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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

映画『グラン・トリノ』の感想 真のアメリカン・ドリーム

芸術/映画/文学

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原題:Gran Torino

公開:2008年

監督:クリント・イーストウッド

主演:クリント・イーストウッド

 

何だか存在自体を忘れかけていた「芸術/映画/文学」というカテゴリーだが、ふと、なんとなしに『グラン・トリノ』という映画を観て、ストンと「すごい映画だ」と腑に落ちたので、ここでその感想を残したい。

 

 

あらすじ -1950年代と2000年代、変化するアメリカ

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(72年型、フォード・トリノ)

 

表題のグラン・トリノ(Ford社の名車だ)、主演クリント・イーストウッドとあるように、本作の背景には1950年代、晴々しいアメリカの姿が影として存在する。

ゲーマーにとっても、『Fallout』シリーズや『Bioshock』シリーズ等で目にする「アメリカン・ドリーム」の姿。先進国の頭角に立ち、経済・文化・産業、あらゆる側面でアメリカは「最強」だった。

本作にはそんな要素が散りばめられている。世界中の車を生産した「フォード社」、マカロニ・ウェスタンからハリウッドまで大活躍したスター俳優の「イーストウッド」。いずれも、アメリカン・ドリームの象徴だ。

 

退役軍人で少し堅物の主人公「ウォルト」もまた、そんなアメリカを胸に抱き、また忘れられないでいる。ポーランド系移民の彼の宝物は「グラン・トリノ」。他の日本車はダサくて乗れたものじゃない。

だが、アメリカの姿は変化している。インド、中東、アフリカ、東アジアから、様々な移民が押し寄せ、同じ白人のウォルトの息子とて、日本車のセールスマンで、教会に敬意を払わない。挙句、ウォルトが出征した朝鮮戦争に至っては、誰もが覚えてさえいない。

文化と時代、変化の激しいアメリカで、その2つが慌ただしく波打つ中、ウォルトは自分らの友人もろとも、疎外感を感じるようになる。

 

そんな中、隣に引っ越してきたのは東南アジアの少数民族、モン族の一家。最初は互いに不信感があったものの、奇妙な縁でウォルトは自分の退職後の余生を彼らと過ごすことになる。

確かに価値観こそ異なれど、決して悪い奴らではない。中でも、気弱な少年「タオ」は、ウォルトと共に過ごす中で徐々に成長していき、ウォルトもまた素直で誠実なタオを信頼していく。

だが、タオは同じモン族のギャングに絡まれていた。それを聞いて憤ったウォルトは、彼らをタオから遠ざけるよう脅迫する。しかし、ギャングは逆恨みをして、モン族の一家を襲撃する。ウォルトは消沈する。これは自分の責任なのだ。

 

タオはウォルトに訴える。「許せない!奴らに復讐しよう、殺すんだ!」と。だが、ウォルトの答えは決まっていた。タオを地下室に監禁し、こう訴える。

「朝鮮戦争では、お前のようなガキを13人は殺したんだ。人を殺した気分だと?そんなのは最悪だ。まして、降参しかけたガキを殺して勲章をもらったなら、もっと最悪だ。」

ウォルトはその勲章をタオに預け、自分一人でギャングたちのたまり場へ急行する。ギャングたちはウォルトの存在に気づき、怯え、銃を抜く。

「タバコが吸いたい。火をよこせ。ないのか?なら、俺は自分のライターを出す」

彼は懐から「何か」を抜く。ギャングは焦り、発砲する。だが、ウォルトが抜いたのは彼の言葉通り「ライター」だった。朝鮮戦争の英雄、第1騎兵師団の証が刻まれた、彼のライター。発砲したギャングたちは丸腰の老人を射殺したこととなり、急行した警察は即座に彼らを緊縛。ウォルトは銃なくギャングたちを「倒した」のだった。

葬儀に参列するモン一家。遺書が読み上げられる中、「俺のグラン・トリノはモン族のタオに譲る。決してヒッピーみたいに落書きしないこと」と、最期までウォルトは悪態をつくことを忘れていなかった。

 

本筋とミスリード

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さっとあらすじを読んだところで、早速本作の批評に移りたい。

まず、本作を観た人の感想で多いものが「アメリカ人の姿勢」と「イーストウッドの標榜」に着目したものだ。

前者で言えば、アメリカという国家が現代に入ってより多様性を帯びた中、イーストウッドは旧世代のアメリカ人(WASP)と、新たな移民たちとの交流を描くことで、両者の融和を実現したかった現代風刺的な物語

後者で言えば、かつて西部劇で悪人を討伐する役として華々しく活躍したイーストウッドが、暴力と決別することを描こうとしたメタ的な物語。(所謂、町山智浩の批評)

両者とも、私も真っ先に思い浮かんだ印象であり、事実、物語の中で中核として形成している話なことは間違いない。それどころか、この2つのテーゼを1つの映画の中で全く違和感なく取り込んでいる点で、既にこの作品が傑作というに相応しいと言える。

 

たが、私はこのような少し穿った解釈、即ち、「歴史的」「政治的」「メタ的」の視点ではなく、もっと率直な、人間としての生き様を考える上で、本作はなお輝く名作だと考えている。(無論、そういった観点も素晴らしいが、あくまでサイド的な解釈という意味)

例えば、この映画のカメラは、そのほとんどで主人公ウォルトの姿を捉えている。ウォルトがどう考え、どう行動に移したかが、本作の全てと言ってもいい。本作は、ウォルトという、一人の男の人生録なのだ。

 

では、ウォルトとはどんな人間だっただろうか。アジア人に理解を示す優しきヒーローか。はたまた、家族に理解されない孤独な堅物老人か。

いや、そこが本作における「本質」なのだ。確かに、本作は西部劇メタであり、現代社会を描いたルポタージュであるかもしれないが、そのために「ウォルト」という人間を、「イーストウッド」や「50年代のポーランド人」といった記号に、置き換えてはならないのである。

 

ウォルトの生き様

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確かに、ウォルトは一見、そういった「記号」で観てしまいそうな人物のように描かれている。

例えば、作品の序盤で家族から疎まれるシーン。息子たちからは、明確に「親父は50年代に生きている。」と判断され、実際、ウォルト自身も隣に引っ越してきたアジア人への不快感を隠そうとしない。

中盤に至り、モン族と出会っても尚、その「記号」としての姿は変わらない。西部劇の筋書きそのままに、ウォルトはモン族に「理解を示し」、彼らに手を差し伸べる。また神父に自身が朝鮮戦争で敵兵を殺した事実も告げる。「怖いジイさんがコロッと優しくなる」ことで、我々を泣き落とそうとしているようにも思える。

ここまでなら、ウォルトは「イーストウッドの肖像」や「WASPの映し身」と考えられても不思議ではない。だが、彼が「ウォルト」として、その人格を発露し始める。

 

例えば、ウォルトが神父と何度か会話を繰り返し、神父もまたウォルトの罪にも理解を示した時、ウォルトは驚くべきことを「告白」する。「自分が苦しんでいるのは、命令されてもいないのに敵兵を殺したからだ」と。

そもそも、我々の知る退役軍人は、その大半に「国家に操られて」という建前がある。幾多の戦争映画を見るまでもなく、若者の兵士は国家に動員させられ、上官に命令され、殺すか、殺される。

ウォルトは、神父のそのような見方を否定する。彼は自らの意思で敵を殺した。理由はわからないが、彼は「自らの責任」を強く自覚し、内包しているのだ。それは、映画の上でも決して彼を「記号化」させない処置とも言える。

また、彼は決して隣人を「モン族」として特別視しているわけでない。彼はモン族がアジアのどこに住んでいるかも知らないし、そもそも、彼らの一人「ユア」をふざけて「ヤムヤム」と呼び、「タオ」を「トロ」と呼ぶ辺り、「差別」に特段注意を払ってすらいない。

挙句、彼はタオに職を紹介する時、「これが男同士の会話だ」と言って、イタリア人に「イタ公(Italian prick)」と呼ばせている(無論、ふざけあってだが)。

 

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極めつけは、タオを地下室に閉じ込めた時、彼に自分が行った罪を打ち明け、何故自分だけが戦いに赴くか説明するシーンだ。

「お前は俺の誇らしい友達だ。だが、お前の人生はまだ長く、俺は決着を付けにいく。だから俺一人で行くんだ。」

複雑な台詞だ。ウォルトの苦渋の選択が、この台詞に詰まっている。

だが注目して欲しいのは、「お前は俺の誇らしい友達(I'm proud to say that you're my friend)」という台詞だ。

ウォルトは決して、優しくカウボーイとして手を差し伸べたわけでも、親父として寂しかったのでも、誰かに息子として自分の意志を受け継いで欲しかったわけでない。

タオは、ウォルトにとって人生最後に出来た「友達」だったのであり、彼はただ「友達」を助けようとしただけなのだ。

 

だからこそ、この映画は「ウォルト」のための物語として、より純粋な視点に立って考察すべきでないか。妻に先立たれ、自分も余命わずかであることを自覚した一人の男が、奇妙な隣人と少年に出会い、新たな価値観を見出し、そして自分の「生と死」のあり方を見出す、そんな物語を。

 

真のアメリカン・ドリーム

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私が本作に見出した、ウォルトの生き様。それは美しくも、勇ましいものでもあった。

では最後に、今の私自身として、現代に生きる我々に通ずる教訓を、本作に生きるウォルトの姿、「アメリカン・ドリーム」の体現者としてのウォルトという考察を紹介したい。

 

ウォルトは確かにカッコいい。だが、それは彼が長身だからでも、ジョークが上手いからでも、ギャングに一方的に勝てるカウボーイだからでもない。それは、彼が「アメリカ市民」という、「アメリカン・ドリーム」の体現者だからだ。

本来、民主主義における「市民」とは、名誉ある階級である。

例えば、日本では、長年このような議論がされている。18世紀にジョン・ロックらが説いたように、欧米の市民は自らの権利を傲慢な王から取り戻し、国民は自らの財産と思想を持つ権利が保証された「市民」として認められているが、そこから法を輸入した日本ではどうかと。

日本では、欧米のような革命もなく、憲法もアメリカの草案あってのもので、実際は社会や共同体と同化して行動するだけの「愚民」の集まりである。欧米人のような、個人が自分の意思で行動する習慣が、日本人にはないのだと。

私の意見では、別段、欧米人でもそこまで聡明な人間はいるかという疑問こそあれ、実際、日本人が未だに村社会の文化や習慣に拘り、日本国憲法が前提とする「市民」という概念がほとんど受け入れられておらず、自覚すら出来ていないことは否定できない。

 

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(アメリカ合衆国憲法の草案は、英国から自由を求めた市民によって作られた)

 

その点で、ウォルトは極めて、理想的な「市民」なのである。別にウォルトは金持ちでもなく、教養や血統に恵まれてもいない。されど、彼は常に自分の意志と決断を尊重し、それに伴う責任と義務を重んじようとしている。

例えば、財産への拘り。自分が手に入れた家と車を大切にしている。家の芝の管理は怠らず、侵入者があれば「俺の芝から出て行け」と銃を突き立てる。それは、彼がケチだからでなく、自らの「財産」に誇りを抱いており、だからこそ自分の手で管理出来るのである。

逆に、自分の息子夫婦が「父さんは十分働いた。家の管理は任せて、老人ホームに入ればいい。」と進めた時、彼は激しく憤っている。だがこれも、彼が頑固なわけでなく(実際、息子夫婦の決めたことには一切口出ししていない)、自分の人生を自分で決めて生きていこうと考えているからだ。

最後に、彼は先述したように、戦争での経験を「命令されてしたんじゃない」と言い、その罪さえ我が身に背負おうとしてきた。そして一方で、年下のタオに対しても、決して恩を押し付けることなく、「友達」として、一人の人間として認めているのだ。

 

このような意味で、「市民」を描くことは決して容易いことでない。タフガイを描くなら、テロリストをボコボコに倒す描写があれば十分だろう。

だが、ここで描かれたウォルトの姿は、その映画全編を通して描かれる細やかな描写を通して、ある種の「市民」として、本当の意味で「理想的なアメリカ人」として生まれるのである。

この映画で描かれたアメリカは、移民がひしめく殺伐な国家か、グラン・トリノのような栄光ある国家か、それとも少数民族に理解を示せる進歩ある国家か。

私はここに、日本人が見たほんとうの意味での「アメリカン・ドリーム」を見出した気分になった。複雑な政治や情勢といったノイズの奥底で光る、誰もが憧れた「アメリカ人」の姿に、その夢を信じられるイーストウッドの願いに、私は心を突き動かされたのである。

 

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