ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

【再評価】『ライフイズストレンジ』の感想や考察 インタラクティブ性への挑戦

 

f:id:arcadia11:20160917170510p:plain

本稿には原則ネタバレはありません。

 

以前、私は『ライフイズストレンジ』のレビューをこの誌に掲載した。しかし、これは全く作品の魅力を表現しきれなかった。

作品を大方説明した前の記事と合わせて、改めて本作の魅力を追求したい。

 

私がこのゲームを遊び続けた理由

f:id:arcadia11:20160917170631j:plain

最初、私が『ライフイズストレンジ』から得た印象は微妙だった。エピソード1なんかは、特にそうだ。

ADVだからロケランで敵をふっとばす爽快感、兵士を操る戦略性はないとしても、物語すら私には魅力的じゃなかった。

確かに、グラフィックは綺麗だし、高校生活をリアルに描いたプロットは興味深い。

でもそれは私の関心を惹くのに十分じゃなかったし、同じADVで『Walking Dead』のようなヒリヒリする展開も、『Alan Wake』のようなトリックも、『Witcher 3』のような重厚な設定も、何もなかった。

 

それでも、私がこのゲームを続けていたのは、ある登場人物に強い魅力を感じたからだ。それは、クロエ・・・ではなく、マックスコールフィールド、つまり主人公に対してである。

最初は、冴えない、鈍い、ついでにルックスも微妙で、ああやっぱ洋ゲーだよねってガッカリした。言っちゃなんだけど、そのうち戦う女性ってクールだろって画面越しにフェミニズム溢れる説教まであるとすら思ってた。

でも、何時間も彼女と寄り添って、彼女が本当に強くて優しい人間であることを理解できた。何より、ふとしたことで驚いたり、笑ったり表情豊かだ。

でも魅力的な登場人物は、あくまで「グラフィックが美しい」みたいな、ゲームのごく一部の魅力に過ぎない話だ。

それでも、マックスこそ本作の中核だと断言できる理由は、本作はあくまで「マックス」という主人公を中心として、作品が自ら積極的にプレイヤーに語りかける、新たなインタラクティブ性を拡張したためである。

 

例えば、本作では、あらゆるオブジェクトや人物に干渉できる。その際、必ず溢れるのがマックスの感想だ。

スポーツに勤しむ男子がいれば、「うんうん、頑張りたまえ」とユーモアを交え、大したことない虐めの落書きを見ても、「酷いよ」と同情する。

まして、ゲスな男(フェミの仇!)を見ても「今度は悲しませるなよ」と応援してやる。私はそんな彼女に考えが絆されてしまったのだ。

 

またゲーム開始直後に、プレイヤーはマックスの日記を読むことが出来る。彼女が一言も話す前から、彼女が何を考え、どんな感性を持っているか知れる。

これが秀逸で、物語のあらすじをプレイヤーとは異なる登場人物の目線で追える一方、作品内外で起きた事実を伺い知ることも出来る。

f:id:arcadia11:20160917170658j:plain

 

インタラクティブ性への挑戦

f:id:arcadia11:20160917170715j:plain

昨今のビデオゲームでは、「インタラクティブ性」を強調する傾向にある。インタラクティブ性、双方向性とはつまり、一方的にメディアが物語や情報を我々にもたらすだけでなく、我々もメディアにはたらきかえて作品に参加できる特質だ。

典型的なものを挙げるなら、マルチエンドはまさにインタラクティブな仕様だ。プレイヤーの様々な選択から、それぞれ異なる結末が用意される。

また、『Minecraft』のようなサンドボックス系ゲームは、まさにプレイヤーそれぞれの物語を作れる作品と言えるだろう。

ここから、もう一歩「インタラクティブ性」を踏み出したのが、本作『Life is Strange』だと思う。すなわち、プレイヤーの選択を尊重することに加え、作品もプレイヤーを説得し、絆し、誘導できるのかという挑戦である。

 

確かに、広い砂場に、たくさんの遊具を用意して、好きなだけ遊べというのは、プレイヤーの意思を尊重していると言える。

『Fallout 3』のサブクエスト「The Power of Atom」は象徴的なクエストだ。街の原子爆弾を解体する簡単なクエストだが、プレイヤーが悪魔的な発想を持っていれば、なんと原爆を爆発させて街を灰にすることが出来る。

プレイヤーのあらゆる選択を尊重する。そのために用意できるものは用意する。次世代機が投入され、「洋ゲー」が日本市場にも浸透していく中で用いられた「自由度」という言葉は、まさにこの美徳を象徴しているといえる。

 

だが、いくら遊具があって、砂場が広くても、最初から興味がなければ、そこはまるで砂漠のように無機質で孤独に感じられるだろう。

そこで必要なことは、「作品とプレイヤーのコミュニケーション」だと私は思う。

本作のマックスは、とにかくよく話す。何を見て、何を感じても、全てプレイヤーに躊躇いなく、しかし彼女自身の感性で素直に話してくれる。

そのディティールの細やかさ、世界観の秀逸さもさながら、声優の演技も素晴らしく(日本語版は洋画吹き替えで有名なたなか久美)、十時間以上共に過ごしても全く飽きない。つまりマックスはかわいい。

 

f:id:arcadia11:20160917170832j:plain

インタラクティブ性を強調する上で主役の存在感を増やした、という点では『Wticher 3 』や『Fallout 4』なども

 

ゲームを進めると、彼女の友人がケガをしそうになっている。プレイヤーは彼女を助けてもいいし、放置してもいい。

大抵のゲームなら、私はどうでもいいNPCを助けない。何故なら、それはいかにも「助けてやれ」と言わんばかりの、無機質で記号的な遊具だからだ。

しかし、本作ではマックスが、「助けてあげないと!」と言う。しかも、「あの娘は実はすごく性格がいいの」とも理由まで話す。するともう、「助けられるためのNPC」は、「マックスの友達」として息を吹き返すのだ。

 

「友人がケガをする」のは、脚本である。「彼女を救うか、傷つける」のは、インタラクティブな選択肢である。本作は「マックスの独り言・人格」が両者を結びつける。

彼女は常に、プレイヤーの目線で、ゲーム内の表現を「再表現」する。それにより、どうでもいいNPCに価値が増し、彼女自身とのコミュニケーションも楽しくなる。

いや私にとっては、アルカディアベイの謎なんかより、マックスと喋ることが一番の楽しみになっていたほどだ。

 

本当のインタラクティブ性とは何か。単に自由な空間を用意するだけでなく、その空間をどう活用するか、作品を通じて伝え、訴えかけることこそ重要だと、本作は示した。

マックスは、他のあらゆるゲームに比べて、多くの言葉を話し、プレイヤーに直接訴えかけ、彼女らしい個性と感性を持ち、また物語の中で成長する。

マックスが様々な経験を体験する中で、同時にプレイヤーもマックスとのコミュニケーションを通じて、作品を受け入れる。

プレイヤーが一方的な干渉するだけでなく、作品の登場人物を介したメッセージにより、プレイヤー自身も作品の干渉を受ける。そんな当たり前のインタラクティブ性を、本作は改めて証明したといえる。

 

何が言いたいかというと、マックスはかわいいってこと。

f:id:arcadia11:20160917170816j:plain