『ファークライ5』 に関するネタバレがあります。最後の余談には『Bioshock:Infinite』のネタバレもあります。ご注意ください。
『ファークライ5』をクリアした。フレンドとだらだらCOOPで15時間前後。今回はヘリや飛行機のようなビークルが充実していて、COOPならではのダイナミックな遊び方も増えて楽しめた。
一方で私の『FARCRY』への関心はストーリーへ移る。これまで『FARCRY』は様々なアプローチで興味深いストーリーを提示し続けてきた。
『3』ではメタ構造によるゲーム内の暴力の不毛さと幼稚さを皮肉り、
『4』ではラスボスと主人公からゲームとプレイヤーを親子の関係になぞらえて皮肉った。
とにかくアイロニーの塊。UBI本社を構えるフランスならではのエスプリの効いたストーリーは『5』でも同様に期待していた。
だが実際にプレイすると、本作におけるエスプリはこれまでの辛さよりも少し「塩辛い」ように思う。何故なら本作の風刺は、ゲームの構造そのものを皮肉った『3』や『4』と異なり、現代社会そのものへを皮肉っているように思えたからだ。
ただ純粋に狂人集団として描かれるエデンズゲート
本作で登場するカルト教団「エデンズゲート」。日本人である我々から見ると典型的なカルト教団だが、実は現地アメリカ人から見ても、同様に「奇妙な」集団に見えるそうだ。
まず、「エデンズゲート」の外見やマークは米国における新興宗教の代表格「サイエントロジー」だ。画像を見てもらえばわかる通り、十字架に星が組み合わさったマークが酷似している。
一方で教える教義は「終末に備えよ」「神の思し召しに従え」という極めて古典的なキリスト教の福音派的な考えだ。実はこれは奇妙な矛盾である。
サイエントロジーでは終末論を採用していない。文字通り科学的な宗教と当人は自称しているので、むしろこのような原理主義的な否定するべき所である。
宗教科学を創設する上で、E. B. タイラーは、「至高の神格または死後の審判」への信念を宗教の定義から除外しました。 これに関し、サイエントロジーにおいては安易な省略はありませんが、神学とキリスト教の終末論を実際に超越した宗教構造を教化することが省略されています。
即ちモチーフとなっている2つの宗派は同じ宗教でも正反対の立場にあり、完全にオリジナルの教団となっているのだ。
モチーフとなった教理と教理が矛盾を産み、更には同じエデンズゲート内でも兄妹間で全く別の思想を布教している。ジェイコブに「強くあれ」と言われ、ジョンに「贖罪せよ」と言われ、フェイスに「現実を忘れろ」という。実は彼らの思想に共通の価値観はない。
こうして、「エデンズゲート」はどのプレイヤーからも理解されず等しく「頭のおかしい連中」として映るよう構築されている。日本人ではわかりにくいが、仮にサイエントロジーや福音派の教徒がプレイしても、決してエデンズゲートの思想に共感することはないだろう。
定期的に彼らに強制的に捕まえられ説教されるが、その言葉に共感できたプレイヤーは何人いただろうか
言うまでもなく、これはUBIが取材をサボって適当にでっち上げたから、という訳ではない。実際彼らはモンタナ州での取材を何度も行い、現地人との交流も積極的に行ったようだ。それでもあえて、彼らは現実のカルトを想像させないように作ったとインタビューで語っている。
Andrew:本作のテーマを決めてから、カルトについて研究し続けました。実際の例も参考にしましたね。確かに、現実のカルトの研究が本作には活かされていますが、あくまで仮想の世界が舞台なので、その点はあまりセンシティブだとは思いません。
つまり、「エデンズゲート」は意図的に現実のカルト教団とは別物に仕上げた。あえて数多くの調査を行った上で、カルト教団に現実性も説得力も持たせなかったのは、何故だろうか。
「我々vs彼ら」
何故、「エデンズゲート」を純粋な狂人集団として描いたのか。それはどのプレイヤーにも等しく憎しみを抱き、暴力によって排除させたかったからではないかと私は考えている。
まず、ストーリーライターのダン・ヘイによれば、このゲームは現実に何かを直接風刺したわけではなく、ただプレイヤーに「今の世界」について考えさせるものだったと話している。
「これは政治に関して具体的な何かを語るストーリーではありません。この物語にはそれ自体で成り立つだけの力強さがあります。プレイヤーは『今の世界はちょっとおかしい』という単純な気持ちを代弁するキャラクターとしてゲームを体験するに過ぎません」
つまり、本作での「エデンズゲート」とは現実のカルトのメタファーから意図的に遠ざけて描いている。実際、ダン・ヘイも『ファークライ5』で描かれているのは「今の世界」そのものだと応えている。
「一番重要なポイントは、このゲームのユニークな世界を構築して、それぞれ異なる自分だけの考えを持っているキャラクターに命を吹き込むことです。彼らの考え方は互いに衝突するもので、プレイヤーは2人のキャラクターが議論するオープニングから、すでに『誰が正しいの? 誰に従えば良いの? ねえ、誰が正しいの?』と考えなければなりません。そこには明確な解答がないのです。この世界はめちゃくちゃで、不安定で、そしてあらゆる物の見方に満ちあふれています。このような世界を達成することができたら、私たちは成功することとなります」
では今の世界とは何だろうか?
それは、無数の正義を持つ人間がぶつかり合い、力によってこれを解決しようとする「我々対彼ら」という、現代特有のコミュニティが断絶された社会だと私は考えている。
最初に「我々対彼ら(us versus them)」という形式を言語化したのはトランプ政権を支持するアメリカの保守層だ。その根底にある思想は、自分たちこそがアメリカ人であり、他はそうでない。イスラム教徒はテロリストだ、不法移民は犯罪者だというレッテルを貼り、自分たち以外を排除するというものだ。
彼らは、特定の価値観や利益を共有する人間が自ら「我々」として組織化され、それ以外を全て「彼ら」に置き換え、最終的に自分たちが「生き残る」という被害者的な動機に基づいて、あらゆる活動を正当化している。
対立構図を別の視点から分析しますと、内集団(In-group)対外集団(Out-group)になります。「我々」は内集団、「彼ら」は外集団に属します。一般に人は、自分が所属する内集団のメンバーに対しては好意的態度、外集団のそれには非好意的、嫌悪ないし憎悪の態度をとる傾向があります。2017年6月23日トランプ大統領はホワイトハウスに招待した退役軍人に向かって演説を行い、彼らの待遇改善を約束したうえで大統領令に署名しています。
だが、この考えを持つのは保守層に限った話ではない。「女性の立場向上」に「性的マイノリティの権利」、自分たちが被害者故に厚遇を求めるという流れはどこでもあり、価値観同士での競合が止まらない。そしてぶつかった「我々」同士は、やがて暴力での闘争に発展する。
ヨーロッパであれ、中東であれ、アジアであれ、今世界には無限の正義、無限の「我々」が存在していて、どれも一様に生き残るためのシュプレヒコールを続ける。
故に、ダン・ヘイは「具体的な政治」ではなく、「何かおかしい」程度のことをゲーム化したとインタビューで語ったのではないか。この手の潮流は世界のどこでもあるのに、概ねアメリカの一部保守層のものだけだと人々は考えている。だが根本的なロジックはどの「我々」も同じなのだ。
このゲームにおいても同じである。プレイヤーが「レジスタンス」として引き入れる勢力は、迷彩服の自警団、信仰を重んじる農家、警察官がまとめたゲリラ等、どれも価値観も思想も違う。
そもそも、最序盤でファーザーを拘束する時でさえ、「今すぐ拘束すべき」と訴える連邦保安官と、「彼らに手を出すべきじゃない」と宥める地元保安官との間で考えに亀裂が産まれている。この『ファークライ5』の世界においても、「我々」は無数に存在しているのだ。
自発的に銃で武装した市民が許可なく主に不法移民を取り締まる自警団「ミリシア」。現代のアメリカで活発になっている極めて危険な組織だが、主人公は彼らに取り入ろうとする。
そして言うまでもなく、エデンズゲートというカルト教団。絶対にプレイヤーに共感されない「狂人集団」として描かれる彼らこそ、他ならぬ「彼ら」の象徴だ。
恐らくこのゲームをプレイした殆どの人間がエデンズゲートに敵意を抱く。自分に攻撃したばかりでなく、その動機や思想に共感の余地がないからだ。そしてカルト教団特有の服装やシンボルを見て、我々は何の疑いもなく彼らを殺す正当性を感じてしまう。仮に向こう側が多少歩み寄ろうが、「世界の半分をくれてやろう」と言われようが、プレイヤーが同情して攻撃を緩めることなどない。
だがこれはカルト教団に限った話だろうか。我々は現実に存在する無数の団体、政治団体、宗教団体、利益団体に、カルト教団と同じような不快感、不信感を抱いているのではないだろうか。即ち、「カルト教団」という存在そのものが、「我々」が視界から切り捨て唾棄している「彼ら」の象徴なのだ。
一方、エデンズゲートはどうだろうか。ファーザーは、こうした「我々 vs 彼ら」という構図に反抗して、全てを「家族」のうちに包摂しようとする考えを布教している。
だがやがて、カルトの中でも三兄弟のように異なる考えに基づいて行動するようになり、末端のカルト構成員は家族である「我々」に与しなかった者へ暴力を振るうようになった。即ちエデンズゲートもまた「我々対彼ら」の闘争に加担してしまった。
「みんなが正当な権利を奪われたように感じている」と訴えるジョセフの元には、家を失った人々や、薬物中毒の人々、生きがいを失った人々が集まってきます。ジョセフは彼らに対し、「助けてあげる。私があなたの面倒を見てあげる」と言い聞かせます。心配ごとを抱える人々、何も上手く行っていないと感じているような人々は、「心配しなくていい。なんとかしてあげる」という言葉を求めています。それがこのカルトの基盤になっています。そして、時が経過し、世界が崩壊する気配が一向に現れないと、彼らは少し不穏に、クレイジーになってきます。「嘘じゃない、本当に世界の終わりはやってくるんだ」とね。
その結果、カルトは容赦なく他の市民を襲うようになり、主人公と戦争した結果敗北してしまう。ファーザーだけは唯一これを恐れていたが、他の兄妹、とりわけジョン・シードにはその考えが理解できず、また兄妹を殺されたファーザー本人も、その怒りにより「最終戦争」を始めてしまう。
結局、ファーザーは最後の最後で主人公を「赦す」ことができず憎悪を向けていく
最終的に、核戦争が始まりアメリカが崩壊するエンドを迎える本作。この点はネットでも賛否分かれるものだったが、ここまで読んで頂いた読者なら「カルトの頭を殺して終わり」といかないのもご理解頂けるだろう。
何故なら、主人公もカルトも、「我々対彼ら」の構図に従い、殺し合っていた同じ穴の狢だからだ。どちら側も自分が被害者で正義だと信じ込んでいる。そうした無限の正義の衝突が、最終的に世界を崩壊させていくことになるのは、急激に危機を迎える現代社会を見れば一目瞭然だ。
そうした「我々対彼ら」の構図の脆弱さ、そして人間の弱さを、本作『Far Cry 5』は伝えているのかもしれない。
人間は「同一性を求めてやまない」と進化心理学者のジョン・トゥービーは指摘する。それは仕方がない。人間は生まれつき「私たち」と「彼ら」を区別するようにできているからだ。脅威に直面すると、無意識にでも「私たち」を優先することは避けられない。
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これは余談だが、本作のリードライターAndrew Holmes氏は以前『Bioshock: Infinite』にも参加している。
この作品では罪を背負ったカムストックと罪を背負わなかったブッカーという決して交わることのない価値観だった2人が、実は同一人物だったという結末を迎えている。本作における「我々対彼ら」と似たテーマと言えるかもしれない。