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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

クソゲーとは何か

 

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「クソゲー」という言葉がゲーマーに浸透して久しい。

新作ゲームが発売されれば、まず誰かがクソゲーと呼び、古いゲームを懐古する上でも、やはりクソゲーと呼ばれ、しまいには作品をクソゲーであることだけで崇拝する人もいる。

あらゆる言語の中でも、これほど特定のゲームを侮蔑できる言葉は珍しい。クソなゲーム。作った側からすれば暴言どころではない。

とは言え、当然それだけ強烈な評価をすれば、「クソゲーというほどでもない」という反論もあり得るわけで、結局問題は「クソゲーとは何か」というクソゲーの定義にあるだろう。

そこで、万人の納得する定義ではないだろうが、私が個人的に考える「クソゲー」の定義と水準を紹介したい。

 

「合わないゲーム」「つまらないゲーム」について

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久々のガバガバ図形

 

まず、いくら「クソゲー」と言いたくとも、段階を踏んで冷静に評価したい。

そこで、いきなり「クソゲー」と作品を糾弾せず、「合わないゲーム」「つまらないゲーム」の2段階をクッションに置いてみよう。*1

 

まず、人には趣味嗜好がある。

ホラーが苦手、FPSは3D酔いする、難しいゲームは苦手、簡単すぎるゲームは退屈、SFが、ミリタリーが好みだ、などなど。

だからこそ、趣味嗜好に合わないからという理由で、作品をクソゲーと断定することは避けたい。それは「クソゲー」でなく、「合わないゲーム」ということで、一旦保留する。

これが、「面白いゲーム」と「合わないゲーム」の違いだとしよう。

 

逆に、趣味嗜好とは無関係に、そもそも平均的なゲームに我々が期待する基準を満たしていない場合はどうだろうか。

およそ誰もが求めるであろう基準を満たしていなかったり、逆に誰に訴えているのかわからない没個性的な作品は、「合わなかっただけ」とは納得し難い。

バグが多い。ゲームプレイの殆どが既存のゲームからの流用。説明に欠けていて理解に苦労する。UIや操作性に難がありストレスを感じる。など。

ゲーマーも数千円と数十時間を投じて作品を吟味しているのだ。まず、明らかにその投資に報いず、製作者の表現に関わらず修正可能な問題が残っている、こうした作品は「合わない」以前に「つまらないゲーム」として私は批判している。

 

「クソゲー」について

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ようやく本題の「クソゲー」の話をしよう。

ここまで長文を並べて伝えたかった事は、要するに「クソゲー」とは単に「合わなかった」「つまらなかった」ゲームを指すのでない。それよりも酷く、それより醜いものであって、始めて「クソゲー」という暴言が飛び出すのだということだ。

「クソゲー」というパワーの迸る暴言が、ゲーマーの口から飛び出す時、私に限らず、彼らは怒りに震え、ゲーム文化そのものへの不信を露わにしているはずである。

そんな「クソゲー」に値するゲームとは、即ち「楽しむためにゲームを遊ぶゲーマーを、直接不快な気分にさせたり、信頼関係を破壊するような作品」だと私は考えている。

 

「不快にさせる」ゲームについては、本紙でも何本か取り上げてきた。

まず『リーグ・オブ・レジェンド』。攻撃的で扇動的なプレイヤーの言動や態度が、多くのプレイヤーのゲームプレイを侵害していること。

次に『FF15』。扇動的かつ虚偽の混ざった宣伝と、エゴを押し付けるような一部仕様、発売後の対応など、制作陣にあまりに誠意が欠けていたこと。

また本紙ではないが、資金を集めるだけ集めて開発を途中で丸投げした『Takedown Red Sabre』、日本語版の表現規制により何が何だかわからなくなった『日本語版Dying Light』なども、私はクソゲーと認識している。

いずれの作品にせよ、それぞれファンがいて、それぞれ優れた美点も私は評価しているが、あくまで私個人の中での「クソゲー」との評価である旨を付け加えておく。*2

 

で、これらクソゲーの1つ目の共通点は、「不快」。単につまらないゲームを遊んで時間を無駄にするのも辛いが、それよりも酷い、頼まれても遊びたくないような、人の気分を不快にさせる作品は、「クソゲー」と言えるだろう。

他人に暴言を吐かれる、幼稚で性的嗜好丸出しの会話を押し付ける、怠慢としか言えない適当な面を何度も遊ばせる。

遊んでいて悪意すら感じるゲームには良い感情は湧かない。

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公式掲示板の「チャット相談室」にて(本物のログ)

 

2つ目の共通点は、「信頼破壊」。即ち、クリエイターが作りプレイヤーが遊ぶという関係を、一方的に切り捨てたり押し付けるような態度、ないしは作品は、プレイヤー側の相応の反論も免れないだろう。

暴言に対して非効率的な対応を取る、著しく低いクオリティを修正する上で「無料アップデート」と言い張る、続編を騙って内容も品質も遠く及ばない作品を作る。

自らがお客様だと言う必要もないが、少なくとも制作陣が本当にプレイヤーの存在を考えていない、通すべき筋を通していない、こうした技術や実力以前の人間に、面白いゲームが作れるはずもない。

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何故素直に「酷評されたから」とは一言も認めないんだろう

 

ここまで読んで頂ければわかるだろうが、そもそも私が「クソゲー」と評するものは、要するに「万人が楽しめるものである必要はないが、数人が不愉快になるべきでない」という基準であり、ゲームの出来栄えはあまり関係ない。

何が面白く、何が不愉快かは人に依る。それでも最低限の一線はあるだろう。そもそも、ここまで述べた共通点は、ゲームの性質とはほぼ関係なく、単純に世間で提供する作品としてどうか、という品質管理の問題だ。

 

「クソゲー」が脅かすインタラクティブ性

言わずもがな、殆どの作品は「不快」「信頼」の2点を克服している。それに、好きでクソゲーを作るクリエイターはいないし、そもそもどんな「クソ」に思える仕様も表現の自由だという意見もあるだろう。

それでも尚、「クソゲー」という暴言めいた表現をあえて用いる理由は、ゲームというメディアの本質にある。

 

本来、ゲームは映画や小説と異なり、プレイヤーが積極的に操作し参加することで楽しめるメディアである。

プレイヤーとクリエイターの双方向的な取り組みなくして、ゲームは成り立たないのだ。

にも関わらず、その双方向的な、インタラクティブな取り組み故に、ゲームによっては、逆にプレイヤーが不快な思いをしたり、製作者の悪意を直に感じ取ることとなってしまう。ゲーム固有の魅力は、ゲーム固有の害にもなる。

これは正しく、ゲームの本質である「インタラクティブ性」への挑戦であり、「クソゲー」という侮辱に相応しい欠点と言えるのではないだろうか。

 

「クソゲー」という言葉がありながら、何故「クソ小説」「クソ映画」が、あまり聞かないか考えたことがある。

クソな作品を食わされた嫌悪感はどのメディアも共通しているだろうが、やはり自分の意志で操作し、何時間もかけて食わされる「クソゲー」の嫌悪感は、やはり特段酷いものだ。

昨今ではSNSの流行で、作品に批判的な意見には、すぐポリコレだのネガキャンだのと反射的に封じ込めようとする人が多いが、時としてゲーム文化そのものを挑戦するようなクソゲーまで私は看過できない。

 

最後に、先程述べたように、「クソゲー」と「合わないゲーム」「つまらないゲーム」の差異は特に強調しておきたい。

無論、人によって何が看過し難い欠点で、合わないゲームやつまらないゲームがあるのも当然だが、「クソゲー」がないに越したことはないだろう。

 

 

 

*1:ゲームを4段階で評価するなら、「面白いゲーム」>「合わないゲーム」>「つまらないゲーム」>「クソゲー」の順、という意味だ。

*2:無論、これ以外にもクソゲーはあるし、クソゲー内で特に順位を付けるつもりもないので、念のため。