ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

3本のゲームが示す、暴力性と倫理性の克服

高橋名人が語る:ファミコンブームの終息と、日本ゲーム業界への提言 (1/4) - ITmedia ビジネスオンライン

 

「今のTVゲームは、まさにリアルを追求しています。しかし、私はこの傾向に多少の疑問を持っています。

 例えば、現在のシューティングゲームは、FPS(ファースト・パーソン・シューティング)やTPS(サード・パーソン・シューティング)が主流と なっています。海外のゲームに特に多いのですが、戦争などのワンシーンが採用され、その敵キャラクターとして人間を描いているものが多く見られます。

 かつてハドソンでは、自然界に存在しているものは決して敵キャラにしないようにしていました。人間の形であればロボットでいいし、クマやライオン などの猛獣であっても、何かほかのものと組み合わせたものにしていたのです。なぜなら、TVゲームと言えども、実際に生きているものを傷つけるのはどうな のかというところに問題意識を持っていたからです。

 だから先述のFPSであっても、実際の戦場ではなく、SF的な空間で、宇宙人などを相手にしてもいいはずなのです。リアルを求めるのはいいけども、もう少し配慮したほうがいいのではないかという懸念があるのも事実です。

 たとえグラフィックはキレイであっても、極端に言えば、そこに映るのが四角と丸型でできた物体でも、TVゲームの楽しさは変わらないはずなのです。」

 

この部分だけ強調されて報道されているが、実際の内容は高橋名人がファミコンブーム当初に第一線のゲーマーとして活躍した時代を、自身の経歴と共に紹介するコラムの中で、あくまで初期ゲーム文化との比較で書かれたものだという点について、予め明記しておく。

 

さて、この高橋名人の指摘は鋭いと思う。少なくとも、当ブログにおいて私は古典的作品より、現代的作品を数多く紹介し、批評し、賞賛してきた。そして、現代におけるゲーム作品のデザインが、ある種の袋小路にいることは否めない。

まして、現実に存在する人間を殺す描写があるのか。これはゲームをプレイしていない人間の誤解を招きかねないし、倫理観を問われる。

それでも、現代のクリエイターたちがどのような意図で、どのような「配慮」をもってこの問題に直面したのかという点も取り上げたい。私は現代ゲームを紹介する上で、彼らがあえて現実的かつ「実際に行きているものを傷付ける」「出来る限りリアリスティックな」描写を選択したのか、擁護したい。

 

不可避の暴力と向き合う 『Call of Duty』

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高橋名人の記事の中で、「実際の戦場」「FPSやTPS」と直接明記されている点からも、最も懸念されている作品が『COD』『BF』等の、現代を代表するAAA級タイトルだと思う。

確かに、一見して『COD』はありがちな愛国心を高揚するハリウッド映画をベースに、単純なFPSとしてのゲーム性を取り入れたように思える。だが実際にプレイすれば、むしろ暴力を正面から描くと同時に、その問題も考察しているといえる。

 

そもそも、『CoD』の発端は第二次世界大戦を舞台とした数々の作品である。とりわけ、初代『COD』で描かれるスターリングラード攻防戦の描写は驚異的だ。銃は2人に1丁、運悪く銃なしで前線に放り出された主人公は、仲間の死体から銃を剥ぎ、機関銃の弾幕に晒されながら前進する。

2003年に発売されたとは思えない迫力で、ゲームバランスもシビアだ。そのようなエンターテインメント性をもってしても、リアルな体験から戦争の恐怖をプレイヤーの身に直接叩き込んでくる。

元ネタの映画『スターリングラード』では第三者視点で、主人公が狂気の戦場で苦しむ様を眺めるのに対し、本作では常に一人称視点で、プレイヤーがMG42の轟音に、4号戦車の巨体に、狙撃兵の待ち伏せに苦しめられるのだ。戦争を正当化するわけでなく、むしろ戦争の恐怖を等身大で浴びることで、改めてその問題について考えさせてくれる。

 

最新の作品『MW』や未来戦に移行しても尚、その魅力は実際衰えていない。『MW2』では全く架空のテロ事件をキッカケに、荒唐無稽とも思えるアメリカ本土決戦が始まる一方、『BO3』ではIT技術が兵士を徹底管理する時代を想定しつつ、ますます戦争に使い捨てられる一般兵の吟二を、ドラマチックな脚本を基に描いている。

だがいずれも共通していることは、暴力を行使する「権利」は兵士になく、むしろ一方的にインボルブされるだけだという点だ。誰が戦争を始めたのかは実際曖昧で、無関係な兵士同士が無意味に殺しあう点について、様々なキャラクターが兵士の定めとして受け入れる。

その不毛さの徹底こそ、正面から「生きているものを傷付ける」戦争を取り上げた彼らの、何よりの責任だと思う。

 

暴力が芸術に昇華される 『DOOM』

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「暴力」描写はそれだけで、大抵の市民にとって嫌悪感を抱かせる描写だが、だからこそ、人間の根源的性質に迫るため、あるいはその醜悪さに魅せられたため、「暴力」を芸術として描く文化は続いている。

古典的な宗教画でも、悪人の首が切り落とされ正義が掲げられる描写はありふれたものだし、小説においても現代文学の中で積極的に暴力描写があり、映画でもデヴィッド・リンチやサム・ペキンパー等は既に高い地位を確立している。

 

では、元々子供向けの玩具としてのルーツが強いビデオゲームにおいて、いかに暴力描写は浸透していったのか。それは高橋名人の指摘するように、海外作品に強く影響が見られる。中でもFPSの黎明期に生まれた『DOOM』は典型的なものだろう。

未来の火星基地、そこで調査を進める宇宙海兵隊たちは突如謎の魔物に襲われ、壊滅する。辛うじて生き残った主人公が、基地跡から「Hell」まで、魔物共を殲滅するというゲームだ。

純粋なゲーム性としての評価も、勿論高い。各種武装を弾薬量と相談しつつ使い分け、個性的ながらも屈強な敵、更に地形やパズルまで組み合わせる戦略性と、敵の攻撃を避けてこちらから狙い撃つアクション性という点で、現状でもFPSの頂点と仰ぐ人間も多い。

 

中でもファンを惹きつけてやまないのが、その独特な世界観だ。火星基地を舞台とした一見SF調の空間に、突如として出現する醜悪なモンスターたちと、「hell」にて起きる最終決戦。DOOMにはムービーもダイアログもなく、ただ殺戮のみがあるだけだが、そのストイックさとグロテスクな世界観が絶妙にマッチしている。

当時は技術力も乏しく、擬似的な3D空間でFPSを形成していた。だが、そのレトロなドット調こそ、この世界観を惹き立てただろう。極めつけはゴア表現で、敵をショットガンで撃てば肉片が飛び散り、爆発物で木っ端微塵になる。

徹底的に鍛えられたゲーム性を基に、ストイックな世界観、そこにこの暴力描写が絶妙に噛み合い、『DOOM』という芸術作品を構成している。

そこにあるのは、単なる快楽としての「暴力」ではなく、開き直った鋭さがある。所詮、ビデオゲームにおける暴力など、派手な花火に過ぎない。問題はゲームがどれだけ面白いか。

『DOOM』における暴力は常習であり、伝統であり、FPSのルーツとしてのプライドでもあるのだ。

 

暴力が担保する自由 『Grand Theft Auto』

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『GTA』はゲーム業界における、2つの顔を持つ。1つは、高橋名人も言及した「問題意識」「リアルの追求」等を踏みにじるかのような非倫理的なゲーム性。もう1つは、そこまで問題視されていながらも、アメリカで最も売れたゲームという側面だ。

日本にも「有害図書」指定など、ゲームの有害性を指摘する格好の素材となった『GTA』。確かに、私も最初遊んだ時は、ぶっ飛んだ文化があったもんだと驚いたものだが、実際に遊ぶとその感想も変化した。

 

遊んだ誰もが知っていることだが、『GTA』はすごい。当時最新鋭の技術と、スタッフの努力によって、広大かつ精細なアメリカの一地方を模したオープンワールドが用意され、そこにミッション、車、武器、ミニゲーム等、圧倒的なインタラクションが用意される。

即ち、倫理性以前に本シリーズは常に優秀なのである。特定のマニアや市場に向けたものでなく、万人に、その圧倒的な実力で作品の魅力を提示する。買った人間の殆どを虜にして離さない、普遍性がある。

 

そこで、市民を虐殺する非倫理性や、薬物や車両窃盗などの犯罪描写は、本来薄いものである。基本的にゲームを進行する上で無関係な市民を殺すケースは少なく、むしろ警察による報復を受けるし、物語上でも悪漢は大抵自滅する。

それでも「市民を虐殺する」選択肢を残すのは、本来リアルなオープンワールドが存在しながら、むしろ「殺す」という選択肢を剥奪しないためではないか。

何をするにも自由、人助けをするも、人を殺すも。ミッションを進めるも、ひたすらツーリングするも。それが『GTA』が圧倒的予算で作った魅力ならば、あらゆる方面で自由を守り、オープンワールドへの信頼を守らねばならない。それは全てプレイヤーの責任である。

発想を逆にしよう。『GTA』は市民を殺すゲームではない。だが、市民を殺す選択肢こそ、『GTA』の持つ普遍性と箱庭を担保しているのだ。