ゲーマー日日新聞

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2分で読める映画批評 クリント・イーストウッド『ハドソン河の奇跡』

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 原題『Sully』

2009年1月15日、USエアウェイズ1549便がニューヨーク・マンハッタンの上空850メートルを飛行中、バードストライクによって全エンジンが停止、コントロールを失う。

機長のチェスリー・サレンバーガーは必死のコントロールと苦渋の決断の末、ハドソン川に機体を不時着させる。その結果、1人の犠牲者も出さず、この奇跡的な生還劇は“ハドソン川の奇跡”として全世界に報道された。

物語は事故から数日たった所から始まる。サレンバーガーは世間から国民的英雄として賞賛されていたが、事故の影響で市街地への墜落という悪夢を見るようになっていた。そして、国家運輸安全委員会(NTSB)によって事故原因の調査が行われる。

 

責任を背負って生きるって、素晴らしい

「責任を負いたいと思ったことはあるか?」

多分、そうだと答える人が少ないだろう。責任という言葉は十中八九、その人間にとって「不利益」な形で実体化する。

責任を負い、義務で報いる。それは普段あまりに当然に行っているけれど、何かの拍子で報いることが出来なくなったら。

我々が普段それを意識することは、あまりにない。

 

パイロット生活を30年続けたサレンバーカー機長が、世界最大の都市の上空で、乗員155名の「命」の責任を自覚した時の心境はいかほどか。

1羽が3キロする「カナダガン」のバードストライク。

これは、運が悪かった。

航空機が常に渋滞しながら、万一の事故でも大惨事となるマンハッタン上空。

これは、難しすぎた。

そんな言い訳は何一つ聞いてもらえない。それが仕事。それが責任。事故を知った国民、マスコミ、政府の事故調はこう言う。「遊びじゃねえ、舐めんじゃねえぞと」。

 

やはりイーストウッド。

「極限状態で乗客155名が全員生存した、ハドソン河の奇跡」こんな感動話は、バラエティ番組にでも譲ってやればいいとバッサリ、「奇跡」はクライマックスでなく、オープニングのシーンに落ち着かせる。

それも、ナッツを食べながら見るテレビの画面に映る加工された映像としての、「奇跡」として。

本当に面白い作品を作るなら、「奇跡の裏」の方が面白いのだと。

 

巨匠は禁断の懐疑を、この映画の中枢に据える。

 

「本当は、”奇跡”より安全な方法があったのでは?」

 

「ラガーディア空港」へのUターン、「テターボロ空港」への着陸。管制塔は祈りを捧ぐよう、冷静かつ懸命に訴えた。「河」だけはやめてくれ。

155人は生還した。それだけで、本当に考えなしに喜んでいいのか。国家運輸安全委員会、NSTBの目は真剣だった。彼らは英雄を糾弾する悪人ではなく、英雄とでも戦う連邦政府の番人だ。

だが最も英雄と戦った男は、他でもないサレンバーカー機長本人だった。今でも、あの時の夢を見る。操縦桿を握りしめた手の、震えが止まらない。

 

それでも、彼はこう叫んだ。「ハドソン河への不時着水は正しかった」と。そこに、謙遜や譲歩の色は全くない。

「確かに、ラガーディアへのUターンもありかも」なんて言わない。それらを選べば、全員死んだ。NSTBも、管制塔も、間違っている。そう英雄は訴える。

それは彼の保身のためでない。こんなに不安で、恐ろしい夢に悩まされても、止めどなく自分の決断が正しかったといえるのは、他ならぬ155人の生命への「責任」を全うするためである。

 

本作にはあらゆる「責任」が交錯する。大抵の責任は、周知の通り残酷だ。

だが、一貫して誰もが責任を全うし、応えようとする。サレンバーカー機長は当然として、彼のクルー、恐怖を必死に耐えた乗客。無論、航空管制官、NSTB、報道するメディア、救助に向かったレスキュー隊員や観光フェリーのクルーたちも。

我々はラストで、ようやく「奇跡」を前座に置いた理由を知る。

その奇跡を実現した人間たちの生き様、責任こそ、何よりの「奇跡」であり、美しい映像として結実すると。

ああ、責任を負って働くオレたちは、最高にカッコイイんだって。