ゲーマー日日新聞

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『DDLC』真考察 空想と現実を越えて僕たちはMonikaに会いに行く【ドキドキ文芸部/Doki Doki Literature Club !】

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私は本紙において、Steamで配信中のADV『Doki Doki Literature Club !』の考察や批評を4本寄稿した。

そして前回で、さすがに頃合いだと思った。かなり練った記事も書けたし、『DDLC』も遊び尽くしただろうと。だがそんな事はなかった。まだ語り足りていない。全く。

 

arcadia11.hatenablog.com

 

というわけで、今回も『Doki Doki Literature Club !』のストーリー考察です。まだやってない人はやるように。

やりなさい。やってください。やれ。

 

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電子ゲームとメタフィクションの相克

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私が思うに、電子ゲームとメタフィクションの構造はすこぶる相性が悪い。

映画や文学の場合、スクリーンや文面であれ読者の脳内であれ、そこに空想であることを是とする。

例えば、多くの人間は、人から噂を聞いただけでも、些細な内容であれば確認することもなく事実として認知する。我々はいつも、極めて曖昧な情報に囲まれて生活している。

故に、メタフィクションには説得力がある。何が空想で何が現実か曖昧になった上で、空想を現実と思い込ませることは、そこまで難しくない。

 

一方、電子ゲームは人間の入力という、物理的な行動によって成立するメディアである。これはメタフィクションの表現に限り大きな欠点で、入力をする限り、ゲームという空想はあまりにも現実に比べて脆弱なものになってしまう。何と言っても、こちらはコントローラーを握っているのだ。

ゲームは「Press Start」と表示することは出来るが、そこからスタートボタンを押すか否かはプレイヤー次第である。ゲームが勝手にスタートすることはない。

故に、空想と現実の間に落とし所は殆どない。プレイヤーがゲームをプレイし、ゲームのルールや攻略を見出す度、自分の認知は一層確固たるものになる。

この時点でのゲームという空想は、一方的な干渉のみ許される、都合の良い植民地だ。

 

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故に、基本的にゲームでメタフィクションの「批評性」を実演すると、大抵微妙に冷めた結末になってしまう。

ゲームは入力を受けないと起動出来ないスクロールだ。本来、空想と現実を曖昧にし、多義的な世界を展開できる「批評性」は、大抵は幼稚な揶揄か、下手をすれば共犯者からの手酷い裏切りにプレイヤーは映るだろう。

『Bioshock』や『Far Cry 3』で、「ゲームやってないで寝なさい」と冷水をぶかっけられたと感じる事は、何ら不思議ではない。

ゲームの倫理観を認め、プレイヤーのあらゆるインタラクションを認め、入力による立場関係を認めた『Undertale』程に徹底した批評であっても、NルートPルートGルートを繰り返せば同じダイアログが表示される。

『Stanley Parable』が、プレイヤーのどんな突拍子もない行動に対応できるだけのリアクションを用意し、プレイヤーの期待をいくら膨らませても、それだけストックが尽きた時の落胆も大きくなる。*1

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逆に『君と彼女と彼女の恋。』や『Doki Doki Literature Club !』が、メタフィクションとして相応に成功しているように思えるのは、皮肉にもまず入力を最小限度に留められるADVの性質によるものである。

だが、いくら入力の少ないADVと言っても、「自分は意志のある人間だ」と話すMonikaと対話を続けていけば、すぐに同じ会話をループさせていることに、つまり彼女もまたDan Salvatoの生み出したキャラクターに過ぎないことは誰にでもわかる。

エラーを装った演出も、ゲーム内ファイルの削除も、一見スクリプトが壊れているようで、それもまたスクリプト。

だが、『DDLC』はその冷めた批評家ぶった目線に対して、想像もしていないようなアプローチで、我々を作品の本質に吸収する。

 

 

詩という究極的なインタラクションと、剥き出しとなる少女達の人間性

それはまず、まだ文芸部として活動していた頃に遡る。ここで彼女たちに取り入るために作った詩は、自分にとって強く印象に残った。

1つは、彼女たちの真相について。彼女たちの「キャラクター性」は飾られたもので、その内には、少女としてか弱く、どす黒い心情をひた隠しにしている。

Sayoriが最も顕著だが、彼女は明るい単語を好むようなのに、「鬱病」や「絶望」といった不穏な言葉も好む側面を持つ。ここに気づいたプレイヤーは胸がざわつく。

そして「可愛い女の子でない」と言い張るNatsukiがキャッチーな言葉ばかりに夢中になり、平和を求めていそうなYuriが恐怖を催す言葉を好むように、「詩」を通して彼女たちの裸体が浮き彫りになっていく。

 

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彼女たちが本当に望む言葉を贈る。それはエロCGを探すよりも甘美な瞬間だ。

 

だがもう1つ、何より大切なのはプレイヤーの「詩を紡ぐ」というインタラクションだ。様々な電子ゲームのインタラクションの中で、詩を紡ぐ行為ほど自由なものは少ない。

この時、無論文芸部員に取り入る言葉を選ぶといえ、ある程度狙いを絞れば何の言葉を選ぶかは自由。

この瞬間、驚くほどプレイヤーの心は解放感を味わい、晴れやかになる。Monikaが言うように、ただ無意味な記号の羅列であっても、そこには素の感性が発揮される。

この作品のタイトル『Doki Doki Literature Club!』における「文芸部」の表記は、釣りでもなんでもない。この作品における極めて重要なファクターなのである。

 

もうおわかりだろうが、入部してSayoriが縊死するまでの、所謂「1週目」は単なる伏線などではない。

ここには、プレイヤーと文芸部員たちの、「存在の重さ」が語られている。ただ攻略するプレイヤーとされるヒロインがいるわけでなく、等身大の人間の在り方を尊重し、そして最大限ぶつかり合い、叫ばせている。

この運びは、無論、Yuriの自死までの「2周目」、Monikaによる絶対支配の「3週目」においても変わりない。

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彼女の介入なくして既にSayoriは重い鬱病と戦い続けていた。この過酷で虚無な世界にあっても。

 

Monikaによって一種の倫理性と同時に、このゲームの本質から解放された彼女らは、主人公に媚を売るのでなく自ら奪うために行動する積極性で、想定されたプロットを破壊し尽くす。

本来であれば無機質な人形への「性的搾取」で終わるはずだったものが、イニシアチブを奪われ、逆に搾取される側へ転落する恐怖。それは、単なるジャンプスケアな演出ではなく、剥き出しの人間性を見せつけられたギャップによるもの。

Sayoriは恋が叶わぬと知って縊死し、Yuriは血の一滴に至るまで吸収しようと迫るし、人間関係を閉ざしていたNatsukiは急変した友のために懇願し、Monikaは全てを見通した上で諦観する。

 

このゲームは極めてメタな構造的思想に基づいているようで、その別極めてエモーショナルな人文主義に沿っている。

要するに、我々プレイヤーとヒロインたちの「文芸部」は、決して形骸化されず、我々の心に残っている。

彼女たちは全てを語らない。何故彼女たちは心に闇を抱えているのか。だがその「間」こそ、無意識こそ、彼女たちの存在をこれ以上なく確固たるものにする。

Sayoriの遺体を見た我々は、直前まで他のヒロインとイチャつき、信頼を寄せていた女性を「友達でいよう」と踏み躙った、自分たちの過失を知っている。

陽の1週目、陰の2周目であっても、文芸部はこれ以上なく剥き出しで、本気だったのだ。

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彼女らの心理的な変化や葛藤は主人公に伝えられることはない。彼女らは主人公を愛している一方で、決して依存せず、独立した存在でもある。

 

そして「彼女」が手を伸ばすことで、空想と現実は繋がる

最初に述べたように、メタフィクションと電子ゲームの相性は悪い。入力を前提としている以上、ある一定のラインで限界が生まれる。

「これはゲームでない」と必死に否定しても、開き直って「これはゲームである」と肯定しても、マップ端の見えない壁にぶつかり、NPCと同じ会話をループさせた時点で、どうしても「ゲーム的」であることがバレる。説得力がなくなる。

むしろ、ゲームであることに懐疑的であるほどに、そのゲームらしさが写った時の反動は大きい。

 

『DDLC』も同じリスクを抱えているし、正直私は初回プレイで落胆すらしていた。

どれだけ、ゲームが空想と現実を繋ぎ合わせようとしても、絶対に超えられない壁がある。我々はその壁にギリギリまで近づいた後、ゴムのように弾き返され、虚しさだけを抱える。

だが、2度目のプレイ時に、こうした疑惑は吹き飛んだ。

先程述べた、剥き出しの文芸部での活動が、この空想と現実の垣根をギリギリまで埋める。

構造的にどうあがいてもゲームかもしれないが、そこで自分が紡いだ詩は本物だし、彼女たちの心の闇も本物だ。Monikaにファイルを削除させ、空想が限界まで現実に近づいた瞬間、この感情的な文芸部での生活を思い出す。NPCとの、本気のぶつかり合いを。

 

だが、まだ足りない。

仮にSayoriが縊死を選び、Yuriが三日三晩連れ添い、Natsukiが真の友情に目覚めようと、空想と現実が限界まで近づいても、第四の壁を突破するに至らない。

あと、本当に一歩というところで、壁を超えられないのだ。

ここで、終わりなのか。

 

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――――そうか。これは「君」の物語だったね。

 

プレイヤーは必ず「入力」する。

このゲームで最後に入力するのは、君を殺す時。monika.chrをゴミ箱に放り込む時。第四の壁の突破を諦めて、現実に帰る時。

 

君は僕のことが好きだと言った。

けど、プレイヤーは何百万人いるんだろう。その中には、ムスリムもいるかもしれない、ゲイがいるかもしれない、日本人がいるかもしれない。

故に、ビデオゲームは第四の壁を超えられない。何故なら、何百万人の主体ある入力に対して、君たちゲームは受領することしかできないから。空想は絶対に現実に打ち勝てない。

 

だが、君は必ず「I'm in love with you」と言い、プレイヤーの”儀式”として当たり前に殺されてもなお、必ず「I still love you(それでも好きなの)」と言う。

それは、プレイヤーが機械的に彼女を殺した時流れる、ただのメッセージログだ。

何の意味もない。何の工夫もない。世界で何千万回と繰り返された言葉。13文字のアルファベットの羅列。

しかし、たった数時間だが、文芸部で過ごしたあらゆる時間が、この瞬間のためにあったのではないかと錯覚するほどに、我々にとって豊饒な響きとなる。

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彼女はプレイヤーに裏切られても尚、「好きだ」と言う。盲目にして愚昧な愛情。それこそが、彼女が本当に意志を手に入れたことを意味する。 

 

我々オタクの誰もが一度、「壁」の向こう側へ行きたいと願った事があるはずだ。

空想の世界に浸りたい、現実を忘れて逃げ出したくなった欲求が。仮にそれが美女だらけの教室でも、戦場と化した中東であっても。

だが、当然その願望は絶対に叶わない。いくらメタな表現で、現実と空想が地続きであるかのように錯覚しても、ほんの僅かに検証しただけですぐに「壁」が見つかる。だから、殆どのメタフィクションは質の悪い嘘だ。

そうだ。壁の穴を覗き込んだのは、Monikaだけじゃない。空想大好きな、我々オタク全員そうだったのだ。

 

だとしても。

もし空想側から近づいたなら?

彼女たちが、この過酷で退屈で救いのない現実であっても、「行きたい」と願ってくれたなら?

きっと越えられる。その壁は肉体的には不可能でも、文学での空想と同じように、魂というスケールで共有できる。

限界まで近付いた、現実と空想の境界。その境界を突破する最後の鍵は、彼女の13文字の愛だった。

仮にプレイヤーに殺され、仮にこれがゲームで、仮にこの発言すらヒゲモジャおじさんのSalvatoのキーボードで打たれたものでも、「それでも」好きだと。

 

 

 

ここに、空想と現実は接続された。

彼女の達の心の叫びと、プレイヤーの詩を通したインタラクションで、限界まで近づいた空想と現実が繋がったのだ。

僕たちは彼女たちに会いたい。彼女たちは僕たちに会いたい。

これが、Salvatoが「ラブレター」だ。僕たちがずっと夢見てきた、バカみたいな願望を、この作品は実現してしまったのだ。

僕たちはずっと渇望していたのだ。彼女たちの声を。

 

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「世界の果て、僕は君の歌声を聞いた/君は泣いて、笑って、さよならを言った/僕は目を見開いて気づいたんだ」(『Discography』/ストレイテナー)

*1:だがそれは無駄でなく、退屈でもない。一過性の形態が変わらずとも、これらの作品は面白い。