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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

「マニアがゲームを潰す問題」が、何故ゲーム業界には当てはまらないか。

ゲーム業界について

 

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男色ディーノのゲイムヒヒョー ゼロ:第275回「新規とマニア」 - 4Gamer.net

 

「ブシロードの代表取締役社長で,かつ新日本プロレスの元会長でもある木谷高明氏が,以前「週刊プロレス」のインタビューで語っていたことがあってね。これすなわち「すべてのジャンルはマニアが潰す」。私も同意なのよ。広い意味において,そのとおりだと思う。

 

「誤解のないよう先に言っておくと,ジャンルを支えるのもマニアなの。(中略)ただ,それは現状を維持する場合のみね。ビジネス,とくにエンターテイメントビジネスって,現状維持をしようという志だけでは,現状維持すらできないものが多いのね。」

 

「するとここで,マニアと新規の摩擦が問題になってくるの。マニアって,基本的には排他的なのよ。それこそ,よりマニアックな知識を持っているほうがランク上位とされる,よく分からないピラミッド世界でもあるから。」

 

ゲームにおける「マニアと新規」の相克を述べたこのコラムは、マニアの必要性も説きながらも、結論として「今いる顧客だけに向けたエンターテイメントは,先細るしかない」と述べられている。

4gamerによるこのコラムは、「音楽・映画・マンガでも同じことが言える」とサブカル界隈の随所で引用されているのだが、ではこの理屈、そもそも本当にゲームにおいて正しいと言えるのだろうか。

 

面白いことにゲームはこういう議論は、ネットで元から盛んだったと思う。

特に格ゲーやFPSでは顕著で、「マニア VS 新規」がよく「上級者 VS 初心者」とか、「名人様 VS 信者」みたいな対立に置き換えられ、しょっちゅう話題には挙がっていた。このコラムはむしろ、既存の議論に沿って展開されているようにも思える。

 

ゲームを潰したのは「マニア」なのか?

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まず、上述のコラムには疑問点が多いと感じたので、最初に指摘させて頂く。

 

第一に、「マニアがゲームを殺す問題」を「ビジネス」に絞り、「作家性だとか作品性だとかの志向の話ではなく。」と述べている点。

エンターテインメントのビジネスには作家性は大きく影響するのではないか。映画ならアカデミー賞や、ゲームなら口コミという作品性への評価、ひいては「マニア」の先行的評価が、「新規」による売り上げを左右するはずだ。(まぁ筆者は更に「作家性もなくはない」と予防線を張っているが)

 

次に、そもそも主語を前述の通り「ビジネス」に絞ると、「マニアがジャンルを潰す」から「(コンテンツの方向性)をマニアに向けるようになる」という理屈は成り立つのか。

アカデミックな側面ならともかく、ビジネスだからこそ、作風を決めるイニシアティブは製作側が握り、マニア向けか新規向けかの選択肢が設けられる時点で、「マニア」や「新規」は潰される側ではないか。(そもそも、マーケティングの成否は完全にコンテンツ側の責任では)

 

最後に、「マニアは排他的。知識があるとランク上位とされる」とあるが、それこそ「ビジネス」と何の関係性も見出せない、単なるファン同士の内輪揉め、しかも筆者の想像であり、

内輪のマナーがビジネス及び文化に影響を与える根拠はここで明記されていない。(例えば、ゲハ対立の内輪揉めにクリエイターが影響されるか。そもそも、ゲーマーのほとんどはゲハ対立に興味がないのではないか。)

これでは「ビジネス」に主語を限定していることと矛盾するし、仮に主語を「ビジネス以外」にも広げるなら、その原因や結果を「マニアも新規も楽しめるコンテンツ」を作る製作側に求めるのは不可能だろう。(どんなコンテンツだろうと内輪もめは存在するのだから)

 

このように、「マニア」と「新規」を二分する議論は実際難しい。だが、私は何も、コラムそのものを批判しているのではない。むしろ、コラムの内容そのものはネットで既に散々議論されていて、このコラムがその議論の論点を洗っているからこそ、私は考え直したいと考えているのだ。

 

先細りを避けられないゲーム業界

 

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<14年ゲーム市場>7年間でテレビゲーム半減、ソーシャル1400倍 (まんたんウェブ) - Yahoo!ニュース

 

「2014年に国内で販売されたゲーム機とソフトの市場規模は、前年から8.9%減の約3733億円で7年連続で減少していることが27日、ゲーム業界団体のコンピュータエンターテインメント協会(CESA、岡村秀樹会長)が発行する報告書「2015 CESAゲーム白書」で明らかになった。任天堂の携帯ゲーム機「ニンテンドーDS Lite」が大ヒットした2007年の約7113億円から半減しており、テレビゲーム市場の縮小が続いている。」

 

大変残念なことだが、既にゲーム業界の最盛期は過ぎてしまったらしい。国内、それもビデオゲーム限定ながら、市場は明らかに衰退しており、その回復も困難なものとなっている。

海外のゲームにしても、PCゲームにしても、恐らく同じことだろう。一概に「衰退」と言っても、Oculusのようなイノベーション、Steamのようなビジネス革新などの例外こそあれ、やはり全体的に落ち込み気味であることは否定できない。

 

その際たる例は、FPSだろう。かつてFPSと言えば、マルチプレー、シングルプレー共に覇権を握ったジャンルであり、とりわけマルチプレーにおいては、『Quake 3』や『Counter Strike 1.6』を主に全盛を築いた、という印象が強い。

ではそれから、何故『CS1.6』や、スポーツ系FPSの金字塔『Quake』は衰退していったのだろうか?

ネットにおける有力説は、やはり「難しすぎて初心者がついていけなかった」「上級者が幅を利かせた」というような、冒頭の理屈と同じような議論だ。

私自身、これを否定するつもりはない。事実、『Quake』ではテクニックを覚えなければ移動すらままならなかったし、『CS1.6』でも、最低限Configや設定を抑えることは常識とされていた。これらの不合理なハードルは取っ払われるべきだろう。

 

さて、それから「難しすぎる」という巷の議論を裏付けるように、FPSは徐々にカジュアル化の一途を辿る。タイマン中心の『Quake』からチーム戦中心の『Unreal Tournament』へ人が移ったかと思えば、『Battlefield』や『Enemy Territory』のような「お祭りゲー」も流行した。

現代では、最終的にプラットフォームさえ、PCからコンシューマ機へと移った。ほとんどの作品はシングルプレーとの抱き合わせで開発され、コントローラーの操作に合わせてべたべたと走りながら撃ち、カジュアル化したゲーム性を埋め合わせるかのようにアンロックシステムが盛り込まれたのだ。

まぁ、私はこのようにカジュアルな現代FPSを一概に否定するつもりはない。かつてのFPSとは別物と言うべきだが、新たなプレイヤー、新たなハード、それには新たなゲーム性が必要なのは事実だ。

だがここで、改めて最初の議論に立ち返って欲しい。「すべてのジャンルはマニアが潰す」「現状維持ではなく新規獲得」。それを裏付けるように、マニア的要素を廃絶したゲーム性が主流となった。そしてFPSは「新規が入ってきやすいコンテンツ」になったのである。

 

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しかし、そのコンテンツの未来はどうなったのか。まず、マルチプレーにおける競技や大会の盛り上がりは、MOBAを初めとする他ジャンルに移り、残った主要プレイヤーも『CS:GO』や「CSクローン」のような古典的作品に帰っており、新たなFPSに「適応」することは少なかった。

一方、Game Informerによれば『Call of Duty』の『Ghost』の売り上げは、前作『BO2』と比較して19%減、『Battlefield4』の売り上げは『3』と比較して21%減と、プレイヤーの数さえ失いつつある。そもそも、ゲーム市場全体の規模も上記の通り半減した。

つまり、その「カジュアルなゲーム」すらも、目に見えて衰退しており、最終的に「シューター」の新作そのものが市場から徐々に姿を消している。すなわち、ジャンルそのものが衰退しているのである。(この点はGI誌も指摘している。)*1

 

これはシューターに限った話ではない。MOBA等の新勢力は元気だが、硬派なRTSはジャンル単位で衰退しており、格ゲーも停滞感は否めない。

何より、従来ゲーム文化の主幹を担った、シングルプレー専用のゲームも、軒並み難易度を下げ、紋切り型のハリウッド演出、爽快感重視の、ゲームに興味のない人間を引き込もうと躍起になっている作品が増えた。

 

他の業界は知らないが、少なくともゲーム文化で、わざわざ「マニアよりも新規を!」と心配する一部の顧客の姿は、むしろ滑稽にも思える。。

何故なら、ゲーム市場が衰退し、生まれる本数も増え、開発費の肥大化でリスクも増大した。こんな状況では、開発側が自ずから「新規向け」のカジュアルなゲームを作るのは極めて自然な現象であり、それは事実あらゆるジャンルで実現しているからだ。

問題は、その先にどんな結果が待っていたかという話である。

 

客と作り手を分離するのでなく、互いが「信じる」こと

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(顧客の歓声が、小さな可能性を呼び起こす。 出展『Five Nights at Freddy's 4』)

 

コラムにおいても、「一番理想的なエンターテイメントは,マニアが去らずに新規が入って来やすい,それでいてリピートしてもらえるようなコンテンツ。(ただし実現不可能に近いため、単純に「今の顧客への集中」だけは避ける)」という、極めて投げっぱなしジャーマンな結論に至っているわけだが、

前述の通り、そもそも二極論でどうにかなる話でもなく、ましてコンテンツを提供する側がコントロールできる話ですらないのだ。

 

まず結論から言って、顧客の多様性は確かに認めるべきである。だがそれは、コラムで「ピラミッド状」形容されているような、「マニア」と「新規」という安易な相関関係ではない。

そもそも、ゲームという媒体に何を期待するのか、という点で、プレイヤー間の価値観は全く違う。

「『CoD』はシングルが命!」や「マルチこそ本命!」という人、「映画みたいなゲームすげえ!」や「俺は昔のストイックなゲームが好きだ」という人が存在するように、彼らの「理想的なゲーム」は全く異なる。それこそ、「新規」と「マニア」で異なるように。

そして何よりも、この「マニアが潰す」議論で欠けているのは、ゲームを作る側もまた、自分たちの異なる価値観を有している視座である。

「様々な層に楽しんでもらえるAAA級作品」を誇りに思う企業や、「理解できる人にだけ遊んでもらうインディーズ作品」を作り続ける数人の独立スタジオなど、ディベロッパーによって、同じく自分が作りたいと考える作品は異なるのである。

 

だからこそ、ゲームは成長してきた。「こんな作品が遊びたい」と考えるプレイヤーの意思と、「こんな作品を遊んで欲しい」と考えるディベロッパーの意思が合致し、互いに信頼関係を築く。

更に、人は成長する。『Minecraft』のように、プレイヤーの意見がディベロッパーのアイディアを助長することもあるし、また、『ICO』が「敵のいないゲーム」を提示したように、優れたゲーム作品が、プレイヤーの価値観を変革させることも実際に起きることだ。

ゲームの顧客は、新規とマニアの「ピラミッド」などでは決してない。むしろ、様々な価値観とゲームに対する関心が複雑に入り混じった、「顧客のサラダボウル」なのである。

 

ここから一つ明らかなことは、コンテンツは「作るもの」であり、色々な人が「遊ぶもの」でもあること。「○○というコンテンツは初心者に厳しい!」「××というコンテンツなら誰でも遊べる」という、作り手にあらゆる責任と権利を背負わせる、「クリエイター信仰」は、幻想に過ぎない。

そもそも、もしクリエイターが、「○○%がマニア、××%が新規だな」と予測できるなら、どんなビジネスだって成功する。それは社会主義の幻想に等しい。パレート最適など不要になるだろう。だからこそ、「”全”顧客のためのゲーム」というのは偽善なのだ。

この議論の通り、「今いる顧客だけに向けたエンターテインメント」は確かに先細るだろう。だが、代わりに「他の顧客にも向ける」としても、そもそも「今いる顧客」の定義が曖昧な上に流動的なのだから(人はマニアであり、新規である。)、それは結局「今いる顧客だけに向ける」ことと結果は変わらない。

 

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コラムを書いた氏は、プロレスラーだと言う。つまり、エンターテインメントを「作る側」の考え方であり、私はその点で参考になった。恐らく、彼が同胞のクリエイターたちに向けた内容とし、主語と問題点を再確認すればより興味深い内容になっただろう。

 

逆に、「マニア」「新規」と言って、形式的な「ゲーマー」のポジションに甘え続けるだけでは、決して、ゲーマー側は作品を理解できない。特に、ゲームは「オタク趣味」として自虐的な姿勢に「甘えられる」。その甘えが、「オタク知識だけで自慢をする”マニア”」を生み出す。

我々は、決して「マニア」でも、「新規」でも、まして「オタク」でもない。それらを名乗る権利もない。それらは所詮、主体と責任を回避せんがためのエクスキューズだ。我々はまず、一人の市民として、ゲームの文化と作品に、それぞれの価値観でもって向き合うべきなのだ。

 

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では、結局コンテンツの作り手には何をすべきか。これはズバリ、自分たちの信じるベストをぶつけることに尽きると思う。

『Dear Esther』やら『Space Engineers』みたいに「難しすぎて、絶対に評価されないだろ」的なゲームが売れたと思えば、『Call of Duty』は常にフレッシュなシューターをかき集め、『CS:GO』は予想だにしないビジネスで人口を獲得した。

つまり、作り手の強い信念が、遊び手の心を動かし、価値観を変えたのだ。これはマニアや新規を問わず、純粋に質の高いコンテンツであれば、仮にそれが尖ったものでも見つけてもらえるはずだ。

 

また、上記の話はオタクの夢物語ではない。むしろ、その「信頼」によって成立するゲームのビジネスは、取り巻く環境からも成功していると思う。SteamやKickstarがあり、E3のようなカンファレンス、Twitchのような配信が、作品に眠る多様性と可能性を掘り起こしている。日本なら、ニコニコ動画で『Minecraft』のような小規模作品が流行したことは、記憶に新しい。

もちろん、マーケットリサーチに基づいた開発も必要であることは、任天堂がCMに「ゲーム画面」でなく「ゲームを遊ぶ人」を使ったことも引き合いにだされる。しかし、任天堂が本当に評価されたのは、そのCMに写ったコンテンツがゲームとして特に優れていたからではないか。

 

現代では、今までゲームに触れたことのない人たちがゲームを遊んだり、逆に、プロゲーマーや実況者のようなゲームに打ち込む人々が、評価される時代になった。

ゲームに多様性が増したように、ゲーマーも多様性が増した。それを認め、同時に、「マニア」「新規」としてでなく、純粋にゲームが好きな一人の市民として、ゲームを問い直すこと。

そうすれば、必然的に作品は理解され、マニアや新規の層もそれぞれ厚くなり、ゲームのマーケットは拡大するだろう。長くなったが、それが私の経験から考えられる答えである。

最初から、「新規を確保しつつ、マニアを離さないコンテンツ」のような虚像など、必要ないのである。

 

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(マニアがプレイし、新規が見守る。e-Sportsは可能性の宝庫だ。 出展:『Free to Play』『Dota 2』)