ゲーマー日日新聞

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『シェイプ・オブ・ウォーター』感想 愛に勝る恐怖

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私はそれなりにアカデミー賞の審査員をリスペクトしていて、その最高賞である作品賞の受賞作は、かなり高い精度で名作が選ばれていると思う。

そこで、今年の受賞作『シェイプ・オブ・ウォーター』(以下『SOW』)。『パシフィック・リム』で知られるギレルモ監督が、政府に捕獲された半魚人と発話障害の中年女性の恋愛、及びそれを妨害する政府エージェントとの戦いを描いた映画だ。

 

で、この映画の批評について、かなり同意できる文面があったので先に貼っておく。

bunshun.jp

個人的にかなり同意できる批評だったので、それを引用しつつ私なりの作品の感想を綴らせて頂く。

 

まず映画として出来が悪かったかというと、ちゃんと映像として良い場面はちゃんとある。

例えば、1960年代のアメリカのセットとか、半魚人のメイクとか、ディティールは本当に良い。『ウォーター』と名付けてるだけに、雨を使った演出や、水中での撮影は、古典的なはずなんだけどとても斬新で、この辺りはデルトロ監督のキャリアが反映されてるなと思う。

けど、冷静に考えると、かなり納得しかねる箇所が多い。

 

 

例えば、弱者である半魚人と中年女が恋愛までは理解できるけど、それらに典型的な敵(ストリックランド)が現れて、2人で共同して敵を倒すという流れにはすこぶる違和感がある。

舞台は仮にも1960年代のアメリカ、実在した歴史だ。ストリックランドがいかにマッチョで冷酷な奴であろうと、彼も真っ当に職務をこなす公務員だ。そんな彼の立場になってみよう。訳の分からない珍獣を捕まえたと思ったら、掃除夫に過ぎない中年女がベタ惚れし、無断で誘拐した上に、珍獣と手を組んで正義の名の元に粉砕されるのである。

多少でも中立に見ようとすると無理がある。ストリックランドは真面目に仕事をしていて、仕事も政府及び国民の利益となるものであって、なんでこんな理不尽に殺されなきゃいけないのか。

 

更には、ストリックランドというキャラクターが、本作で随一の存在感を放っているのも、この違和感の根拠だ。

指を斬り落とされ、上司の怒りを買っても、絶対に折れず職務を全うしようとするストリックランド。何よりマイケル・シャノンの鬼気迫る演技と相まって、半魚人と中年女を足してまだ余りある存在感と魅力がある。これは余りに不釣り合いだ。

 

「これだけやったら、デル・トロは単に『子どもの心を失わないオタク監督』という位置づけや。だけど彼は『パンズ・ラビリンス』や『シェイプ・オブ・ウォーター』の顔も持っている。これらの作品は、『こっそりと妄想の世界にふけりつつも、いつ怖い怖いオヤジに見つかって怒鳴りつけられ、おもちゃや本やテレビを全部取り上げられて現実に無理やり引き戻されないかとビクビクしているデル・トロ』という、『パシフィック・リム』よりも、もう一段上の階層の自己を反映しているように見えるんや」

「妄想にふける自分を客観的に観察しつつ、現実からの脅威におびえるもう1人の自分、ということですか」

 

小石輝氏は見事な批評でこの疑問に答えている。何故ストリックランドはこれほど理不尽な待遇にありながら、随一の存在感を放っているのか。それはデルトロにとってストリックランドこそ「現実」だったからだ。

イライザという主役の女性は、デルトロのお伽噺に使う舞台人形である。一方ストリックランドという敵は、デルトロが長年自分を苦しめた批評家や世間の目といった数々の”敵”が、自然とキャラクターになってしまった存在。

即ちデルトロの十八番である、自分のイマジネーションを映像化させた、作品随一の”生物”なのである。

この製造過程を考慮すれば、ストリックランドという男の方がリアリティや魅力があり、半魚人やイライザは空虚な木偶に見えるのは当然に思える。生きた魚とルアーを同時に水族館の水槽に放り込むようなものだからだ。

 

小石輝氏が指摘するように、ギレルモ監督は極めて「想像の世界を映像化する」ことに優れた監督だ。代表的作品『パシフィック・リム』はその極地であり、誰もが想像するが、具体化することが出来なかった男の子たちの「夢」を、見事映画に結実させ喝采を浴びた。

今回はストリックランドこそ、彼の「悪夢」であり、イマジネーションの源泉だった。彼は自分たちの夢を破壊しようとする「いじめっ子」。それは親であり、学校のJockであり、トランプ大統領かもしれない。それへの恐怖こそ、彼にとっての他ならぬ「現実」だった。

問題はそれだけでない。結局、ギレルモ監督はストリックランドという彼が抱いていた強烈な敵を前に、ただ憎しみを込めて殺し、脚本の絶対権力の前に串刺しにすることしか出来なかった。

それは即ち、「敵」に対する事実上の敗北を意味する。本当に敵を負かすなら、力だけでなく、心も勝たねばならなかった。もし力だけで支配するなら、それはストリックランドと実は何も変わらないのではないか?*1

本作はラブストーリーでなく、戦争映画になっている。自分の夢を破壊する強烈な「敵」との戦い。本質は「2人のお伽噺」でなく「2人のお伽噺を破壊する悪」。にも関わらず、彼は自身の無意識に内在する「恐怖」(=ストリックランド)に対し、意識していた「憧れ」(=半魚人や中年女性)は余りに弱かったのである。

 

「どうしても、イライザのキャラ立ちがストリックランドよりも劣ってしまうのは、ストリックランドがデル・トロの内面にデフォルトで存在するのに対し、イライザは『こういう女性やったら半魚人に惚れても不思議はない』という逆算的な手法で作り出された面が多いキャラクターだからやないかな。もちろん、イライザの核心的な部分は、『パンズ・ラビリンス』の主人公の少女と共通するし、それもデル・トロの内面に元々住んでいるキャラクターやと思う。だけどそのままでは、とうてい大尉やストリックランドには勝たれへんから、色々と設定上のお化粧が必要やったんやないかな。心の中に元々住んでいるキャラは、頭の中で作り出された部分が多いキャラよりも強い、というわけや

(中略)

「オレは『シェイプ・オブ・ウォーター』は『前向きの失敗作』やと思う。いつの日かデル・トロは、『今度こそファンタジーの力で現実を打ち負かす』ために、もう一度同じモチーフの作品作りに挑戦するんやないやろうか。宮崎駿作品もそうやと思うけど、作り手が何度も何度も同じテーマ・モチーフに挑戦し、挫折を繰り返しつつも作品を深化させていく様を見守り続ける。それも映画を観る大きな喜びのひとつであり、観る側の教養にもなっていくと思うんや」

 

というわけで、私も「前向きの失敗作」という点に完全に同意。

少なくとも、この作品はデルトロ監督の中でも微妙だし、アカデミー作品賞としても、上手く審査員の心を掴んだ「ロビー作品」なことは違いない。

確かに、デルトロ監督の映像美は相変わらず凄かった。60年代のアメリカ、タフな半魚人、そしてストリックランド、どれもイマジネーションを直接映像化できるデルトロ監督ならではの表現だっただろう。けどそれは、監督の他の作品を含め、「よくある作品」程度に過ぎない。

本作の本質はストリックランドにある。自分が用意した夢を破壊する「大人」への恐怖そのもの。この描写は実に見事だったが、結局デルトロはストリックランドを恐れ、無残に残酷に殺すことしか出来なかった。これは大きな痛手だ。

彼には結局「大人」に自分の夢を壊される、という次元まで作品に昇華させる度量がなかった。小石輝氏が指摘するように、重層的に自身の想像を作品化するデルトロだが、無意識に抱いている恐怖までは扱いきれず、結局強引に殺すという形で”捨てた”のだ。

 

一方、純粋に「マイノリティの美しい在り方」という、監督が本来描きたかったであろう映像は、昨年の作品賞受賞作『ムーンライト』が圧倒的だった。

悲惨な環境、「敵」に囲まれた状態で過ごした主人公の内面を、圧倒的な映像美と共に見事に描き、絶妙な領域に落としている。

彼は決して「ただ一度の敗北もなく、ただ一度の勝利もなし」という存在で、現実に生きるマイノリティが、いかにして前に進むべきかという課題を、極めて鮮明に描いていた。決して「マイノリティが集団で恐怖の対象を殺し、結果的に団結する」という短絡的な方法ではない。

 

どうあれ、『シェイプ・オブ・ウォーター』は様々な面で「限界」を感じさせる作品だったけれど、デルトロ監督の強さは、ストリックランドという男の圧倒的存在感によって健在していることからも確かなものだ。

今後、彼の作品に期待せざるを得ない。

 

 

 

最後に、何故この作品が作品賞に選ばれたかという理由について。

「それについて言えば、この映画の特徴のひとつは『映画通ぶりたい人や、インテリぶりたい人が誉めるには格好の作品』ということやね。この映画を誉めれば『映画のことがよく分かっているリベラル系インテリ』というポジションは保証される。だからこそ、映画人たちはこぞってこの映画を誉めている、というか、ハリウッドでは『この映画を誉めないと自分の立ち位置が危うい』ということにまでなっていたんやないかな

「それってどういうことですか? 例によってひねくれた見方なんでしょうけど」

政治的な文脈からこの映画を観れば、半魚人は言うまでもなくマイノリティー、被差別者の比喩的表現や。そして、赤ん坊の時の虐待が原因で話すことができないヒロインも、監督自身の言葉を借りれば『意見を封じられた人々の象徴』となっている。ヒロインと共に半魚人を救おうとする人びとも、黒人の清掃員だったり、ゲイの老人だったりと、社会的弱者ばかりや。

(中略)

「デル・トロ自身、『1962年という舞台は現在のアメリカの鏡。でも、現在を舞台にしたら、政治討論が始まってしまう。だから〈昔むかし……〉とおとぎ話にすれば、みんな聴いてくれるというわけなんだ』と話しているぐらいやしな」

「監督自身がそんな種明かしするようじゃあ、『これは政治的な作品です』と公言しているようなものですね」

まぁこれだよねと。マイノリティvsトランプという典型的な現代アメリカの構図が落とし込まれていて、かつマイノリティの妥当性をガッツリと主張する方向で作品が固まってる。アカデミー賞では『ブレイブハート』等ままあるけど、要は作品の価値よりも世論の圧力で決めちゃう、一種の努力賞なんだろうなと。

うーん。個人的にアメリカ市民でもないし、トランプも反トランプも気にしない。政治的主張の強い映画があっても良いと思う。例えば稀代の傑作『カサブランカ』なんか清々しい程のプロパガンダなんだけど、プロパガンダも極めれば芸術の領域に達するという例であると言える。

けど本作に引っかかるのは、「政治性」と「芸術性」を天秤にかけて、その2つが合致せず、双頭の蛇のように別れてしまった違和感がある。

 

 

 

*1:例えば今よくある”イキリオタク”ネタでは、オタクが不良をボコボコにする構図があるけど、それじゃ同類なんじゃない?って疑問と同じだ