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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

ゲーマーとして生きるということ

 

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年をとると涙腺が弱くなると聞くけど、最近の私はそれを証明するかのように、映画を観ては泣き、友達の結婚式で泣き、あまつさえゲームで泣くようになってしまった。(最近だと『Life is Strange』)

といっても、「ゲームで泣く」って傍から見るとすごいマヌケに思える。

薄暗い部屋で一人、ディスプレイに向かってマウスをカチカチやって泣く男、その「暗室」の情景なんて。

 

だから、友達に自慢もできない。感動の結婚式の話は誰にでも聞かせられるけど、ゲームで涙ぐんだ話なんて、ドン引き以外のリアクションしか想像つかない。

そう考えると、自分は何で「ゲーマー」で、今まで何してきたんだろうって後悔にも似た思いがこみ上げてくる。

 

マヌケなゲーマー

結論から言えば、私は「ゲーマー」として生きることに誇りを持ちたい。あえて「ゲーマー」として生きるなら、それなりの理由が欲しい。

自慢じゃないけれど、私はゲーム以外の趣味もぼちぼちある。フットワークも軽い方だと思う。あんま体を鍛えるとかはしてないけど、年甲斐もなく友達と未だに外で遊んでる。

その中で、「ゲーマー」としての私は異質だ。他の趣味は誰にでも話せるのに、ゲームの趣味ばかりは、仲の良い友人にしか話せない。

読者の方の大半がそうだと思う。自分がゲーマーであることを、隠すわけじゃないけど、あえて話すようなものじゃないと考えてる。

 

そこで、私は例の「暗室」を思い出す。

ゲーマーがパソコンに向かって、薄暗い部屋で作品と向き合う自分。傍から見ればマヌケな姿。あの空間、あの時間に、我々は一体何を得たのか。

そう考えてから、私は真剣に作品に向き合うようになった。だからこそ、ゲームがもたらす価値、そして魅力を再認識出来たと言っていい。

 

近年遊んだ作品なら『Last of Us』は、真に自分を成長させてくれた、そして人生と世界の美しさを考えさせてくれた傑作だ。

あの画面の中で見せてくれたジョエルとエリーの生き様と、プレイヤーの努力と達成感が交わり、色々な感情が交わる中で、彼らへの愛情と生への執着ばかり強まった。それは他ならぬ、ゲームならでは、暗室ならではの体験だった。

 

何故ゲームなのか インタラクティブ性を通じた挑戦と対話

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よくゲームの魅力を説明する上で、映画や小説にない「インタラクティブ性(相互性)」が説明される。ゲームはプレイヤーの入力や判断によって進行するメディアとして評価されている。

だが、ゲームが「インタラクティブ」故に他メディアより優れているわけでない。そんな外面的な話でなく、実際に遊んで得た体験こそ重要だ。

単にボタンを押せばインゲームマネーが飛び出すことが、インタラクティブと言えるだろうか。いや、ゲームが我々の情熱を掻き立て、問いかけてくれるからこそ、インタラクティブなのだ。

だからこそ、名作ゲームに触れた時、ゲーマーは真に作品と通じ合うことが出来る。暗室でも、ゲーマーとして「生きる」。

 

先述した『Last of Us』は、機能面的なインタラクティブ性は低い。オープンワールドや複数のサイドクエスト、マルチエンディングのような、昨今では「自由度」と評される側面は薄い。

だが、実質的なインタラクティブ性は極めて高かった。描きこまれたテクスチャ、練りこまれた設定と演技、普遍的だが解釈の分かれる脚本。

何より、そうした圧倒的物量の技術面を以って、挑戦的な作品だった。難易度はお世辞にも易しいと言えず、厳しい世界観と孤立した登場人物に感情移入の余地はない。

作品は常に我々を試し続ける。「これならどう思う」「これでも受け入れられるか」。ゲーム、物語、思想、全てが1つの作品に統合しながらも、常にプレイヤーに訴えかけ、揺さぶる作品だった。

だからこそ、プレイヤーはその熱く、激しい「問い」に応え続ける。これこそインタラクティブ性だと私は思った。

彼らはゲームで「語り」、我々は操作と感想と経験でもってそれに「応える」。プレイヤーの涙腺が緩むのも無理はないだろう。

 

勿論、『Last of Us』は例えに過ぎない。私がただ、ゲームの特徴である「インタラクティブ性」を強調する上で引き合いに出しただけで、瞬間を切り取る『ICO』や『Journey』、硬派な『Dark Souls』や『Witcher』、純粋なゲーム性で『DiRT』や各Sim作品。これらも作品と語り合う、挑戦させる作品の一例だ。

ゲームのインタラクティブ性を通じて、作品と我々がぶつかり合う。作家の「言葉」ではなく、作品の持つ「世界」と対話する。それが私が「暗室」に篭もる理由である。

 

ゲーマーとして生きるということ

我々の多くは日本人であると同時に、東京人であったり大阪人であったりする。部屋いっぱいに本を貯めこむ読書家になれば、ヘッドホン1つに10万は出せるオーディオオタクにもなる。では、「ゲーマー」になるとはどういうことか。

その姿は、恐らく今まで「オタク」という漠然とした概念に包括されてきたと思う。根暗で暇でつまらない奴だと。私はそれに怒ることもないが、疑問に思うことはある。本当の「ゲーマー」って何だ?

 

それは当然、ゲームを通して様々な価値ある体験を送る人のことだ。私は今まで数々の作品を通して成長と感動を得た。何より、「遊んでよかった」と感謝できる喜びがあった。

中でも、作品と何より熱くぶつかり合うインタラクティブな経験は、ゲームならではのものだった。

薄暗い自室でモニターに向き合う自分には、作品が提示する未曾有の世界が挑戦を待ち受け、そこで痛みと喜びを分かちあった。あのマヌケな自分の姿こそ、ゲーマーとして誇る自分だと私は言い切れる。

 

無論「インタラクティブ性」に拘る必要はない。それでも我々は一人、モニター越し(あるいはVRキット越しに?)に世界に触れ、見知らぬ人間と対戦し、友人と団結できる。

いずれにせよ、自分の居場所を求める流浪の「ゲーマー」としての生き様と趣味は、誇っていいと思う。暗室の中でも、胸に熱い想いを抱けるのだから。

 

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Syd Matters ‐Obstacles

 

We played hide and seek in waterfalls

We were younger, we were younger

 

Someday we will foresee obstacles

Through the blizzard, through the blizzard

 

”僕たちはあの滝でかくれんぼをして遊んだ

あの頃は若かった 若かったんだ

 

いつか壁にぶつかるときが来るだろう

吹雪を越えて 吹雪を越えて”

 ほんと『Life is Strange』よかったよ