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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

まとめサイトが嫌われても一向に減らない理由

 

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[L] PVや収入のために知りもしないことを書くことについて | ライフ×メモ

こういう記事がはてブ経由で回ってきたので少し言及したい。ここ最近はモンハンの攻略記事ばっか書いてたのもあるしね。

内容を要約すると、とあるコラムニストが映画『スターウォーズ/フォースの覚醒』に関する批評記事について憤り、「なんて稚拙な内容だ。記者は映画を観てないに違いない!」と怒って、その批判記事の批判記事を書き、

最終的に「これは現代メディアの限界だ。読み手が無知蒙昧で、書き手がPVを優先するから、こういう記事が横溢するんだ」と結論づけたという話。

 

私の結論を先に言うと、この件に関しては半分同意、半分懐疑といったところ。

まずそもそも、この元記事を書いたコラムニストが批判する記事の内容自体、そんなにおかしいものと思えない。むしろ、コラムニスト自体がPVを荒稼ぎするために、「意図的に極論を述べている」ようにも思える。

(以下、どうでもいい反証)

例えば、「新しい主人公は、旧作の主人公よりもフォースの力に適応するのが早すぎる」という指摘に対し、コラムニストは「その謎は未来の作品(future films)の伏線なんだぞ、それすら理解できないのか!」と怒っている。

おいおい、そりゃ記者が「解釈した」のも無理はないだろう。特別な断りもなく作品を作品内に完結させられないなら、それは脚本家の不備。わざわざ将来的な作品の脚本まで予想して、これが立派な伏線だとまで丁寧に考えるのは、一部のファンぐらいなものだ。

ついでに言うと、このブログ自体、元記事を引用するばかりで自分の見解も明らかにしておらず、そもそも原題は「スターウォーズ:フォースの覚醒と馬鹿げたジャーナリズムの進撃」という、純粋なレビュー批判と取るべきで、ブログのタイトルにある「知りもしないこと」のようなまでの過激な表現は見当たらない。PVや収入のために他人の記事を引用しながらこんなタイトルを付けたのだろうか?

第一、「PVや収入のために知りもしないことを書く」事自体は誰でも起こしうる。新聞でさえ誤表記や誤解はする。そもそもの問題はPVのためにわざと「知りもしない」ことを書いて、世論や大衆感情を捻じ曲げようとすることではないか?

 

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ネットにおける、情報とユーザーの多様性

ただ、私もこのコラムニストの理屈には一部同意できる。あくまで私が「読者」としての立場なら、ウェブ上の9割の記事を軽蔑している。「知りもしないこと」がネット上の溢れているのは確かだ。

だが正直、ネットが必ずしも「正しい情報」で満ちなければならず、「誤謬ある情報」が駆逐されるべきかと言うと、それは現実的とはいえない。

例えば、数年前に発売された『モンスターハンター4』へのバッシング。「はちま/JIN」を中心に、ネットでそれはもう叩かれた上、その意見の大半は「証明出来るほどに」誤謬のあるものばかりだった。(ゲーム自体の出来は置いといて)

それでも、その程度の「誤謬ある情報」で満足する顧客は、「正しい情報」を求める顧客より実際多かったのも、両サイトへの多大な読者を見れば明らかだ。

電車の通勤通学時、スマホでほんの数分、暇つぶしがてらにネットを楽しむ人々の大半は、本心から「情報媒体」を望んでいるのでなく、自分の意見と合う都合の良い「ストレス発散媒体」を望んでいるに過ぎないからだ。

 

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つまり、本質的にウェブは、(というかメディアは)、ただ愚直に公正な情報と、嘘八百でも面白い情報、これらの多様な商品を提供する本質を持っている。では上記のライターのように、これはネットの限界なのだろうか? 私はそれが早計だと思う。

そもそも、ネットは人工的な都市国家ではなく、ネットワークで繋がれた自然の密林だ。統治者も伝統もなく、誰にも支配することは出来ず、理解さえ不可能だろう。無数の人間が、無数の無意識、無数の欲望でネットを利用しているからだ。

ある者は、この多様性を市場原理の一種と指摘する者もいるが、正直なところネットは市場よりも、貨幣や法律といった点ですら自由であり、故に「市場原理」以上の多様な、カオスそのものがネットなのだと思う。

 

確かに、明らかに退屈で誤りのある内容のコンテンツが流行していることは、傍から見れば腹だたしいものである。しかし、それで楽しんでいる人間と、楽しめない人間、我々の想像を遥かに超える「価値観の多様性」がネットに存在しているのも明らかだ。

ゲームに興味がある人間、ない人間。他人を尊重する人間、軽蔑する人間。議論を好む人間、暴力を好む人間。知性のある人間、ない人間。どちらが上か下かは知らないが、これほどの世界観の相違がありながらも、ネットという特殊な環境では、互いに言語を交わし、同じサイトを閲覧出来るのである。

正直言えば、私はそりゃ「持たざる人間」から直にクソを投げつけられたこともあるし、実際軽蔑している。もしネットが100人の村なら、彼らと直接事を構えることもあるだろう。

しかし、ネットは底知れぬ混沌そのもの。結局、持たざる人々が多数派だし、彼らは我が物顔でネットを闊歩している。無論、彼らを糾弾するのも自由だし、正しい環境を目指すのも自由だ。だがそのカオスそのものを、上記のライターのように嘆いただけでは、何も変えられないのではないか。

 

小さなスマホと大きなネット

ネットは広大な海に例えられる。何人もこの広大な海から、特定の人種や意見を追い出したり、キャパシティを封鎖することは不可能である。そして同時に、それはネットの究極的なメリットの「自由」を奪うことになる。

しかしそれは、システムやユーザーの欠点だろうか?いや、それは「ネット」という誰にも支配できない大海の「理」とも呼ぶべきではないか。

 

我々はスマホやパソコンから、いとも簡単にネットにアクセスし、好きな情報を引き出せる。しかしだからこそ、「ネット」という大自然の領域を侮り、何故支配できないのかと理不尽に感じる人も多い。

ある意味、それは蜃気楼のようなものだ。片手で持てるスマホを通し、ネットという海に飛び込む。現実世界では決して出会うことのない距離にいる、異なる職業、人種、教養を持つ人々が、ネットでは異常に近い距離で接する。だからこそ混沌が生じる。

だからこそ、我々にはその海を豊かなものにする、個人の努力が求められ続けているのであり、誰もが客人でなく当事者なのである。

 

無論、私は「知りもしないこと」を書いた記事は嫌いだし、それを読む人間と相容れることもないだろうと思う。しかしそれだけなら記事は完成しない。その「知りもしないこと」による、明らかな問題点と矛盾点を抽出し、本質的な議論は何だったか立ち返らねばならない。

だからこそ、翻訳元となった記事は、半分的を射ている。元記事に反駁するだけでなく、その反駁から自らの意見をぶつけ、同じ土俵に立っているからだ。

逆に言えば、こんな「知りもしないこと」に悪態をつくだけで、自分は「知っていること」を発言するわけでなく、何ら生産性のない騙りを続けてる時点で、既にその蜃気楼にすっかり取り込まれた同じ穴の狢なわけだ。

その点で、翻訳元になった記事を読み違えているのではないか。(そもそも、どれだけの人間が翻訳元の記事を自ら読んだのかは知らんが)