ゲーマー日日新聞

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ネタバレ映画感想と考察 片渕須直『この世界の片隅に』

 

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本稿には以下の作品につき、重度のネタバレを含んでいます。了承の上で読んで頂けると幸い。

・『この世界の片隅に』

 

あらすじ

1944年(昭和19年)、絵が得意な少女浦野すずは広島市江波から呉の北條周作のもとに嫁ぐ。戦争で物資が不足する中、すずは不器用ながらも懸命にささやかな暮らしを守るが、軍港の呉はたびたび空襲を受けるようになり・・・

 

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物語として、アニメーションとして完成度が高い

6年もの製作期間を得て、そのクオリティは隅々まで磨き上げられている。

唐突にスクリーン上で「18年12月」と出てきて、一瞬西暦と思ってしまった私はすっかり現代っ子。1943年と書かず、いきなり観客を世界観に引き込ませる演出は原作譲りだ。

 

主人公「すず」は女優のんさんが演じる。訛りの強い台詞を見事に演じ、素人臭さは感じない。

物語は戦前から進行。家業を手伝いながら学校へ通い、ある日唐突に嫁入りする。嫁入りしてからは、慣れない家事と新たな人間関係にてんてこ舞い。

驚くほど丁寧な描き込みだ。家事の動作一つ取っても、細かい時代考証がなければ不可能だろう。

まるでドキュメンタリーを見るかのような静謐さで、油彩のようなアニメーションに身を委ねる。

 

ただ細かいだけでなく、そこに「深み」を感じ取れるのは、周囲の人物の描写にある。

主人公すずと同様、彼女が嫁入りした一家、ご近所もまた、ありふれていながら自分の人生を歩む人々だ。

姑と舅は、嫁入りしたすずを気遣う心優しい夫妻。義姉も厳しいが面倒見がよく、ご近所の婦人も若いすずを可愛がってくれる。

すずは比較的、人間関係に恵まれており、これが貧しい時代という物質的な困窮と対比として描かれる。

戦争により貧窮する生活に、国民たる家族・ご近所が団結して立ち向かっていく。女たちの強さが描かれ、コミカルな原作のテイストもしっかり反映されている。

 

・・・が、果たしてそれだけの作品だろうか。この作品はトレーラーで見せた、「貧しくも健気に生きる女性、その姿に共感」だけで片付けられるのか。

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以下は踏み込んだ話になるので、個人の意見と普遍的真理を一緒くたにする人は読まない方がいいと思います。

 

 

 

 

 

 

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これは、昭和日本の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だ。

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ここから、やや考察として踏み込みたい。

 

まず、本作を通して私が思わずにいられなかったのが、ラース・フォン・トリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だ。

本作の主人公は、東欧移民のセルマーというシングルマザー。先天的に視力を失う障害を患いながら、町工場の貧しい賃金で「息子を治すため」の治療費を稼ぐ。

苦しい環境にありながら、彼女は常に楽天的だ。工場の機械や、遠路を走る機関車の轟音を「ミュージカル」に見立て、勝手に歌いだしてしまう。支える仲間にも恵まれていた。東欧移民というマイノリティ同士、家族ぐるみの付き合いがある。

厳しい現実の一方で、明るいの性格と恵まれた人間関係。まさしく「すずさん」の現状ではないか。

だが物語は中腹で一転する。ネタバレとなるため割愛するが、本作は突如として主人公の身に悲劇が降りかかるのだ。

 

さて、本作の見所は、セルマー自身の「過失」にある。

まず、セルマーは白痴の疑いがある。すぐ感情に流され、音楽で現実逃避し、物事を注意深く考えられない。注意散漫で同僚に迷惑をかけ、クビまで言い渡される。「悲劇」についても、回避するための道は誰でも思いつくレベルだ。

 

セルマーは悪い人間ではない。他人の幸福を犠牲に、自分の幸福を得る人間ではない。だが、他人の幸福を犠牲にし得る程に、彼女は白痴であり、その「過失」は「責任」として、彼女の悲劇で償われるのだった。

同情はする。だが、彼女の振る舞いは、男を殺し、息子を失明させ、何度も仕事仲間を困らせた。その積み重なりが、彼女を更に追い込んだ。

本当に、この物語は単なる悲劇か。本作はドキュメンタリーのようなカメラ回しで、中立的な立場から彼女の振る舞いを捉える。

人間がどう生きるか自由だ。白痴でもいいだろう。だが、その上に積み重なった結果を受け止められないなら、すぐにでも反省すべきではなかったか、戦うべきでなかったか。

 

話を戻そう。『この世界の片隅に』。

この物語は第二次世界大戦という、歴史的において最大の戦禍に極めて寄り添いながら、絶妙な距離感で描いている。

すず、という女性は、軍人でない。兄や同級生は出征したが、当人は「いつも通り」の生活で手一杯だ。

コメがなくなれば、雑穀を。雑穀がなくなれば、雑草を。これが女の戦いだと言わんばかりに、婦人会や家事に精を出す。それは必然的に、だが恣意的に、戦争を避けていた。

だが、有無を言わさず襲来する米軍の爆撃機。B25、F6F、そしてB29。全てを奪い去っていく。すずの右手、義姉の一人娘、呉の街並み、そして故郷そのものを。

 

「歪んでいるのは私だ 鬼いちゃんが死んで、良かったと思ってしまっている」

この台詞は原作にもあったが、かなり強烈だ。

右手を失い、家事も出来ず、絵も描けなくなった彼女。僅かだが、確実に、狂気に陥っていく。高射砲の轟音、サイレンの轟音、爆撃の轟音。

現実が現実通り見えない。故郷を失って涙を流し、右腕の喪失感に茫然となる。

家に落ちた焼夷弾を消化するシーンは印象的である。彼女は逃げず、叫びながら炎を消した。彼女は紛れもなく、健気な民間人から、憎悪を募らせた兵士だった。

そして終戦の詔勅。「まぁ、かなわんわ」と流してしまう、そう、いつも通りの日本の民間人たち。その中で彼女はこう叫ぶのだ。

「まだ左手も両足も残っとるのに!!」

彼女は今や「一億玉砕」の腹積もりでいた。あの、優しくも、マヌケで、無力だったすずさんが、今やただ、無力なだけ。

だが、直ぐに、彼女は悟らねばならなかった。

「暴力で従えとったということか じゃけえ暴力に屈するいう事かね それがこの国の正体かね」

彼女が生きた場所は呉。彼女が貢献した街は呉。東洋一の軍港、大日本帝国海軍の拠点であり、その誇りある街は、数多くの軍艦を撃沈し、数多くの戦闘機を撃墜し、数多くの人間を殺すために栄えた。

自分はアメリカ人が自分たちを殺したことを知っている。原爆も、焼夷弾も、民間人を殺戮せしめる非道を目の当たりにし、狂気と憎悪に身を焦がした。

だが自分たちはどうだったのか。一億玉砕を覚悟した彼女は、天皇の詔勅でそれを悟らずにいられなかった。我々が敗北し、敵が勝利した、その当然の事実によって。

彼女は最後まで無知で無力だった。そしてその国民の無知こそが、原爆投下まで戦争を継続させた。

 

正直に言うなら、私にとって最大の見所は、この悲劇だ。

ただ貧しいだけの、無関心だった生活が、爆撃機によって現実に引き戻されるあのショック。喪失の連続と、徐々に陥る狂気、敗戦の事実。

この悲劇とも、或いは戦記とも取れる、すずの人生。無力であり、無知だったことを、過酷な現実によって、ズタズタに破壊された自分によって、引き戻される様子。

なんと残酷で、なんと無情なことか。前半で作ったものが、後半で壊される。そこに我々は惹きつけられる。本作を語る上で、決して前半だけで語るべきではないはずである。

 

「当たり前の運命」と「逃げ出す作品」

先に述べたように、私は作品そのものは、鑑賞の価値があると思う。アニメーションという点では革新的な進歩を遂げていて、膨大な予算と期間を見事に使い切った感がある。

だが、原作を読んだ時から私が一つ胸に抱いてきたことがある。果たして、物語はここで終わってよいのだろうかと。

 

先程、私は本作を昭和の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だと評した。同作では主人公の女性が、己の「愚鈍」故に追い詰められ、ショックなエンドが知られる。

だが私は、これがむしろ当然の結末のように思う。貧しく、無力で、何より愚鈍な女は、様々なミステイクを重ね、処刑台へ連れて行かれる。

「このバッドエンドには女の「過失」と「責任」はあったのではないか?」この映画は、主人公に極めて厳しく、一方で中立的な立場で、彼女の人生を振り返っている。

 

一方、本作はどうだろう。このすずという女は、果たして、巷で言われるような、厳しい時代に生きる逞しい女性であり、現代人でも感情移入できる優しい女性であり、時に弱さを見せる女性だったか。

正直、いずれの感想も全く同意できない。彼女が逞しいとも思えないし、優しいとも思えないし、感情移入にしても全く出来ない。

前者については、数十分でガッツリ描かれる、爆撃と喪失の連続から狂気に陥る様からも、作品の意図が垣間見える。(因みに、明らかに原作より映画の方がこの点を強調している)

後者の、感情移入できない点については、一つに尽きる。何度か述べたように、彼女は『DITD』の女のように、あまりに愚鈍なのだ。

 

彼女は一度も、戦争という事実を直視したことがない。情報も機会もあったのに、彼女は戦争や政治、自分たちが何をしているか、全てを拒絶するわけでなく、かといって知ろうともしない。

自分は家事で精一杯。学校で精一杯。人間関係で精一杯。だが彼女はこの行為を反省すべきではなかったか。右手が吹き飛ばされ、大切なものを失って、「まだ左手も両足もあるから戦える」と叫んだ時、自分の人生を何故一度も反省できなかったのか。

狂気に陥る、感情的になる。この点は興味深いと先も述べた。だが本作は、『DITD』のように踏み込まず、本当にそれだけで物語が終わってしまう。すずには何の責任もなく、彼女はただの被害者だと。

私はバカバカしいと思う。「そりゃ、右手も家族も全部なくして、当然だ」。

 

加えて、すずさん同様、作品もこの事実から逃げることが、私は気になった。

巷で言われるように、戦争に対してすずさんは極めて無力で、何も出来なかったのは事実だろう。デモでもすればいいのか、ランボーみたいに戦場に殴り込めばいいのか。とても現実的でない。

それでも、本作はすずさんの一人称で物語が進む。行動はともかく、考えればよかった。「頑張って現状維持に努めよう」を戦時中も貫き通した彼女は正しかったのか。それは思考停止に他ならないのではないか。

往々にして物語はそうである。『DITD』もそうだし、無力な市民がよく出てくる。だが少なくとも、某国の作品の大半は、それでも何かを打開しようとあがき、それすら失敗に終わっても尚、己の感情と理論と哲学を、物語として放出する。

すずは、いやこの物語は、この問題を十分に掘り下げていない。片腕を失っても、彼女は同じ表情しか出来なかった。あの狂気も、予定調和的に鎮火された。

それが彼女らしい、その庶民さこそ同意し易いのも結構。だとするなら、一つ恐ろしいことが言える。当時の日本が戦争に敗北することは必至で、国民は一切それに抵抗する術がないのだ。

すずはどうすべきだったか。或いは、どこまでもすずを突き放すとどうなるのか。もっと苦しんだかもしれないし、平常通りの生活に務めるなら、これもまた一つのリアルな物語だ。だが、本作はこの点を曖昧にしすぎ、平凡な結論にひとりごちていないか。

 

歴史的な問題に突っ込むとキリがないのでよそう。

それでもメタ的に批評するなら、私は「第二次世界大戦」という未曾有の戦禍を舞台にして、この程度の物語(感情移入しやすいとも言う?)しか作れないのなら、それは良作といえないだろう、ということだ。

本当に彼らのような日本人がいたなら(実際は作中より遥かに賢明で優秀だったが、それでも戦争は起きた)、何度だって同じことを繰り返しているだろう。そこに整合性も緊張感もない。

 

好意的に解釈すれば、「戦争映画」の麻薬のような魅力を、うまく本作は引き立てていると言える。

戦争という舞台を用意すれば、自分には無関係だという女を、彼女の右腕を奪って現実に振り戻せる。

だが一方で、ここまで自分と家族に惨禍が起きても、内省せず(本作は一人称視点なので)、ただ悲哀に嘆き、沈黙を貫いて、平常通りの労働に勤しんでしまう、そういう恐ろしさを描いているとも言える。

かように、戦争は魅力的で仕方ない。だがこの麻薬的魅力を本作は認めたがらないだろうことは、戦争後の展開を見ていてもわかる。皮肉にも、このはぐらかし方が一番エンタメらしいのだが。

 

最後に、本作と戦争について考える上で、今年のあるドキュメンタリーから引用しよう。

 

「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生む、憎悪は戦争を生む」淵田美津雄

 

淵田美津雄は第一航空艦隊隊長として真珠湾攻撃に参加。後にキリスト教徒となってアメリカに伝道し、自分たちの戦争は何故起きたか、それは自分たちの無知故だったと講演する。

すずは、無知だった。無知が無理解を生み、無理解が憎悪を生んだ。だが最後まで、淵田のように何かを掴むことなく、残酷なまでに何も変わらなかった。彼女は無知であると同時に、この上なく無力だった。

よく出来た映画だと思う。だが内容そのものは結構恐ろしいものだった。色んな意味で。