ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

ゲームで描かれた倫理 『Fallout』『DarkSouls』『GTA』から考える

 

「人之可使爲不善、其性亦猶是也。」

(人が不善な行為を行うことは、人が水のように外界の力に流されてしまうからだ)

   -孟子

 

「人之性悪。其善者偽也。」

(人は性質から悪である。もし人が善であるなら、それは当人の力によるものだ)

   -荀子

 

「人は悪であるのか、或いは善であるのか。」

この論題は数千年に渡って尚、明確な結論が出ることはない。ただ、上述した偉人の議論から鑑みるに、絶対的に人間が善や悪だと断言できることはないが、少なくとも善悪は人の意志の捉え方による点は共通している。

では、ゲームの主人公はどうだろうか。作品にもよるが、ゲームにおいて主人公はプレイヤーの意志によってその生き様を変える。それは勿論、善であるか、悪であるかも、プレイヤーの選択次第なのである。

そして、そんなプレイヤーの行動に「それは悪徳である。」と傲慢にも断言してしまえるのもゲームの醍醐味だ。それは、プレイヤーの立場、善悪を記号という形で「可視化」することでもある。

 

Fallout 3 「カルマシステム」とロールプレイとしての倫理観

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「可視化される/記号化される倫理観」といえば、まず先に我々が思い浮かべるのが『Fallout』シリーズ、とりわけ『Fallout 3』だろう。

『Fallout 3』は核戦争によって荒廃したアメリカ本土を舞台とする、オープンワールドRPG。行政も司法もない世界で、プレイヤーにもNPCにもあらゆる犯罪は個人の倫理観にのみ委ねられている。

故に、プレイヤーにはあらゆる蛮行も善行も許される。悪漢に襲われる弱者を救うこともできれば、罪もない人間を奴隷として売り飛ばすなんてことまで出来てしまう。

だが、これらの行動を繰り返す度に、プレイヤーの内部ステータスである「カルマ」なる記号の値が上下する。更にカルマの値によっては、クエストの分岐やNPCの会話にも影響する。(とは言え、「善」であれば有利ということも、「悪」であれば損ということもない。)

 

ここまでなら面白そうなシステムだが、このシステムには批判的な意見も多い。まず、何を持って「善」「悪」と定義しているのかわからないし、何より判断している人物が不明瞭だからだ。

しかしながら、カルマは本気で作者がプレイヤーの善悪を判断した結果というよりは、「『Fallout3』流の世界観における倫理観」を伝える機能とも呼べるかもしれない。

というのも、この「カルマ」を具体的にプレイヤーに伝えてくれるのは、ゲーム内登場人物である「スリードッグ」というマスメディアだし、「カルマ」の是非によってプレイヤーを処罰する「タロン傭兵」や「レギュレーター」の目的も、彼ら自身の倫理観と言うより単なる賞金目当てだからである。

結局のところ、本作のカルマというシステムは、キャピタルウェイストランドと呼ばれる箱庭の「枠」を強烈に意識させ、ロールプレイとして遊ぶことを促すためのものとして捉えるべきではないか。

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 Dark Souls 「暗月の刃」に垣間見る、権力と同一視される倫理観

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『Dark Souls』といえばその退廃的な世界観が魅力の1つに挙げられる。信仰と科学、善と悪… あらゆる概念が否定された虚ろの世界において、プレイヤーは一体何を見出すのか。

さて、本作はアクションRPGだ。そのものズバリ、ステータスを伸ばして武器を装備し、敵を倒していくゲームである。

そのステータスの中でも面白いのが「罪人度」だ。これはプレイヤーが善良なNPCを殺害するなどでカウントされるステータスであり、一定の値に到達すると他のプレイヤーによって「侵入」され、「裁き」の名のもとに攻略を妨害されることとなる。

 

では、そもそも一体誰が「罪人」だと認定しているのか?また、何を基準に「裁き」を行っているのか?

傲慢なパニッシャーの正体は、神の根城であったアノール・ロンドの地下深く、王の墓所にて明らかになる。プレイヤーを断罪しているのは「影の太陽グヴィンドリン」なる神と、彼が率いる一団「暗月の刃」だったのだ。

「影の太陽」は本作の世界観における最高権力、大王グウィンの子孫であり、「神」の血を継ぐ者である。故にグヴィンドリンは己の使命感と権力によって、「暗月の刃」なる教団を率いて私刑を行っていたのだ。(因みに、プレイヤーもこの教団に入信できる。また、貢献すれば報酬として優秀な武具が貰えるので人気も高い。)

 

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(陰の太陽グヴィンドリンの姿 出典:『Dark Souls』)

 

とは言え、このゲームはあのニヒリズム溢れる『Dark Souls』だ。驚くべきことに、プレイヤーは直々にグヴィンドリンや、彼の創りだした偶像である「グウィネヴィア」を倒す、「神殺し」を実行することも出来る。

当然ながら、神と戦う道を選んだプレイヤーは、(他にどんな罪を犯していなくても)報復としてグヴィンドリンから「罪人」の烙印を押され、世界中のプレイヤーから命を狙われることとなる。

だが冷静に考えると、この場合における「罪」という基準は、「グヴィンドリン」自身の保身が第一で、次に彼の眷属の生命が優先されている。つまり、あくまで彼個人の「神」としての価値観でもって、プレイヤーの罪が咎められるに過ぎない。そこに本作のアナーキズムが光るのだ。

(因みに、プレイヤーの中には自ら罪人となって、PVPを楽しむ猛者もいるのだとか)

 

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Grand Theft Auto V 「手配度」と倫理観に裏打ちされた自由度

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「自由度」、それは昨今のゲームを語る上で外せないバズワードの1つである。

高評価のオープンワールドの作品はもれなく「自由度が高い」と評価されるし、『MGS』最新作のように、既存の硬派なシリーズにすら自由度を体感させるようなコンテンツが付加されている。

そんな自由度を日本で最も広めた作品といえば、誰もが知る本シリーズ『Grand Theft Auto』だろう。そう、広大なアメリカの大地で、プレイヤーは自由に買い物を楽しんだり、犯罪に手を染めることが出来る、あのアクションゲームだ。

 

ところで、そもそもプレイヤーは一体何を持って「自由度」を体感することが出来るのだろうか。マップが広ければよいのか、NPCが多ければよいのか。いや、それだけで十分ではない。

「自由」を感じさせるために必要なものは、徹底したリアリスム溢れる世界と、そのリアリスムをギリギリの境界で突破するようなスリルだ。

つまり、まず広大なマップ、群衆の雑踏、多様なビークル、こういったオブジェクトを独自のセンスで仕立てあげ、その後、ゲームでしかできない非現実的な行為をプレイヤーに確約する。

つまり、単なるシミュレーターではなく、1つのエンターテインメントとしての面白さをプレイヤーに掴ませることが重要になる。

 

ではその現実と非現実の交錯は、具体的にどのように再現すればよいのか。名作『GTA』は、「犯罪」という形でプレイヤーに世界を誘わせる。

プレイヤーはゲーム中で大なり小なり罪を犯すだろう。それは意図的な大虐殺かもしれないし、主人公の生業としてのミッションかもしれない。

だが、豊かさと平穏を抱く架空のアメリカにおいて、プレイヤーが犯罪という微かな非現実に触れた時、オープンワールドにおける「自由度」なる概念の裏付けが取れると同時に、その世界の広大さに圧倒されるのだ。

 

 

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