に読んでもらえるコンテンツそのものは極わずか。にも関わらず、「俺的ゲーム速報」と「はちま起稿」にはアクセスが絶えない。

一方、彼らはこれだけのアクセスに関わらず、その本質についてそこまで語られることはない。確かにSNSやまとめサイトでよく批判されているが、結局何がまずいのか語られることは稀なのだ。

私は別に両ブログのファンではないし、読む価値も感じない。だが、私が嫌悪感を露わにするのは両ブログだけでなく、「Naverまとめ」「Twitter」「netgeek」等、大半のサイトも同じだ。間違いなく「ゲハブログ」はウェブ界隈の読み物で最も酷く、かつ他人のプライバシーを侵害する事実は存在しても、果たしてそれは「ゲハブログ」だけだろうか。

そこで、両者の本質について迫り、その後で現代のゲームを取り巻くネット環境の弱みについて語りたい。

 

「ゲハブログ」から「大衆ブログ」への転換

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そもそも、「はちま/JIN」とは何者なのか。過去の経緯と現状を考慮して、両者のブログの本質について考えてみよう。

 

両ブログが台頭を始めたのは、今から5年程前、まだ「Xbox 360」と「Wii」、「PS3」が販売されて間もない頃、ソニーや任天堂、マイクロソフトといった企業が、水面下で日本の顧客を奪い合う競争を繰り広げていた時代だ。

地道な価格競争、有力なディベロッパーの取り込み、ローンチタイトル同士の牽制。ソニーやMSは、次の世代を担うプラットフォームを決めるべく、消費者に様々な戦略で自社商品の優位性をアピールしていた。

当然、この競争自体は極めて正当で、顧客にとっても利益の大きいものである。ただし、インターネットにおいてこの競争を、面白可笑しく、時にゴシップ的・攻撃的に報道するサイトが複数存在した。これらを世間では「ゲハブログ」と呼び、かつての「JIN/はちま」もこれに乗じて注目を浴びた。

 

ところが、現代において「ゲハ論争」は随分と下火になったように思う。三社の均衡が崩れたこともさながら、そもそもゲームの話題自体が、コンシューマ機以外にもソーシャルゲームなど、他の話題にも拡散されるようになったからだ。

にも関わらず、大手ゲハブログは生き残り続けている。それは何故か。恐らく、両者が「ゲハブログ」から「大衆ブログ」へと「転換」し、顧客層を大きく広げたからだ。

例えば、今の両ブログの記事を読んでみると、大半がゲームと無関係な話題であり、しかも雑多だ。ゲームは当然として、雑学ネタから政治ネタ、加えてアニメや漫画まで、とにかくネットユーザーの関心を惹くであろう、あらゆる話題をゴシップ性をそのままに揃えている。

 

ここで考えられることは、両ブログは今になって「ゲハブログ」から別の何かへ「転換」しており、それは逆説的に、そもそも両ブログには何らかの思想やこだわりのような「主体」はほとんどないことも裏付けている、ということだ。

つまり、彼らがゲハブログと批判される理由だった、彼らに特定のハードや企業に対する敵意などは所詮、大衆の感情を煽るためのものに過ぎなかった。それは、以前あれほど特定の企業を吊るしあげた両ブログが、「転換」によってゲーム全般のネタすら、あっさりと離れている事実からも伺える。

彼らは「企業的」だ。顧客を集めるため、アクセスを稼ぐことを目的としてブログを続ける。それは同時に、彼らが主たる顧客である、大衆の感情を要約しているに過ぎないのである。そしてその「要約」がちゃんと大衆の理念に沿っているかは、彼らのサイトが常にTwitter等でバズることが裏打ちしている。

 

 大衆ブログの源泉

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より興味深いことは、「はちま/jin」の記事のソースが、一体どこから来ているか、という点だ。

従来、「アフィサイト」「まとめブログ」として批判されてきたサイトは、能動的に記事を書くことはなく、「2ちゃんねる」に書かれてあることを編集した上で掲載しており、

名指しで「2ちゃんねる」から追放されたはちまやjinは、「他ニュースサイト」や「(炎上元の)個人サイト」、そして具体的な意見として「Twitter」、「はてなブックマーク」の意見を中心に編集をしている。

面白いことに、「はちま/jin」の管理人はその極度に排他的な記事と裏腹に、自分で手を汚していないのだ。つまり、彼らは「編集者」になることはあっても「記者」になることはないし、利潤のみを求める彼らが「記者」になるメリットはないのである。

ここに、彼らが「大衆ブログ」足りうる根拠が存在すると私は思う。

 

人はよく「ジャーナリズム」に客観性を求める。

それは裏返せば、ジャーナリズムの権威を認めていることに他ならない。記者には政治家や資本家と変わらぬ実体と権力があり、彼らの利益や思想によって客観性が冒されることは、とても危険なことだと我々は考えている。だからこそ、我々は権威ある彼らに客観性を求める。

一方、まとめブログが批判される理由もまた、「事実を歪曲しているから」「客観性に欠けているから」という、ジャーナリズム的観点における批判があるが、これは誤りだと私は思う。

何故なら、まとめサイトにおける「客観性に欠けた」記事の根拠は、むしろ「2ちゃんねる」「SNS」における既成の意見なわけで(決して当人の意思ではないけど)、彼らがいかに下劣な編集を施そうとも、最初にネガティブなイメージを大いに見出す人間が多数いなければ、彼らは最初から記事にしようとさえしないだろう。

また他にソースとして引用されるのは、「netgeek」や「Gamespa○k」のような他のニュースサイトや、他のまとめブログという場合もある。つまり、ソースの時点で既に、報道を装った無責任な記事と無法地帯と化したコメントがメインの「ゲハブログ」なのだ。

勿論、この意見には批判すべき点も多いだろう。彼らの「編集」は荒唐無稽極まるものだし、記事内容は一字一句無断転載という点も度し難く、オマケに匿名の意見を装って自分で書き込みをしたとも言われている。私も、現在の「まとめブログ」への批判は大方同意する。

 

しかし、我々がネットやSNSを利用する上で、この「記者」の存在に目を背けてもいいのだろうか。

断言するが、仮に「はちま/JIN」が閉鎖されたとしても、ウェブにおける議論がより健全なものになると、私は微塵も思わない。

何故なら、両ブログは所詮、メディアにおける大衆の意見を吸い上げて利用するだけの、完全な依存状態にあり、彼らが不健全な議論を活性化させてるのは事実としても、その媒体たる「記者」は、ネット中に存在する不特定多数の人物だからだ。

例えば、もしまとめサイトが消えたとしても、2ちゃんねるから私怨による炎上は消滅するだろうか?或いは、Twitterによるデマの拡散はなくなるだろうか?

少なくとも、普段から両サイトを利用している人間なら、常に一定の人間がゲハブログのための「種」を撒いていることはご存知だろう。

ゲハブログは火に油を注ぐことは出来ても、他人の家を放火することは出来ない。何故なら、大衆の発言を編集を加えて転載するだけの方が、リスクが少ない上に、単純に手間が省けるからだ。

 

念の為言っておくが、私は「大衆がゲハブログに餌をやっている」と言っているのではない。むしろ逆である。「はちま/jin」など規模こそ大きくても主体は薄く、むしろウェブを支配する主体はあくまで「大衆」であり、彼らはその主体に寄生しているに過ぎない、という事実を指摘したいのである。

 

衆愚への嫌悪感は、ウェブ業界全域に言えることかもしれない

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要するに、我々があの手の「ゲハブログ」を読んで感じる底知れぬ嫌悪感は、ウェブ上で目にする大半の情報にも湧き上がる可能性があるのではないか。

ゲハブログは既存のジャーナリズムとは異なり、「顧客」「記者」の二点で強く大衆に依存している点が挙げられる。

彼らのソースを読めば、確かに下劣な編集と歪曲した表現を用いているものの、他人の人格を否定するとか、頑なに主観に拘った意見など、根本的な瑕疵はソースを見出した一部のネット住人にも言えるはずだ。そして、それらを利用して喜ぶ大衆も、同じではないか。

逆に、我々がゲハブログを読んで感じる一種の危機感は、そのものずばり、我々が普段利用するSNSのようなサービス全てに共通する危機感のはずである。我々はそのリスクを、ゲハブログという「底辺」に押し込めて、目を背けているだけではないか。

 

これは私の意見だが、私はブログを作る以前から、人並みにSNSを利用していた。だがそこは、極めて独善的で、情緒的な意見が大半を占めており、読むに耐えなかった。

それは恐らく、アカウントを持つことの自意識(「自分は○○に詳しい、俺は××が好きだ」)と、匿名で意見を言える安心感、その二つが、一部のユーザーに酷いエゴイズムを見出させたのだと思う。私も、あの空間の居心地の良さはわからないでもない。

そこに目をつけたのが「jin/はちま」だった。「客の質」より「客の数」が重視されるウェブ業界で、このような大衆は利用しやすい。だから、彼らは大衆を顧客に大衆の意見を利用し、編集した。

 

私も「大衆」でいられることの居心地の良さもわかる。承認欲求を満たしつつ、リスクを回避できる「大衆」というポジション。仮に競争社会の現実で「大衆」でいようとすれば、収入なり体裁なりを失うリスクもあるが、ネットならそれすらない。私を含めて、「大衆」に堕ちて低質な情報を甘受する可能性は誰にもある。

既に閉鎖されてしまったが、かつて私が読んでいたゲーム文化を徹底的に追求したあるサイトは、ゲハブログを前に「無限の建設を」と言っていた。我々がゲハブログに嫌悪感を抱いた時、反面教師としてあれほど便利なものはない。より建設的な意見を我々が生み出せば、自ずと彼らのようなサイトは消失するか、より上質なものに変化するだろう。

(少なくとも、「Togetter」を使おうと、「はてなブックマーク」を使おうと、安全地帯で詭弁を弄して他人を攻撃する一部のユーザーの行動は、まとめブログと何ら変わらない。)

 

最後に、私は断じて両ブログによって無関係な多数の人間が攻撃され、プライバシーを侵害された事実を擁護するつもりはなく、むしろ多くのユーザーによって議論されるべきだと思う。