ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

コナミ騒動と『MGSV:TPP』から問い直す。なぜ小島監督は「監督」なのか?

 

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数年ぶりに、本格的な『メタルギア』シリーズの新作、『メタルギアソリッド5 ファントムペイン(Metal Gear Solid V: Phantom Pain)』が登場する。

 

筆者としても本作には注目しており、指折り数えて発売日を楽しみにしている次第だが、私の周りでは意外なほど『メタルギア』を知らなかった、という人も多い。

むしろ、国産では珍しい開発規模の大きさ、「映画的」と形容されるムービーを多用した作風、何より「小島監督」という人物の強い露出から、あまり好意的でない意味で、「名前だけは知っていた」という人は少なくないのではないか。

 

だが少し待って欲しい。私はこの作品のファンだが、確かにこの作品はいろんな意味で「イレギュラー」であり、また小島監督という人物のカリスマ性もまた、単なる内輪のノリではなく、むしろゲーム性に強く裏打ちされたものなのだ。

そこで、本稿では大まかな『メタルギアソリッド』シリーズの魅力を振り返ると同時に、何故メタルギアが評価され、何故小島監督に期待されるのか、そして『ファントムペイン』で何が望まれるのか、展望したい。

  

徹底したレベルデザインと、ステルスゲームの嗜虐性

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最初に、「何故「小島監督」は自分を監督であることを強調しているか」について問うたが、端的に結論を話そう。

それはズバリ、ありきたりで保守的な作風に妥協せず、誰にも真似できない本シリーズを作るには、「小島監督」というカリスマの思想とリーダーシップが必要不可欠だからである。

『メタルギア』の何がユニークか。それを一概に話すことは難しい。そもそも、どんなゲームでも「誰にも真似できない」ポイントはあるのだが、それでも『メタルギア』はユニークなのだ。

 

例えば、純粋なレベルデザインという点で見たとき、『メタルギア』は他のステルスゲームにない、驚くほど緻密なデザインが施されている点が伺える。

まず、敵兵一人ひとりに存在意義があり、その対処法が複数用意されているという点が凄まじい。それも、ただ雑多に手段が用意されているのでなく、それぞれの手段が、それぞれのリスクを秘めており、プレイヤーに取捨選択を迫るのだ。

仮に、麻酔銃を使って敵兵を排除しようとする。だが、敵兵は撃たれたその場で気絶するため、他の兵士に発見される危険もある。一方、格闘攻撃で倒せば、敵兵を処理しつつ死体まで隠せるものの、敵に近づくリスクを背負うことになる。

こういったの手段は、現代のステルスゲームではさして珍しいものではない。飛び道具と近接武器の使い分けなら、『TESV: Skyrim』でも、『Hitman』でも出来る。だが、本作はこれらのリスク・リターンと、敵兵の配置・数を、あらん限りのパターンで調整し、プレイヤーの頭を捻らせる点がユニークなのだ。 

 

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(敵の運命を決めろ。)

 

この高度な戦略性のおかげで、プレイヤーは腕を磨くに付いて、敵兵をいかに処理するかについて、プレイヤーは自分のセンスと発想を舌なめずりをしながら試すことが出来る。

敵兵の生殺与奪は全てプレイヤーが握っているという快楽。これが、凡作のステルスゲームではまず実現できない。ただ、雑多に配置された兵士や、万能すぎる道具を持っていれば、プレイヤーは興奮できないし、何も考えずに倒してしまう。

ステルスゲームでは、必然性、難易度、多様性を考慮した「レベルデザイン」という身があって、初めてプレイヤーは手段を選ぶ面白さを理解するのである。

(ステルスゲームがどれほど「猟奇的」であるかという議論は、拙稿「なぜ人はゲームにハマるのか」を読んで頂きたい。)

 

「映画のようなゲーム」が忘れてしまった、「ムービー」の役割

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また次に、「映像」と「ゲーム」を結びつける、高度な「構造」という点でも本作はユニークだ。

今ではすっかり、「映画のような」という形容詞は、ゲーム業界のバズワードになった。シューターだろうと、RPGだろうと、プリレンダのムービーや派手な演出を加えては、グラフィッカーの実力をまざまざと見せ付けようとする。

最も、小島監督は1988年の『スナッチャー』で既に30分以上のムービー(会話シーン)を垂れ流すほどに、「一方的に語る」ムービーや演出を、意図的に用いるようになっている。

そんな映像に拘る小島監督の演出と、ありふれた「映画のようなゲーム」の違いとは何か。それはズバリ、ムービーの役割を考えている点だ。

 

例えば、ほとんどのゲームは、ゲームプレイの合間に「主人公が新たな舞台(ステージ)へ移動するシーン」「主人公が次に戦うボスと遭遇するシーン」「主人公が敵や味方と次の作戦(ステージ)について会話するシーン」といったムービーが挿入されるが、

その内容自体、ゲームプレイとは明らかに乖離した、むしろゲームプレイの休憩として「映画」を楽しんでくれ、と言わんばかりの、ハリウッド文法に則った典型的なムービーを拝聴させられることとなる。

だからこそ、プレイヤーとしても「早くゲームを遊ばせろ」と文句の一つも言いたくなるのだ。

 

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(その演出は、本当に必要か? 出展:『Call of Duty: Modern Warfare 3』)

 

『メタルギア』においては、おおむね同じ内容であるものの、少しばかりの「捻り」を加えてくる。

 

例えば、『MGS2』で主人公が連絡橋を渡るムービーが挟まれるのだが、これは一見、「主人公が次のステージへ移動するシーン」を思わせる。

ところが、唐突に戦闘機が出現し、パイロットは主人公に、「貴様がここへ来るのはわかっていた!」と、主人公の行動が筒抜けであったことが判明する。これにより、「移動シーン」は一転、「ボス遭遇シーン」へと変化するのだ。

また、『MGS1』で主人公が「テロリストに監禁されたVIPを解放しろ」と命令を受け、実際にそのVIPの監獄まで行くと、なんと「VIPが何か重要なことを仄めかして突然死する」ムービーが挿入される。

こうして、「VIP救出」というありきたりな任務がアクシデントにより失敗し、新たな計画へ移行するハメになる。

 

このように、『メタルギア』のムービーは、サスペンスのような意外性、仁侠映画のような台詞の掛け合いでもって、ただ作業的にこなしがちなゲームプレイを引っ掻き回し、緊迫感とどんでん返しのカタルシスで、プレイヤーの心境を盛り上げてくれるのだ。

 

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(助けに来たはずが・・・?)

 

このように、『メタルギア』におけるムービーとは、ただゲームプレイの合間に付け加える「添え物」ではなく、むしろ積極的にゲームプレイ同士を繋ぎ、一体化することにより、物語とゲームプレイの双方向的なシナジーを生んでいる。

この、「ムービー」の役割をしっかりと見極めている点が、本シリーズがいわゆる「ムービーゲー」と一線を画する根拠と言えるだろう。

 

ゲームが伝えられるものを考える

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(軍人という生き方、主人公という生き方、プレイヤーという生き方を問う)

 

だが、『MGS』の最も特徴的な点は、現実の問題やプレイヤーの倫理性を、ストレートに投げかけてくるテーマだろう。 

 

本作のストーリーは、基本的に「スネーク」のコードネームを持つ主人公が、核兵器でもって世界を脅威に晒す武装集団を、潜入作戦によって掃討する、というのが主なシナリオだ。

これは一見、安っぽいハリウッド映画の、ありがちなストーリーに思える。すなわち、悪いテロリストに対し、マッチョなアメリカ人が正義の鉄鎚を下す話だ。

 

ところが、先述した筋書きは、ゲームを進めていくうちにプレイヤーに音を立てて崩れていく。確かに、核兵器も武装集団も存在するが、登場人物が少しずつ嘘をつき、また予期せぬアクシデントが多発するのだ。

そこで、当事者として放り込まれた主人公(プレイヤー)は、少しずつ心境を変化させていくだろう。そして、我々がこの「ゲーム」をプレイして何を感じたかを、『メタルギア』は訴える。

 

例えば、『MGS1』の主人公はアメリカ政府の軍人だが、そのアメリカ政府は、敵となるテロリストに手を貸していたり、或いは核兵器の生みの親であったりする。

テロリストもまた一枚岩ではなく、リーダーはスネークとただならぬ因縁で結ばれていることもあるし、彼らは現実の「湾岸戦争」の反省をも議論する。

このようにして、『メタルギア』は、安易な「ハリウッド的娯楽」に妥協せず、或いは、手垢の付いた「非暴力メッセージ」を叫ぶでなく、むしろ、既存の価値観に対するカウンターとしての物語性を発揮する。

 

それだけではない。キャラクターたちは実在する事件、「マンハッタン計画」や「キューバ危機」を挙げつつ、ゲーム内の架空の事件とリンクさせることで、「主人公」を飛び越え、「プレイヤー」へと直接話しかけるようになる。

ストーリーは、現代における安全保障問題や科学倫理へと発展し、「プレイヤー」としての立場さえ巻き込み、現実世界への物語へと発展していく。

 

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(「たかがフィクションだ」と割り切る前に) 

 

本作はそのストーリーから、「説教臭い」と評されることがあるが、むしろそれは、本作の紛れもないアイデンティティである。

何故なら、本作における「説教臭さ」は、「ゲーム」という媒体が、どこまでプレイヤーの心を揺さぶれるか、そのために、どこまでプレイヤーの現実世界と結びつくことが出来るか、という挑戦だからである。

 

誤解しないで頂きたいのだが、この作品は決して「現実の問題」を匂わせてストーリーを深く見せかけよう、という作品ではない。

むしろ、本作で「核兵器」を取り上げることは、それが『メタルギア』という作風に合致しているからに過ぎない。

本シリーズで主に取り上げられる、核兵器、クローン、情報社会といった問題は全て、ゲームデザインや世界観の中に溶け込むテーマであり、我々の感情を動かす普遍的な問題であり、小島監督による意思でもある。

すなわち、説教臭いほどに物語内に現実問題を巻き込み、プレイヤーに必死に訴えかけるのは、それによって「ゲームによる経験」を我々に強く印象付け、「ゲーム」という媒体の表現(いわゆるナラティブ)を、徹底的に拡張するためなのだ。

 

 

 

 

「ゲーム」という媒体の可能性を追求する

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 『メタルギア』の歴史は長い。

シリーズ処女作の『メタルギア』は1987年にMSXをプラットフォームに発売されており、最新作の『MGSV』を含めると、28年もファンに愛されてきたことになる。

 

濃厚な脚本、強いメッセージ性、映画のノウハウを存分に応用した演出、 豪華な声優、3Dの空間を限界まで活用したアクション性、練りこまれたレベルデザイン、細部まで徹底した拘り…。

これらのノウハウを、30年間近く維持してきたというのだから、その情熱は計り知れない。

「ゲーム」という文化に対する熱意と、「ゲーム」という媒体の可能性への冒険心。そして何より、『メタルギア』というシリーズへの強い拘りと、小島監督の決断力。それこそが、これ以降の『メタルギア』における核であった。

 

従来、「ゲームに理解のある人を喜ばせる」作品を作ることは難しいとされてきた。例えば、ハードなレベルデザイン、難解なストーリー、映像を多用した演出・・・ どれも、理解する姿勢がなければ、かえって不快な思いをするからだ。

だからこそ、そこには「監督」による情熱、決断力、個性が必要になる。(勿論、初心者も楽しめる内容になっているが。)

 

そして最初の問いに戻ってみよう。何故、『メタルギア』は愛されてきたのか、何故『小島監督』はファンに「監督」と愛されているのか。

それは、既存のシリーズによって陳腐化することなく、「ゲーム」という媒体の可能性を徹底的に引き出せるのは、「小島監督」という強いカリスマ性と、「KOJIMA PRODUCTION」の職人性に他ならないからだ。

 

AAA級ゲームの規模が肥大化する現代において、膨大な開発費とのリスクを鑑みて、どの要素もそつなく作られた、チャレンジ精神の薄い、似通った作品が増えてきたのは否めない。

そんな中、小島秀夫は「監督」を自称し、リスクと責任を背負い込むことにより、新たな挑戦と、強い拘りと、難解なナラティブを、『メタルギア』シリーズで実現してきた。

 

(余談だが、小島監督の作品は『MGS』だけではない。『ボクらの太陽』や『ZONE OF THE ENDERS』もまた、ゲームという媒体を意識して作られたこだわりのある作品である。ついでに、小島監督の意外な側面も発見できるかもしれない。)