ゲーマー日日新聞

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2分で読める映画批評 デミアン・チャゼル『セッション』

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(原題:『Whiplash』)

 

真面目に音楽をやってる奴らなんて、実際頭おかしい

『セッション』は二人の、ちょっと頭のおかしい奴らの映画だ。

音楽に取り憑かれた、若者と師匠。若者、ニーマンは将来があり、同時に弱さも持つ。師匠、フレッチャーは熟練の技巧があるが、音楽に取り憑かれた。

この映画は一見して、とても日本人ウケしそうな映画だ。努力、根性、それ故の負傷。そういう安易な自傷的ナルシズムは、日本の平凡なカルチャーでいくらでも見れる。

本作にはこの要素がありながら、内実それを肯定も否定もしない。なぜなら、自分たちでそれがナルシズムだとわからないほど馬鹿じゃないし、それでも縋るしかなくなっているから。

 

主人公の若者は決して優れた人間ではない。自分の音楽のために、友人や彼女を平気で傷付けるし、焦って事故や自傷を招くことで、却って自分のキャリアを台無しにする。

師匠もまたそう。古臭いスパルタ的な指導だけが正しいと信じ、才能のある若者を平気で潰している。

そう、彼らが実際のところ、「人格的」にも、「能力的」にも、本当に優れているのか知るための客観的情報が、本作には残っていないのだ。(最高の音大というだけで十分かもしれないが)

 

彼ら致命傷は、ラストの衝撃的な事実。ニーマンは復讐のためフレッチャーをクビにさせ、フレッチャーは逆にニーマンをハメるためだけに、コンサートを利用したシーンだ。

ひょっとしたら彼らは純粋すぎる音楽至上主義者ではないかという我々の期待は、この瞬間台無しになってしまう。彼らは自分の憎しみというカウパーで、音楽という聖域を汚したのだから。

つまり、彼らは決して音楽的な成功者ではない。能力はあったが、彼らの音楽への執念が高まりすぎて、結局彼らは富も名誉も手に入らなかった。

それでいて、二人の人間的な弱さが、ニーマンは兄弟への、フレッチャーはニーマンへの、それぞれ復讐として描かれることとなってしまった。

 

興味深いのは、ネットの感想には驚く程両者への好意的意見が多いこと。実際にはそんな描写がないのに、「アンドリューは努力を惜しまないから成功したはずだ」とか、「フレッチャーの指導は最後の演奏のためだった」というもの。

残念ながら、フレッチャーは安西先生じゃないし、アンドリューは桜木花道じゃない。彼らは等しく我々と同じ「人間」であって、「悪人」でもある。もっとわかりやすく言えば、ただのキチ○イだ。

 

それでも、音楽や芸術という世界には不思議な可能性がある。

歪んだ熱意と、歪んだ指導。それは当然、結果的に歪んだ音楽という破滅を迎えるはずだった。

それでも、アンドリューの激昂がドラムを響かせ、フレッチャーはその全てが運命的に、我々の劇場で鳴り響く音楽へ昇華したことを見届ける。

その場にいた者のみ理解できる、ドラムソロ。怒りや悲しみや欲望や達成感が、一つの9分19秒に及ぶ、魂の叫びへ。

この瞬間こそ、本作が安易なスポ根ナルシズムでも、リベラル的な教訓めいたヒューマンドラマにならず、唯一『セッション』という映画に完成した瞬間と言えるだろう。

悪人性も、人間性も、全てを錬成して尚、何が生まれるかわからない狂気の錬成釜。それが芸術であり、音楽なのだ。

恐るべきことに。