ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

今のネットで作品を批判できない理由

 

f:id:arcadia11:20161209212147j:plain

 

一般に承認されている意見に対して抗議する人々、或いは、法律乃至世論がそれを許すならば抗議するであろう人々が、もし存在するならば、われわれは彼らのその抗議に対して感謝し、われわれの心を開いて彼らの言葉を傾聴しようではないか。

-J・S・ミル『自由論』

 

 

最近、どうしても気になってることがあって、ここで一つハッキリさせておこうと思う。

他人の前で、作品を批判してはならないのか?

私は全く問題ないと思う。

 

そう考えるに至った経歴と根拠を述べよう。

東宝広報によれば『君の名は。』最大のヒット要因は、SNSだったという。私自身、こうしてブログで作品の批評を並べるくらいだし、こうした流れは歓迎している。

だが感想の数ばかり増え、質は落ちてきてはいないか。安易な賛美だけ迎合され、僅かでも批判的な意見は容赦ない制裁が下される。その結果、一部の人間にコミュニテイが支配されてはいないか。

 

総論

・批判は決してネガティブなだけでない:

 ①美点も欠点も作品の一面

 ②作品と自己を混同すべきでない

・以上を踏まえても、批判が叩かれるのは、自分と違う意見を認めたくないだけ

・結果的に、同じ意見で馴れ合いたい人間だけ集まる

 ・同じ方向性の意見なら仮に誤った意見も当然に受け入れられる

・ネット世論が一部のオタクに牛耳られてるだけでは勿体ない

 

批判を受け止める上で

f:id:arcadia11:20161202231848j:plain

だからこそ、改めて考えるべきは個人の意見と、普遍的真理を混同してはならないし、もっと言えば作品の是非を巡って、人間同士が罵り合うことに意味はない。

例えば、作品を批判されて哀しむ人の中に、自分の愛情が否定される「恐怖」に襲われ、その結果、直接的な暴力に訴える人がいる。

だが、レビューが「作品」を否定しているように見えても、「作品のファン」を否定しているわけでない。まずこの前提を踏まえて、批判の本質を考えてみよう。

 

更に言えば、愛する作品が必ずしも完璧である必要はない。

当然だが、どんな作品も人間の手がある限り、欠点はある。自分の家族、友人、恋人にだって、欠点はある。だが実際の所「欠点」は「個性」なはずだ。私の友人は喧嘩っ早いところがあるが、それだけ人情深い男でもある、といったように。

作品もまた、「好き」であることと「優れた」ことはイコールである必要はない。どんな作品でも受け取り方次第で容認できない点もあろう。

例えば、私が絶賛した『Fallout 4』。本作の90%までは客観的に「優れた」作品と言えるけど、10%は主観的な「好み」に依存すると言わざるをえない。

逆に、『The Order 1886』は客観的に見ても駄作と言わざるをえないけれど、私はこの世界観が大好きで、酷評の世論とは裏腹に好みの一本だ。

 

批判が注目を浴びるのは、作品に関心がないから

f:id:arcadia11:20161209214208j:plain

それでも尚、「批判」というのは、その性質からして既に叩かれやすく、叩きのために今のネット環境では明確に批判的な意見が萎縮しているのが現状だ。

では「批判」とは何だろうか。これは結局、一つの意見、一つの言葉に過ぎないはずではないだろうか。

批判というだけで、ネガティブで、攻撃的だと考えられてはいないだろうか。だが元を辿れば、賞賛も批判も、一人の人間の意見に過ぎない。その性質は限りなく近いのである。

 

にも関わらず、批判が叩かれる理由は、そもそも人間が意見の相違を(全く)認める気がないからだ。

*1

いわんや、同じ意見ばかり集めるなら、肯定的でポジティブな意見の方が、集まりやすいのも事実。

結局は、作品の名誉などどうでもよく、ただ安心するコミュニティを欲する心が、批判を萎縮させているに過ぎない。

『FF13』や『COD:IW』などは、逆にネガティブなコメントだけ溢れていることからも、この点は裏付けられる。

結局、人間、というかオタクは、作品の良し悪しなどより、同じ趣味同じ意見で馴れ合いたいだけなのではないか。

 

「批判はマイノリティの権利だ」と言うわけでない。確かに、根拠が欠けたり理屈に誤りのある批判は批判されるべきだろう。だが、実際には根拠が欠けたり理屈に誤りのある「賞賛」は、批判されることはまずない。

ある時、『スプラトゥーン』が全盛期だった時、「色覚異常者へのオプションがある」だけで賛美されたが、大抵のゲーマーなら知る通り、その程度のオプションは10年前から標準装備になっている。

これでは、純粋に作品の関心があり、馴れ合いはどうでもいい市民が、狂信的で攻撃的な一部のオタクの暴力に屈する。面白い感想が消えて、似たような感想に統一される。それでいいのだろうか。

研究によって「炎上」は実際一部の人間が引き起こしているだけ、ということが明らかになったことからもわかるように、「批判への圧力」も同じようなものだと思う。

 

作品を通したファシスト党が、自由な議論を萎縮させる

f:id:arcadia11:20161209214449j:plain

先に言うと、私は私自身に自由な批評をさせろ、と言ってるわけでない。このブログを読んでる人間など限られているし、その状態で感情的な攻撃を受けようと、端から切って捨てている。

だが、私は、作品に関心があるからネットを利用する。私は「読み手」としてユニークな感想が消えて、退屈なノイズが残ることが惜しい。

 

そうしたノイズばかり増やし、「作品の礼賛」を通じて仮初の仲間を作り、そのオタク仲間という蓑を着て、実際にやりたいことは他人を殴りたいだけ。

私はそういう人間が、大手を振ってネットに居座り、善良かつ賢明なファンたちの意見を封じ込めていることが、腹立たしい。

そういう人間がファシスト国家を作って、ネットという有意義な場所を占拠する、数少ないゲームコミュニティを圧迫することを許さないってのが、とても惜しいと思う、

 

 

*1:確かに、その気持はわからないでもない。SNSを利用する層は広いし、私自身も色々と呆気に取られた経験もあり、全て認める必要もないと思う。問題は方向性が異なっただけでも批判の対象になる点である。