ゲーマー日日新聞

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SEKIROでチートは「アリ」か?「ナシ」か? 自分の脳内で本格議論してみた!

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 面白い記事を見つけた。

 

automaton-media.com

 

「『SEKIRO』が難しすぎてMODで改造したという記事をゲームライターが発表」

→「それを読んでキレた読者がガチの説教」

→「その説教がミームとしてネットで拡散」

 

 という下りを、面白おかしく記事にしたもの。ゲハブログ辺りに書かせれば、また扇動的なゴシップ記事になるところが、AUTOMATONのIshii Ryukiさんはしっかり要所を抑えててさすがだなと。

 

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タイトル:俺はチートでSEKIROのラスボスをぶっ倒し、満足したぜ。 サブタイトル:No Shame(迫真)

 

 さて、問題はこのチートを使うという行為、「アリ」なのか、「ナシ」なのかという話。

 

 そりゃナシだろ、というのはごもっともな意見。Ishiiさんもニュートラルに書いてるけど、タイトルに「チートでクリアした」とまで入れてるぐらいだし、内心ブチギレだろう。この記事にもチートに批判的な意見が集まっている。

 

 とはいえ、いったんここは冷静になって、このケースの是非をディベートっぽく、より客観的に判断してみようと思う。(因みに競技としてのディベートはもっと手順が細かくて面白いぞ)

 

※混同する人はいないと思うが、マルチプレーのゲームでのチートは絶対的な悪。複数人が共有する戦場で一人だけチートを使う行為は、その他の人間がフェアにゲームをプレイする権利を侵害しているから。ダクソでチートを使うヤカラがいたら、そいつを死ぬまでラトリアで監禁すべき。




チートはナシ派

 最初に、現状有利と思われるチートはナシ派の意見を、筆者の頭の中で集めてみる。

 

 まず真っ先に思い浮かぶのが、「チートでクリアして何が楽しい」という意見。ミームの元ネタにもあるし。

 

 ゲームというのは、本来与えられた課題を自分の技術や発想で突破する、要するにクッソ強いボス相手に何回も死にながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤しようやく突破できた時の喜びと、その過程が楽しいのだ。チートはその過程を全部無意味なものにする。使った相手が最終ボスだけであろうと。

 

 「お前はゲームだけでなく、自分さえ欺いた」と。そりゃそうだよな。

 

 次に挙げられるのが、そもそもチートをやらかした本人がゲームメディアの人間ということ。まして攻略ガイドまで書いてて、「ちゃんと取材をして記事を書く」という責任を放棄していることは完全にアウツ。

 

 

チートはアリ派

 ……え?これ「チートはアリ派」勝てる要素あんのか!?としか思えないので、筆者の脳内で逆張り精神をメラメラと燃やす悪の心がイキリ立たせてみる。

 

 まずチートはアリな理由として、SEKIROが実際難しすぎるのが挙げられるだろう。どれぐらい難しいかというと、「ソウル体で死んでもエリア傾向が黒化した初期『Demon's Souls』」や、「ソウルもロクに手に入らず、後半はほとんど篝火がない『Dark Souls』」並に難しい。

 

 この「難しさ」の基準なんだけど、要するに取れる選択肢が少なさを指して「難しさ」なんだよね。『SEKIRO』を含めて、いろいろな選択肢がある中で、一部の「正解」を選び続けないと、まともなリトライ回数では突破不可能で、何ならキャラを作り直した方が早いという場合さえある。この「難しさ」はあまりポジティブな意味ではない。

 

arcadia11.hatenablog.com

 

 『SEKIRO』であれば、批評でもいくつか挙げたけど、まず従来のRPG要素が削られて武器やレベルを強化して突破という選択肢は完全に消えた。さりとて、忍義手や数珠玉がないと勝負にすらならず、それらを揃えた上でなお「ほぼ完璧」と言えるムーブを再現して、やっと突破できる程度の難易度なのである。

 

 そんな針の糸を通す如き難易度は、確かに達成したときは格別に嬉しいけれど、逆に言えばその時以外の試行錯誤の段階ではハードすぎる。逆に、ああすれば良い、こうすれば良いという、従来シリーズは「マゾゲー」の評に反して取れる選択肢は多かった。

 

 無論いくら難しいからと言って、それがチートを使って良い理由にはならない。そこまで”持っていく”には以下の理由を踏まえた方がよろしかろう。

 

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最初のボスはお蝶さんだった? 南無。

 

 まず、我々PCゲーマーが好む「MOD」という概念について。ソース記事では「チート」と表記されているが、厳密にはこれは「MOD」という、要はビデオゲームの増改築データを使用して難易度を下げている。

 

 これまで『SEKIRO』には死亡時に「死」でなく「草」を出すMODとか、色々遊びを増やすものもあったけど、多くのMODはゲームの独自追加コンテンツか、「ゲームの問題をプレイヤー自ら修正するパッチ」として使われる。英語を日本語に翻訳したり、クソ使いづらいUIを改善したり、FOVや細かいセッティングを追加したりだ。

 

 その中には当然、明らかに理不尽な敵の挙動を変えたり、少なすぎるインベントリの容量を増やしたり、ゲームバランスを故意に変えるMODも、『SEKIRO』に限らず多数のゲームで存在する。

 

 今回、件の記者が使ったのも「時間をゆっくりにする」というもので、少なくともゲームバランス調整系MODの延長線上にあるものと言えよう。

 

 果たして問題は、「MOD」と「チート」の差はどこにあるのかだ。無論これは人やゲームによって異なるだろう。例えば『Fallout』のような自由なRPGなら好きに弄ればよしという人もいるだろうし、『ソニック』や『ロックマン』など硬派なアクションゲームは弄るべきでないと考えるかもしれない。

 

 だが重要なのは、このPCゲームで発達した文化「MOD」は、クリエイターが定めたゲームの在り方をスポイルするものであると同時に、ゲーマーの独立した志向の現れということだ。

 

 家庭用ゲーム機メインのゲーマーには少し伝わりづらいかもしれないが、MOD文化は、「自分が楽しみたいように楽しむ」というPCゲーマーの自由意志が繋いだ独自の文化なのである。

 

 これは言うならば、日本で出てきた料理に七味やコショウをかけまくると「なんて下品な」と怒られる一方、アメリカやイギリスの食卓では、ケチャップやマスタードを「俺が食う料理は、俺が味付けをするんだよ」と言わんばかりにベチャベチャつける、食文化の違いに近いと思う。(あ、当然ですけど双方例外はあるので、ハイ。)

 

 どうあれ、PCゲーマーにはMODという文化があり、「自分で買ったゲームをどう遊ぶも自由」という価値観が育まれた、というのは事実だと思う。何ならそのMOD文化から、今のesports主流タイトルの『DotA』や『CS』が生まれたほどだ。

 

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好きなMODを入れて自分好みのゲームに味付けするのはPCゲームの醍醐味だ

 

 とはいえ、MOD文化の延長線上だけで語れる問題ではないだろう。Modderの中にも「いや、さすがにSEKIROでチートはダメだろ」という人もいるだろうし。

 

 そこで一つ具体例を挙げたい。『SOMA』というホラーゲームがある。これは『amnesia the dark descent』等で知られるFrictional Gamesのタイトルで、メタスコアは84点まで上がるなど高い評価を得た名作だ。

 

 ある日、この作品にとんでもないMODが登場した。「Wuss Mode」という名前のMODで、その効果はなんと「登場する敵キャラクターの全員削除」。いや、これホラーゲームですのよ、ホラーゲームから敵消してどないしますねん。

 

 ところがこのMOD、13000人以上にダウンロードされるほどに大好評。『SOMA』で最も人気のMODの一つとなった。ホラーゲームから敵を抹消する(厳密には機能停止する)という、一見本末転倒なMODがなぜここまで評価されたかは理由がある。

 

 それは、『SOMA』という作品における「敵」は一種のミスリードだからだ。『SOMA』の恐怖は悪意に追われた上での単純な肉体的恐怖ではなく、より根本的な人間の在り方、すなわち・・・ おっと、ネタバレになるのでこれ以上は言えないな。気になる諸賢は各自、このクソ傑作ホラーゲームをSteamなら3000円で買えるので購入しておくように(ダイマ)。

 

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傑作。何も調べずやれ。

 

 ともかく、この『SOMA』における、先が気になるストーリーを知ったり、根本的な恐怖について触れるため、煩わしい敵との追いかけっこを回避できる「Wuss Mode」は好評だったのだ。だがこの話の面白さはここからである。

 

 なんと、公式側がこの「Wuss Mode」の存在を認めたうえで、これと全く同じ「敵抹消モード」をアップデートでゲーム内に実装してしまったのである。まさかの公式チート。当然公式側も色々悩んだそうだが、プレイヤーが敵無しという「味付け」で楽しんでいるのなら、それをサポートするのも大切だろうという。




 そのうえで、『SEKIRO』をクリアできない人がチートを使う行為を考えよう。確かに、チートを使って敵を倒してもその達成感は永遠に得られないことは不幸だ。

 

 だが、『SEKIRO』に限らずフロムは遊びごたえのあるレベルのみならず、美しい世界、哲学的な物語、悲哀ある登場人物もまた醍醐味と言えよう。ゲームに詰まった者には、葦名の絶景さえ拝んではならないと言うのは、少し酷と言えるのではないだろうか。

 

 先ほど述べたように、『SEKIRO』の難易度はさすがに万人向けと言えない。というか、絶対何パーセントかはクリアできないレベルの難易度だ。そのうえで、ゲームを自分たちで味付けする文化、MODによって偽りであろうと飢えた狼の物語を読みたいという願望さえ、他者が否定する権利を持つのだろうか?

 

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あの葦名へ踏み入れない、それは玄人の特権か、あるいは

 

 どうなんですか!Jini裁判長!




結論:やはりチートはナシ

 

 えー、裁判長Jiniが判決を言い渡します。判決・・・・・・・・・・




 有罪!!!!!!!!!




 うん、非常に難しい問題だが、やはり『SEKIRO』をプレイする上ではチートを使うべきでないと思う。

 

 まず、当該記事の「ライターがチートを使った上で、攻略記事を書いた」問題に関しては5000%アウトなので最早議論の余地はないとして、そのうえで私的に楽しむ分でチートはいいのか?という話。

 

 無論、私は行政ではないので、誰かがチートを使ったときに取り締まる権利は持ってないのだが、やはり『SEKIRO』でチートを使うべきではないと思う。その理由は、『SEKIRO』を含めたフロムのこだわりにある。

 

 フロムの作品、とりわけ『Demon's Souls』から一貫してるのは、所謂「複数の難易度」を導入していないことである。『SEKIRO』にはイージーもハードもない。ただ最初から、ベリーハードしか選択肢がないだけである。

 

 これは昨今珍しいことだ。最近では当たり前のように複数の難易度を導入する。「お客さん、とりあえずノーマルあたりにしとくかい?」と進められて、クッッッッッソぬるいゲームを遊ばされるのは日常茶飯事。けど一つ上のハードにすると、今度は些か難しすぎるとか。

 

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自分から難易度を選ばせといて、こういう挑発はちょっとダサいと思うの

 

 この「複数の難易度」によって、自分が最適な難易度がわからず、それを探す手間がかかる、そもそも合ってない難易度を選んだがために最高のエクスペリエンスを得られない等、諸々の難点が考えられるが、本当の問題は製作者の「やる気のなさ」である。

 

 一つの難易度しかないゲームは、当然ながらレベルデザインから細かな難易度調整まで極めて慎重な作業が要求される。原則として誰がプレイしても突破できて、かつ上級者が遊んでも歯ごたえを感じられる難易度。その調整は職人技と言っても良い。

 

 それに対し、「複数の難易度」はプレイヤーに選択肢をゆだねていると言えば聞こえはいいが、実態は「難しさ」を決める責任をプレイヤーに丸投げしているだけだと、筆者は考える。無論、先述の『SOMA』を含めた、戦闘だけでなく演出や物語を含めた総合的なインタラクティブメディアとしての作品では、「複数の難易度」もありだと考えるが。

 

 いずれにせよ、『SEKIRO』は今時珍しい、一つの難易度に絞った作品であり、いくら従来シリーズと比べて難しいといってもそのバランス調整はまさに芸術に域である。すなわち、その是非はどうあれフロムはとてつもない労力と技術を、この「ギリギリ突破できる絶妙な難易度」に費やしたわけで、『SEKIRO』最大の評価点でもあるのだ。

 

 そこへゲームのスピード低下MODを含めた、一般的な「チート」処置はあまりにも無粋と言う他ない。ホットドッグなら好きなだけケチャップをかければ良いが、自ら料亭に予約したうえでオタフクソースを持ち込むのはさすがにNG、そんなところだと思う。

 

 よって、『SEKIRO』にチートはナシである。ただし、MOD文化に代表されるプレイヤーが自由にゲームを味付けする価値観も尊重すべきだし、狂ったように難しいわりに、ズルをしてでも先が見たくなる『SEKIRO』の色気もまたギルティであることは同意だ。

 

 

 

 さて、個人で遊ぶ範囲のチートには、かねてより色々な考えや意見がある。「チート」としてゲームの醍醐味を損なうとする意見、あるいは「MOD」として私的にゲームを改造することはプレイヤーの権利だという意見、いやいや「MOD」でもゲームのバランスいじったらアカンやろという意見。

 

 双方が完全の合意を得ることは、これからのゲーム業界においてもないだろうが、それでもゲームを楽しみたいという考えは誰も変わらないし、どんな楽しみ方があるのか模索することは、ゲームへの批評と併せてもっと掘り下げていきたいところだ。