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ゲーマー日日新聞

ゲームという文化を、レビュー、攻略、考察、オピニオン、産業論、海外記事の翻訳など、複数の視点で考えるブログ。

ゲームのストーリーは誰のものか?

 

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ビデオゲームには千差万別の物語が描かれる。それは時に、悪鬼からプリンセスを取り戻す勇者の物語であったり、時に、未知の砂漠における巡礼の旅であったりする。

こうした物語を描く上で、大きな鍵となるのが「物語は誰のものか」という問題である。

物語は主人公のものか、プレイヤーのものか。これは一見「鶏が先か卵が先か」というトートロジーにも思えるのだが、この視点こそ作品の在り方を分岐していると私は考える。

そこで、本稿では6作品、3つの例からこの疑問を考察する。

 

『ドラゴンクエスト』VS『ファイナルファンタジー』

超大シリーズの分岐点

 

『DQ』、『FF』、両シリーズ共に日本のRPGを代表する超大シリーズである。

これらの差異は様々だ。伝統的なコマンドバトルと、革新的なアクションの混じったバトル。古典的ファンタジーの世界観と、SFやスチームパンクの混ざった世界観。

その一つに「物語の所有者」が挙げられる。先述した主人公が先か、プレイヤーが先かという観点だ。

 

『DQ』は明らかに「プレイヤーが先」だ。『DQ1』から一貫して必ず主人公の名前はプレイヤーが決められるし、原典とも言える『ウルティマ』の影響を多いに受けている。

ゲームシステムに関しても、自由に仲間やモンスターを雇用したり、スキルやジョブもプレイヤーの選択が広範に渡って尊重される。

物語についても同様だ。作家によるメッセージより、プレイヤーの没入感を優先しており、『DQ5』の結婚イベントなど、物語そのものがプレイヤーにより分岐するケースもある。

 

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一方で『FF』は比較的「主人公が先」な作品と言える。特に『FF4』移行の作品で顕著だ。

特に、主人公の名前は固定され、主人公固有のエピソードを中心に物語が展開される点が興味深い。

『FF4』は最も顕著な例である。主人公が暗黒騎士へ身を堕とし、己の罪と向き合いながら、パラディンへと”ジョブチェンジ”し、己の出自(=ラストダンジョン)と対峙する。

作品毎にまちまちだが、『FF』シリーズはRPGの中でも極めて作家性が強い。『FF4』同様、主人公(≠プレイヤー)の個人的な因縁こそ物語の動力源であるパターンが多い。(個人的に『FF10』のミスリードが印象的だ)

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『Bioshock』 vs 『Bioshock:Infinite』

その罪は誰のものか?

次はFPSの例を紹介しよう。

『Bioshock』は2007年に発売され、廃墟と化した海底都市を冒険するFPS。そして、『Bioshock: Infinite』は2013年に発売され、天空に浮かぶ未来都市を冒険するFPSだ。

両作品ともに世界的にヒットしたが、いずれもFPSという媒体を利用しながら、全く異なるアプローチで物語を描いた。

 

例えば、『Bioshock』はFPS固有の「視界の狭さ」をトリックにして、FPSにおけるプレイヤーの「盲従」を指摘した。

FPSとは、ただ歩き、言われた通りに敵を殺すだけのゲームであって、物語はその暴力を正当化するものに過ぎない。

この、FPSの視界故に客観視できなかった事実は、多くのプレイヤーの心を抉った。

そして根本的に、この物語は「プレイヤーが先」という前提で成立している。物語の中盤で、主人公の出自は白紙化され、ただプレイヤーの暴力性と盲従性だけが浮き彫りになるからだ。

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6年経過して作られた『Infinite』は、驚くことに『1』と真逆のアプローチで作られた。

「主人公という殻が消え、プレイヤーが剥き出し」になった『1』と対象的に、『Infinite』は「主人公が剥き出し」になる物語と言える。

ここでも、FPSという媒体が絶妙に絡んでくる。FPS固有の「視界の狭さ」が、主人公個人の「盲従性」に繋がっているのだ。*1

つまり、主人公はかつて酒に溺れ、暴力に頼るしかない弱い男だった。故に主人公は、己にも「エリザベス」にも向き合えず、盲目的に敵を倒すしか出来ない。(=ある種FPSによるメタファー)

だが不器用にも、前に進み続ける(物理的な意味で)ことで、遠回りになりながらも、己の過去とエリザベスと向き合う様子を、プレイヤーは操作しながら見守ることとなる。

即ち、プレイヤーに主人公の視野の狭さを体験させ、そこからエリザベスや周囲の影響を受ける中で、徐々に自身の正体と罪に向き合う過程が、本作のカタルシスとなっている。

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『Journey』 vs 『Dear Esther』

巡礼と放浪

 

『Journey』(邦題『風ノ旅ビト』)は砂漠に埋もれた遺跡を「巡礼」するゲーム。『Dear Esther』は絶海の孤島を「放浪」するゲーム。

両作品とも、インディーズゲームにおける名作であると同時に、殆ど「ゲームらしい部分がない」点で有名になった作品だ。

一見、両作品は似ている。プレイヤーが苦戦するような敵は存在せず、ストーリーは抽象的だ。だが、例によって「ストーリーの所有者」を考えると、全く別物のゲームだと言える。

 

『Journey』は一言で言えば巡礼のゲームだ。旅は険しく、目的はない。言語も介せず、遺跡にあるメッセージも薄い。あるのはただ、険しい自然のみ。

極めつけは、影法師のような主人公だ。主人公に顔はなく、何かバックグラウンドもないことで、プレイヤーは極めて純粋な経験を味わうことが出来る。

何の妨げもなく、プレイヤーはただ砂漠を歩き、遺跡を渡り、山を登る。完全にプレイヤーが感情移入できるように作られていて、本当に自分が遠く険しい道のりを歩んだかのような記憶が残る。

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一方、『Dear Esther』は異なる。絶海の孤島は退廃的だが美しい。だが極めて「個人的な島」なのだ。

本作には『Journey』のような厳しさすらない。砂漠も遺跡も山もなく、ただ島だけだ。代わりに、主人公が一人称視点で、延々と独白を語る。

曰く、「かつて自分とエスターがいた」「この島には自分たちの思い出がある」「数々の島民がいたが今はいない」「愛しいエスターはどこに行ったのか」・・・。

全てプレイヤーとは無関係の、主人公の「個人的な独白」だ。無論、プレイヤーはただ聞き流すことしか出来ない。

また、歩き続けるに連れて島は徐々に歪み始める。主人公が自身の話を始めると洞窟が現れ、寂寥に耐えていると砂浜に蝋燭が現れる。

島は主人公の精神的な世界のようであり、プレイヤーは、主人公の独白と島の放浪によって、「主人公」という男の精神世界を冒険する。

この実存主義的なアプローチは、『Journey』とは全く異なる。『Jouney』では主人公が完全にプレイヤーの分身である一方、『Dear Esther』では主人公そのものが、プレイヤーが進むべき道となっている。

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興味深い点は、両作品共に、「TPS・FPS」における伝統的なアプローチを逆に解釈している点である。*2

例えば、FPSは本来、主人公を透明にすることで、プレイヤーに直接ゲームを体験させてきた。(『Half Life』など)またTPSでは、主人公を客観視することで、より迫力のある体験をもたらした。(『アンチャーテッド』など)

しかし、今回の例において、一人称視点の『Dear Esther』では主人公が独立した存在となり、三人称視点の『Journey』では主人公=プレイヤーの図式を用いて高い没入感を実現している。

 

 

 

 

 

*1:同時に、FPS固有の「主人公は影が薄くあるべし」という常識を覆している

*2:厳密には「シューター」ではなく、一人称・三人称ゲームと呼ぶべきだが