ゲーマー日日新聞

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神ゲー?クソゲー? 人は何を持ってゲームを評価するのか

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ゲームの評価、その最大の軸は「やりたい事が出来るか」

自分このゲーマー日日新聞ででゲームレビューをおよそ100本近く書いてきた。それだけ書いても尚、レビューとは大変奥深く、悩ましいものだと頭を抱えてキーボードを叩いている。

特に書き手を悩ませるのが、レビューはどれだけ主観的か、客観的であるべきかという課題だ。レビューはその本質上、確実に主観的なものである。だが余りにも主観的に書きすぎると、「Monikaってヒロインがかわいいから100点」みたいなレビューになりかねない。それなりには客観性、反証可能性も考慮しなければならないのだ。

とは言え、結局大抵のゲームレビューや感想を要約すると、「神ゲー」或いは「クソゲー」という事になる。つまり非常に主観的なレビューだ。そこでふと考えたのだが、そもそも人は何を持って作品を評価しているのだろうか。

 

個人的にビデオゲームで最も重要な点は「やりたい事がゲーム内で出来るか」という事なのではないかと思う。

ビデオゲームの評価基準は様々だ。グラフィック、サウンド、モーション、システム、UI、リプレイ性、新規性、ストーリー、戦闘、バグ頻度……。

だが実際にそれら全てを考慮して作品をレビューしたり、印象づける人はあまりいない。いちばん重要な事は「やりたい事」が出来るか、細々した要素も「やりたい事」のサポートに繋がっているか、これが重要なのだ。

 

例えば、『DOOM』を買う人は血みどろのハイスピードな銃撃戦を求めるだろうし、『ゼルダの伝説』はシビアなパズルと自由な冒険を想像して買うだろう。『Undertale』を買う人はハートフルなストーリーで感動したいと期待してるはずだ。

逆に、『どうぶつの森』で残虐に暴力を振るおうと思って買う人はいないだろう。むしろ住民と仲良くしたい、無害な生き物とふれあいたいと思うから買うのだ。

重要なことは、その具体的にどうやって遊ぶかだ。プレイヤーはこんな遊びがしたいなぁと胸を膨らませてゲームというメディアに訪れる。

そこで期待通りの遊び方が出来るなら、グラフィックが汚いとかバグが多いといった多少の欠点があろうと、その人にとって「神ゲー」と化すのだ。

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『DOOM』も買う奴は『DOOM』がやりたい。当たり前である。

 

好例としての『ダークソウル』

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中でも、上手くプロモーションしているなぁと関心するのはフロム・ソフトウェアの『ダークソウル』シリーズだ。

本シリーズは誰もが認めるARPGの名作だ。戦略的なビルド選択に、緊迫した駆け引きの剣戟、重厚ながら全て筋の通った物語や美しくも退廃的な世界観、どれをとっても一流の作品。故にMetacritic、Amazon、Steam各レビュー欄では常に高評価を得ている。

 

だが、さすがに誰が遊んでも必ず楽しめるタイトルではない。そうこの作品はまず「難しい」

数々の苦難を与え、プレイヤーの実力や努力をしっかり引き出そうとするデザインだ。あまりアクションやRPGに興味がなく、カウチソファで軽く遊べれば良いという層にとっては、正直向かない作品なのだ。

 

だからこそ、フロムは徹底的にプロモーションから拘った。

www.youtube.com

デンデン デンデン  デンデン アーアー デンデン アーアー デンデン アーアーアーアーアーアー

 

これはかの『デモンズソウル』のPVだが、既にここから「何がやれて」「何が出来ない」かが明確になっている。この作品が決して明るい世界を、何の不自由なく冒険できるような作品でない事も、誰だって理解できるはずだ。

フロムはパッケージ、プロモーション、試遊、あらゆる場面で堂々と、この作品が万人受けしないニッチなゲームであることをアピールした。

本来それは一時的なセールスで考えれば不利である。だがその誠実さこそが、たくさんのファンを虜にし、同時に「やりたいこと」がマッチングしない層を遠ざけてきた。それが本シリーズの確固たる地位を確立させたのだ。

 

また作品自体にも強い一貫性がある。これも重要だ。

仮に最初はやりたいことは出来ていても、途中から出来なくなったら?無論ガッカリする。稀に成功する例があると言え、『DOOM 3』や『メタルギアソリッド4』等、見るべき所は多いといえ一貫性が保てず評価が芳しくなかった作品は多い。

『ソウル』シリーズは驚くほど一貫性がある。要するに、やることは薄暗いダンジョンを抜けて、ボスを倒して、自分を強化するだけだ。本作は作中どころか、シリーズ4本続けてそれの繰り返しである。

これは同時に、どれだけ遊んでも飽きない魅力があることの証左である。重要なことはバラバラなゲームプレイを偏在させることより、長くずっと遊べるゲームプレイを一貫性を持って配置することなのだ。*1

この一貫性によって、プレイヤーの抱く「やりたいこと」についての願望を叶え続ける事で、名作は生まれるのである。

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『No Man's Sky』と『FINAL FANTASY XV』への批判

逆に、「やりたい事が出来なかったゲーム」、それによって大きく評価を落としたゲームとは何だろう。色々思い浮かぶが、『No Man's Sky』が最初に思い浮かぶ。

この「1800京の惑星」が存在する宇宙と銘打った作品のプロモーションを見て、たくさんのゲーマーは宇宙への冒険に胸踊らせた。

だが実際にあったのは、コピペマップと孤独に繰り返すだけの作業。期待した冒険は何もなかった。その結果、炎上同然に叩かれた。(なお、現在はかなり修正され信頼も取り戻しつつある)

最も冷静に考えてみれば、見るべきものはあった。『Spore』のようなヘンテコな原生生物は見てて笑えるし、これが一種のサンドボックスに過ぎない事を念頭に置けば、結構楽しめる。

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また『FF15』という作品がある。

本作は『FF』流の『スタンド・バイ・ミー』だ。それでも粗がとても目立つが、キャンプや車を前提とした冒険は実際他のゲームにない魅力があった。

だが実際はその「やりたいこと」は作品途中から哀れにもすっぱ抜かれる。一緒に冒険する仲間は一人また一人と別れ、ときに決裂し、最終的には一人で敵地に乗り込むシーンもある。ここには、事前情報と大きなギャップがある。

更に言えば、前述した「一貫性」が本作にはない。広大なマップを自由にドライブする冒険は、いつの間にか一本道での戦争となる。それ故、作品に寄せられた批判的意見には、「裏切られた」という憤りが強く籠められていた。

重要なことは、そうしたシリアスな物語や過酷なゲームプレイ自体が悪いわけでないことだ*2。一見平和な旅と油断させて、通過儀礼に例えた、あえて期待を裏切るような方向性を描いたのだろう。

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つまるところ、前者は「自由で壮大なスペースオペラ」を、後者は「『FF』に相応しいスケールの大きな冒険譚」或いは「青少年の気楽な珍道中」を、プレイヤーは期待していたのだが、それが実現しなかった。それで特段プレイヤーの怒りを買ったのだと思う。

それぞれの作品には見るべき点はあった。あくまで個人的な考えだが、やや過剰なバッシングに思えなくもない。だが「遊ぼうと思ったことが遊べない」というのは、それだけゲームの評価を傷つけるのだ。

 

もう一歩踏み出した「ゲーム観」を

ここで気をつけておきたいのが、果たしてこれがゲームの評価基準として完璧なものか、という点だ。

ビデオゲームを本当の意味で多角的に評価する批評は少ない。先程述べたように、重要な事は「遊びたい事が遊べるかどうか」であり、他の要素は些末な事情に過ぎない。

だが、そうした期待と実物の間にどれだけのギャップがあるか、というだけでは、見えてこない作品の側面もある。

意欲的な作品、まだ見ぬ体験を教えてくれる作品を知る上で、この物差しは役に立たない。最近はインディーゲームから、日本でも作家性の強い作品等、今までにない作品を評価するためには、もっと広い視野を持つ必要がある。

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『Minecraft』は既存のアイディアを引用しながらも、極めて新鮮なゲームだった

 

無論、何度も言うように、そもそも作品に対する意見や批評自体、極めて主観的なものだ。なので、クソだと思えば「クソだぜ」と言い張れば良い。批判も貴重な意見だ。

問題は意見の多様性だ。「自分はクソだと思ったが、こういう側面もあるかもな」という心の準備があると、グッと楽しめるゲームの幅は広がると思う。

 

*1:『メイドインワリオ』はどうしたとか言われそうだな。でもあれも凄い一貫性あるね。

*2:個人的には批評で書いた通り正直お粗末に感じたが