ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

そろそろ『けものフレンズ』が真剣に面白くなってきた感想

 

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個人的な心境の変化により記事内容を全面に渡り訂正します。記事はそのうち消す予定です。

 

「すごーい!」

その凄まじい「ゆるさ」で、今季ネット世論を喚起したアニメ『けものフレンズ』。

自分の記憶の殆どを失った人間と思しき「かばんちゃん」と、サーバルキャットを自称する「サーバル」が、かばんちゃんの正体を調べるため図書館を目指し、ジャパリパークを奔走する。

 

正直な話、私は2度この作品の興味を失ってる。最初この一話を観た時、そして話題になって、改めて五話だけを観た時。

日常系アニメを匂わせておいて、少しダークなサスペンス要素を盛り込むことは、そう珍しい手法ではない。最近では、日常系アニメと見せかけてパンデミック要素を盛り込んだ『がっこうぐらし!』が話題を呼んだ。

それでも、三度目。周囲に勧めもあって私は一話から再度順に視聴した。するとどうだろう、私もまたフレンズの一人になってしまったのである。

 

そもそも、本作を「日常系アニメ」という曖昧なカテゴリー、いや偏見に押し込めてしまったことが、私自身の失敗だった。

日常系アニメとは何か。この定義は極めて有耶無耶である。ダイナミックな展開に乏しく、登場人物の心象が変化しないアニメ・・・と批判的に捉えられがちだ。

確かに、本作では心躍る冒険も、切迫した危機も訪れない。しかしそれは、我々の価値観から抜け出せないからだ。

 

逆転した日常

よくよく考えると、自身に記憶がなく、その記憶の正体を突き止めるため、見ず知らずの生物と探索する、「かばんちゃんの日常」は、十分にスリリングなもので、決して「日常」的なものでない。

だが、ジャパリパークに於いて、多くの価値観が異なる。狩りはごっこであり、本来極めて困難な共存の道を歩み、動物の価値観と人間の価値観を併せ持っている。

本来なら危険な事も、彼らにとっては危険でなくなり、本来なら困難なことも、彼らにとっては容易なことになる。

彼らの世界は、見かけだけのファンタジーではない。抜本的な異世界であり、我々の世界とは何もかも真逆だ。

本来、我々が最も感情移入し易い「人間」であろうかばんちゃんも、彼らの文化に組み込まれていき、やがてかばんちゃんは、既に我々の知る「人間」でなくなってしまう。

 

本作最大の魅力は、世界観だ。「動物」でも「人間」でもない、「フレンズ」という存在が跋扈し、彼らが中心となって独自の価値体系を造り、かつて人間が存在したであろうジャパリパークを支配している。

我々にとっては非日常な出来事や価値観が、フレンズにとっては「日常」であり、我々は気づかぬ内に、本作の奇妙な価値観に巻き込まれ、やがて我々の日常へと転ぶ。

こうして人は、本作が「日常系アニメ」だと誤解してしまう。

ただバスを修理する、電池を充電する、それだけでも、想像できないキャラクターと出会い、予想もつかないハプニングが起こる。

それでもこれが「日常」だと思わせているのだから、本作の描写がいかに丹念でかつ独創的かは、言うまでもない。

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「狩りごっこ」を理解しても「狩り」はしらない。

 

一見してただゆるいだけの世界観が、こうも丹念に構築されていることに舌を巻く。

特にフレンズたちの描写については、かなり研究されたと思う程、実在する動物のイメージが丁寧に面影として残されている。

確かに予算や技術面の水準は他のアニメに劣る。だが、それ以上に構成に無駄がなく、フレンズの愛らしい仕草は素晴らしい。

その証拠に、本作には所謂お決まりがない。制服着た女子高生が学校に通って部活に汗を流す・・・といった、アニメの定番はバッサリ切られ、それどころか本作の中ですら、冒険の中でルーチン的な描写はほとんどない。その分、たっぷりと新たな世界が描かれ、描かれる程に世界の奥行きは広がっていく。

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瞳孔が横に広いのは有蹄類等の特徴。そんな描写もすごいが、動物ではないフレンズという独自の生物として、より細やかな描写がなされる。

 

かばんちゃんは何者なのか

「たーのしー!」こんなフレンズの文化は、我々にとって野蛮な異文化である。故に、私を含めた多くの人間が「一話切り」に踏み切ったのも、無理はない。

それでも多くの人間が本作についていけるのは、他ならぬ「かばんちゃん」の絶妙な立ち位置である。

かばんちゃんは本作の主人公であり、物語の鍵だ。我々と同じ人間であろうかばんちゃんは、我々とフレンズたちとを仲介する。

本作は彼/彼女が知性を使い、フレンズには解決できない問題に対処することが主な流れとなる。

これは一見、『アバター』のような異文化に現代文明を持ち込み、彼らを統治して他の異文化と対峙する「白人酋長もの」を思わせるが、さてどうだろう。

絶妙なことに、本作はロードムービーなのである。

あくまで図書館に行くことが目的で、フレンズと留まることがない。個性的なフレンズとも一話きりでお別れ。何と贅沢な描写であろうか。

故に、かばんちゃんは意図せずとも文明に介入することがない。

この点もまた極めてニュートラルかつ丁寧な描写で、かばんちゃんが「フレンズ化」しても、フレンズは決して「人間化」しないのだ。

本作は人間や動物の優位を描くものでは当然なく、「フレンズ」として統一されている。

ここでは、かばんちゃんも我々も人間でなく、フレンズという本作固有の中立的な存在のなってしまう。

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もうお気づきだろうが、「すごーい!」を連呼するフレンズは「ポジティブ」なわけでない。彼らにとって当然の仕草であり、それこそ本作固有の世界観なのだ。

 

人類の文明が指し示すもの

実際の所、本作の肝と思われる、「かつて存在した人類の遺跡」は、本作の魅力のほんの僅かな部分に過ぎない。

仮に、本作を日常系アニメのガワを被せたディストピア系SFアニメと捉えるなら、それこそ凡作である。遺跡の描写やサスペンス的演出はありふれており、核心にはいつまでもたどり着かない。

まだ明らかになっていない、かばんちゃんの正体と人類の末路は、本作におけるフレンズたちの楽園を際立たせるスパイスだ。

前述したように、本作では日常と非日常が倒錯する。我々にとっての非日常が、フレンズにとって日常となる世界。謎の生物が喋り、食物連鎖が消失し、誰もが笑って暮らせる理想郷。

楽しむ程に味が出て、読み込む程に独創性の深まるフレンズたちの「日常」。この奇妙なロードムービーを支えるのは、極めて丁寧に造り込まれた世界観と脚本、素晴らしいキャラクターたちを用意した原作である。

かつて人類が存在するとして、この非日常と、どう渡り合ったのかは気になる。この謎は本作におけるフレンズたちの特殊な世界観を、最も強調付けるエッセンスだ。

だがそんなことがどうでも良くなるほど、このジャパリパークでの泡沫の夢は快適だ。

ある意味、人類の存在を匂わせるサスペンス要素は、オープンワールド系ゲームのメインクエストに近いものではないだろうか。(申し訳程度のゲーム要素)

 

 

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