ゲーマー日日新聞

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『画太郎ババァタワーバトル』の敬意なきオマージュ ババァは何故罪を問われたのか

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パクリ自体はさしたる問題ではないのだが

集英社は6月5日、『画太郎ババァタワーバトル』(以下『ババァ』)というアプリを配信した。

漫☆画太郎の新刊プロモーションを兼ねたタイトルだったが、内容は『どうぶつタワーバトル』と酷似しており、作者Yuta Yabuzakiが「漫画大好きだけど、2巻発売記念リリース☆みたいなノリでパクられてるのすごく悲しい」と発言することで、問題視する声が高まった。

現在では集英社が「結果的には「どうぶつタワーバトル」の開発者に対する敬意と配慮に欠けた内容のリリースとなってしまい、反省しております。」と謝罪し、ストアから該当アプリを削除することで停止した。

集英社、アプリ「画太郎ババァタワーバトル」の配信を停止 「『どうぶつタワーバトル』への敬意と配慮欠いた」 - ねとらぼ

 

で、このアプリの法的・権利的な諸問題は、既にゲームキャスト誌にまとめられているので、そちらを参照頂きたい。

『どうぶつタワーバトル』をパクった『画太郎ババァタワーバトル』は何が問題だったのか。パクリだらけのアプリ世界で狂っていた作品リスペクト精神

氏が述べるように、そもそもゲームルールやゲームプレイを剽窃すること自体、どこまで問題か追求できるかは微妙だ。

今回はタイトルやイメージの観点から問題されていたが、ゲームプレイそのものをパクる事が問題になったケースは少ない。そもそも、ゲームという文化自体が模倣によって成長した側面もある。

加えて言うと、『ババァ』はパクリばかりで中身が伴わないアプリでもなかった。

独自のババァでデッキを組むシステムや、画太郎ワールドを上手く再現したビジュアルなど、むしろ正当に話を通せば、ゲームファン画太郎ファン問わず評価されたであろう作品である。

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やはりトラックが突っ込まなくては

 

テーマとメカニクスの整合性

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それでも、履き違えてはならないのは、ゲームデザインというアートに求められる対価は決して安くないことだ。

ゲームは大きく分けて、世界観やアートというガワに当たる「テーマ」と、ゲームプレイやルールという心臓に当たる「メカニクス」で出来ている。

そしてゲームデザインを構築する上で最も困難な課題の1つが、このテーマとメカニクスの整合性である。

例えば、ありふれたRPGで主人公は清廉潔白な勇者だと仮定される。だが実際のゲームでは、自分より弱い魔物を縛り上げ、他人の家のタンスを破壊するなど、徹底した搾取の上で成り立っている。テーマとメカニクスの矛盾だ。

 

元になった『どうぶつタワーバトル』も一見して、凄まじく矛盾したテーマを取り扱っているように思える。

なぜジェンガのような対戦ゲームで、どうぶつを使う必要があるのか。そもそも、このどうぶつは生き物か、写真か。何故敵味方のどうぶつを落とすと負けになるのか。

 

だが実際遊んだプレイヤーなら理解できるように、この作品でパンダやゾウが「テーマ」として利用されることは、決して矛盾していない。むしろ極めて重要なエッセンスとなる。

まず、我々はどうぶつがどのような形や大きさをしているか、日常的によく理解している。それに、驚くほど奇妙に、動物の造形はピースとして上手く機能していた。

故に、キリンは上級者こそ使いこなす危険牌で、先5像は誰でも理解できる強力な戦術(現在修正済み)だったわけだ。光輝の大複合神殿(ラムセウム・テンティリス)!

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だが、ババァは別にそうではない。ババァに我々が理解できる合理的な理由付けも、日常的なスキーマもない。画太郎ファンでなければ、まずそもそも何故ババァなのかも理解できないだろう。

 

「とりあえず、ババァで」

ルールやバランスといったメカニクスは、それ自体極めて価値の高い創作物である。加えて、メカニクスとテーマには相応の整合性が求められている。シャム双生児なのである。

 

『ババァ』の最大の問題点はここだ。本来真っ当なゲーム業界の関係者なら、仮にEAの小間使いであろうとも、この整合性を無下には出来ない。

『Fourtnite』も『荒野行動』も同じ『PUBG』という股から生まれながらも、『Fourtnite』は原作のテーマとの整合性を尊重しつつ、独自に両方調整を加え、オリジナルのゲームプレイに昇華した。*1

一方で『荒野行動』はキャッチーなテーマに変えてもメカニクスは変わらない。そこに残るのは、ただの「劣化PUBG」という存在だ。(一応初期はモバイルでプレイ出来る点が唯一性だったけど)

 

彼らが足りていない敬意は、無論作者に連絡をしていないとか、原作の存在を認知できるようにしていないのもさながら、「とりあえず、ババァで」と言わんばかりの、雑なコラージュだ。

『どうぶつタワーバトル』は「どうぶつ」を使う蓋然性があった。テーマとメカニクスには強い結びつきがあった。

だからこそ、空から像が背中から降ってくるから成立する高度な対人ツールであり、現役のプロゲーマーにも愛されるリプレイ性があった。

何も考えずババァに差し替えて成立するゲームではない。

 

元々、『ババァ』自体が、集英社でなく、集英社がミリオンダウトに許諾する形で作った作品であり、作品自体も販促目的で大した予算もなかっただろうが、その無思慮さはマンガ出版社故の驕りにも見える。

この理屈はマンガでも同じだ。ストーリーが同じなら、キャラクターを変えても同じと言うほど安易な創作物ではない。

同じ創作の現場において、長く愛される組織の集英社に、それすら理解されなかったからこそ、Yuta氏は「悲しい」と感じたのかもしれない。

或いは、『Flappy Babaa』なら歓迎されたかもしれない。

 

記事内の『画太郎ババァタワーバトル』の画像は、社畜のよーだ様(@katou443)よりご提供頂きました。ありがとうございます。

*1:因みに『PUBG』側からどちらも訴訟済み