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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

何故FPSは素晴らしいか ‐FPSとモチーフを考える

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(注意:本稿には一部グロテスクな表現を伴う画像が添付されています)

モチーフとは、仏語で「主題」や「動機」を意味する語であり、一般的に芸術においては描かれる対象、単位を指す。

 

例えば、絵画でよく「リンゴ」が描かれることはご存知だろう。

何故、画家はリンゴを描くのか。それは、リンゴの球状は描くのが難しいからとか、宗教的なニュアンスで物語性を広げるためなど、あえてリンゴというモチーフを用いる上で、芸術家による様々な思惟があるわけである。

 

では、我々に馴染みのある「FPS」ではどうか。クリエイターたちは、何故「FPS」を用いようとしたのか、「FPS」でしか描けないゲームとは何か。

一般には、FPSは主人公の固有性を廃し、プレイヤーによる自然な感情移入を助ける作用があると考えられているが、ではその「FPS」の中で、更にどのようなモチーフが用いられているのか。

ここでは、「FPS」という媒体の可能性を引き出した、様々なモチーフについて考察していく。

 

Farcry 2 ‐「治療」によって苦痛をわかちあう

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2008年にUBIにより開発された本作は、紛争の止まない北アフリカを舞台に、広大なフィールドを活かした「ゲリラ風ステルスゲーム」を、展開した作品である。 

要するに、オープンワールドで好き勝手暴れるFPSなわけだが、ストーリーは小説『闇の奥』(植民地時代のアフリカで白人の生き様を問う、暗い物語)をベースにしており、しかも難易度も高く、爽快感や万能感を重視した続編『Farcry 3』とは真逆のアプローチと言える。

 

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そんなわけで賛否両論の本作。だが、ゲームそのものがハードな分、演出にも拘りが感じられ、とりわけ今回紹介する、「治療」の描写は興味深い。

本作では、体力は自動回復システムではなく、ヘルスシステムで管理され、一度被弾するとプレイヤーが自ら回復しなければならない。

この時、薬を持っていればプスッと腕に注射するだけで回復するのだが、「持っていなければ」、主人公が自ら銃創に指を突っ込んだり、火傷でボロボロの皮膚に包帯を巻く、といった原始的な治療の描写を、まざまざと一人称視点で見せつけられることになる。

 

これが極めて痛ましい。FPSならではの没入感もさながら、アニメーションのパターンも豊富で、切り傷、銃創、骨折、突き刺さった破片と、どれもかなりグロテスク。自分の腕までズキズキ痛みそうである。

FPSには、一人称視点で主人公とプレイヤーの体験を共感させる点が優れている。しかし、本作は主人公の苦痛まで共感させ、アフリカの大地で戦う狂気をプレイヤーに体験させてくれる。

 

Call of Duty Advanced Warfare ‐「進化」の代償

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2014年に発売された『Call of Duty』の最新作、『CoD:AW』は、初めてPVを公開した時点で、その異様な作風が物議を醸した。

というのも、今までのリアルなミリタリーアクションの作風から一変し、まるで『Halo』や『Crysis』のように、SFじみた強化骨格を装備した兵士が登場。ゲームそのものも、ジャンプやブーストを駆使するバランスに変化したのだ。

まぁ、実際に遊んでみると従来のゲーム性とそこまで変わらず、いつも通りの高い評価を受けたわけだが、さて、ちょっと意外にも楽しめたのが、キャンペーンの工夫だ。

 

物語の序章。主人公はアメリカ海兵隊に入隊した新兵で、韓国に進軍した北朝鮮軍と戦う任務を負う。

ここまではいつもの『COD』だ。味方兵士がワラワラと溢れ、いかにも悪そうな敵兵を押し返す。親友ポジションの「ウィル」も、プレイヤーを率先してリードしてくれる。

ところが、敵軍のヘリコプターに爆薬を仕掛けた味方の「ウィル」が、アクシデントで爆死してしまう。助けに来た主人公を、「あとは任せた」と突き飛ばすウィル。だが、運悪く爆発したヘリの破片が、主人公の左腕を直撃。

主人公はかろうじて一命を取り留めたものの、自分の左腕は戦場に置き去りにされてしまう。

そして始まる本当の物語。失った腕を機械に置き換えたサイボーグとして、軍を捨てて傭兵会社の兵士として生きる物語だ。

 

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初めてサイボーグが主人公となる『CoD:AW』。その「進化」は多くのファンを驚愕させたが、同時に、本来『CoD』の持つ、ミリタリーや現代戦の魅力を捨て去ることでもあった。

開発のSledgehammerも、そのことに気付かなかったわけではあるまい。主人公が失った左腕と海兵隊の制服は、同時にかつての栄光ある『CoD』のメタファーであるのかもしれない。

(因みに、最新作『COD:BO3』でもほぼ同じような演出が確認されている。)

 

Grand Theft Auto V ‐次世代の表現を体験する

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今回紹介するゲームの中でも、この2013年に発売された『Grand Theft Auto V』ほど有名な作品はないだろう。そう、アメリカを舞台とした美しいオープンワールドで、自由気ままに遊べるクライム・アクションゲームである。

だが、ここで大抵の人は疑問を抱くはずだ。「え?『GTAV』ってFPSだっけ?」と。そう、これらの作品は元々TPSとして有名な作品である。

 

私が今回取り上げるのは、2014年に「次世代機・PC向け」として新たに発売された、『GTAV』である。こちらは、PS3では実現しなかったハイレベルなグラフィックと共に「FPSモード」が搭載された。

「『GTAV』の世界をFPSで体験しよう。」確かにこれは魅力的な追加要素だが、なぜ『GTA』でFPSなのか。少なくとも、ゲームとしてそこまで面白い要素とも言えない。

 

だが、この「次世代機リマスター」と「FPSの視点」こそ、何より相性の良い組み合わせだったのである。

まず、このリマスターでは美しいグラフィックが白眉だ。細かく描かれた遠景、眩い太陽のライティング。そして同時に、車や武器といった身近な装備、一つ一つ細かく描かれた街のビル、ハッキリ読み取れる看板の数々。

だが、いくらグラフィックが美しくとも、それをどう「鑑賞してもらうか」。プレイヤーが美を感じるための手段が、従来のゲームには不足していた。

 

そこで、「一人称視点」なのだ。看板、武器、車、アスファルト、揺れる草木、すれ違う人々の表情。こんな細かいところは、TPS視点ではまず見過ごされる。

だが、FPS視点を通すことで、リマスターとして「ミニマムに」生まれ変わった世界を、トコトン味わうことが出来る。PS3版にて、三人称視点でさえ、ボケて見えたテクスチャも、PS4版では、一人称視点を通してなお、細やかに描かれていることを知ったとき、プレイヤーはRockstarの拘りを理解するのである。

 

そしてもう一つ加えるとするなら、FPSによって従来の『GTA』が持っていた「暴力性」が強調されている点も見過ごせないだろう。TPSでは主人公たちが代行していた暴力を、FPSではプレイヤー自らが背負うことになる・・・。この点に関しては、海外でも議論の種となっていた。

http://www.gamespot.com/videos/the-point-gta-violence-a-matter-of-perspective/2300-6422613/

 

Dear Esther ‐実存主義的アプローチとしての視点

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2012年にSteam等で発売された『Dear Esther』は、当時としては珍しい、「雰囲気ゲー」として、ちょっとした話題になった。

というのも、ゲームの目標はただ歩くことで、そこには倒すべき敵も、取得すべきアイテムもないのだ。世界観は寂寥感漂う孤島で、廃墟や散歩が好きだという人なら、すぐに飛びつきたくなるだろう。

 

とは言え、既に『ICO』や『風ノ旅ビト』といった偉大な先達が開拓したこのジャンルで、『Dear Esther』は何を見せてくれるのか。それは、私の先入観を大きく上回るものだった。

 

「親愛なるエスターへ(Dear Esther.)。もうここにカモメは来ない。今年からこの地を避けているらしい。魚を採りつくしたためか、私を避けているためか。ドネリーはここに漂着してすぐに、ひ弱な家畜を放牧する牧者たちを記している。・・・」

 

ゲーム中、プレイヤーがどこか訪れたり、道を歩いていると、突然主人公は、このような詩的なフレーズで語りかけてくる。その内容は、プレイヤーにとってはサッパリだが、とにかく文章量は多く、しかもしょっちゅう話しかけてくる。

しかも内容と言うと、主人公の主観的な独白でのみ登場する「ドネリー」や「エスター」といった不透明な登場人物や、抽象的な表現で誤魔化された「主人公」の不安定な精神と、とにかく要領を得ない、難解な独白なのだ。

本作は一見、じっくりと一人称視点で冒険する「雰囲気ゲー」を思わせるが、その実態は、主人公の持つ強烈な精神と、島における幻想的な空間が合わさった、極めて「実存主義的」*1な物語が主軸となっているのである。

 

さて、ここまでなら単なる「小説風ゲーム」の感想だ。本作の素晴らしい点は、更に「主人公」の姿を写さない「FPS」視点を介することで、極めて不安定な「私」の精神状態と「プレイヤー」の体験をシンクロさせる点なのである。

主人公の独白は確かに難解だ。いちいち、「カモメがどう」とか、「暗闇がどう」みたいな話をする。話に興味がない人ならうんざりするだろう。

にも関わらず、本作はとても居心地が良いのだ。主人公の語る物語は極めて抽象的だからこそ、「FPS」という「不安定な視点」を介することで、驚くほどに難解な物語は「私」のものから「プレイヤー」のものへと昇華する。

 

そこに、儚くも非現実的な「島」を、FPSで歩く経験が重なる。「島」にこびりついた、「私」に記憶は、FPSというプレイヤーの視点を通し、やはりプレイヤーのものへと還元される。

自分を喪失した「私」、画面外からしかゲームに触れられないプレイヤー。彼らの不安定な実在性は、「FPS」という視点でもって、むしろ居心地のよい体験となり、或いは、「不安定さ」を突きつけられる衝撃的な経験となるのだ。

 

 

*1:簡易に説明するなら、「我おもう、ゆえに我あり。」を体現したような、”個人・自己”に重きを置いた哲学・文学等のこと。