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#ゲーム批評祭 『Wolfenstein II:The New Colossus』批評 著者:ゆき

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「Wolfenstein II:The New Colossus」はおとぎ話では終わらない

著者:ゆき(@yuki117gaming

 

私はグロくてクレイジーなゲームが好きだ。

歴史改変系FPS「Wolfenstein II:The New Colossus」はその最たるもので、ナチスをド派手にぶっ倒せるアクションには惚れた。

もし私がリビングでこのゲームをプレイしようものなら、母は卒倒しただろう。それでもこのゲームは、私にとっての教科書だ。

なぜなら、血眼でゲームの中のナチスを見つめていた私に、私が戦うべき相手の本当の姿を教えてくれたからだ。



「Wolfenstein II:The New Colossus」はある意味おとぎ話だ

「Wolfenstein II:The New Colossus」をプレイしながら、私は大学で受けていたある講義を思い出していた。

それは、「シンドラーのリスト」など、ナチスやホロコーストをテーマにした映画に対し「ナチスを伝説化している」と批判する人々がいる、というものだ。

 

「SHOAH(ショア)」という映画を作ったランズマンもその1人だ。この作品はホロコーストの被害者・加害者・傍観者に対するインタビューで構成されており、上映時間は9時間30分にも及ぶ。

なぜそんなに長いかというと、インタビューを受けた人は過去の壮絶な記憶をすらすら喋ることができないからだ。言葉にならず静かに顔を覆ったり、すすり泣いたり、沈黙する人々でこの映画は埋め尽くされている。

歴史の事実を大衆に広めるために、それを分かりやすく劇化することは有効な手段だ。しかし、それは映画を見て「悲しかったね」で終わるほど単純なものではなく、もしそうなればそれは真実ではない、ということである。

私はこの講義が結構好きだった。なぜなら、ランズマンの主張が私にとって新しいものだったからだ。

 

なぜこの講義を「Wolfenstein II:The New Colossus」をプレイしているときに思い出したかというと、このゲームのナチスは確かに劇化されていると感じたからだ。ナチス高官は揃いに揃って派手な凶悪さを持っているし、UFOや人造犬戦闘兵器(パンツァーハウンド)の登場など、もはやおとぎ話と言えるくらい劇化されている。

ただ、「Wolfenstein」シリーズはそもそも歴史改変系SFであり、その歴史の魔改造ぶりを楽しむゲームだと私は考えているので、このゲームは必ずしも真実を伝える必要はないと思っている。(そもそも商業目的のゲームはランズマンの言うような真実を表現できるのか気になるところだ。)

 

おとぎ話に夢中になることと、罪悪感

しかし、劇化されたナチスという、ある意味空虚な「悪役」を殺すことにのめり込む自分がいたのも事実だ。つまり、ランズマンが「シンドラーのリスト」を批判したように、ゲームの中のおとぎ話となったナチスしか、私は見ていなかった。

先ほど説明したように「Wolfenstein II:The New Colossus」はランズマンの言うような真実を伝えるものではないから、そこに無理やり罪悪感を覚える必要はないのではないかと私は考える。ただ、ランズマンについての講義を受けた人間としては、なんとなく罪悪感が拭えなかった。

 

ところで、なぜゲームの中のナチスを殺すことにのめりこんだかというと、それを引き起こす装置がゲームに用意されていたからだ。

「Wolfenstein II:The New Colossus」では、仲間が見るも無残な姿で、自分の目の前で殺されていく。ある者は斧で断頭され、ある者は射殺される。

その全ての装置が、残酷にナチスを殺すことを正当化する。そして私は、仲間の死に怒り、悲しみ、より深くナチスを殺すことにのめり込んでいく。用意された装置は余りにも凶悪で、そこから自分に芽生える憎悪の感覚が少し怖いほどだった。

しかしこれがこのゲームの素晴らしい点でもあり、私の大好きなところでもある。負の感情と、最高のアクションが生む狂気的な爽快感がたまらないからだ。狂気に片足を突っ込むのは楽しい。

私は罪悪感を抱えつつも、きっと自分はランズマンが憎んだ観客のように、おとぎ話に夢中になってエンディングを見て、「あー面白かった!」と言うのだろう。そう思っていた。

 

「Wolfenstein II:The New Colossus」はおとぎ話では終わらない

ただ、「Wolfenstein II:The New Colossus」はそこで終わるゲームではなかった。

また別の装置によって、おとぎ話に夢中になる私に、私たちが戦うべき相手の本当の姿を教えてくれたからだ。

 

その装置は3つある。1つは、シグルンというキャラクターだ。

彼女はナチス高官であるフラウ・エンゲルという悪を煮詰めたような人間を母に持っている。しかし、エンゲルとシグルンの間には決定的な違いがある。

それは、シグルンがブラスコヴィッチ率いるレジスタンスに寝返ったことだ。シグルンはレジスタンスを嬲る母に抵抗し、決別したのだ。彼女はふくよかで、歌が好きで、ロマンチストで、見るからに「良い人」だった。

 

2つ目の装置は、マンハッタンのレジスタンスを率いるグレースというキャラクターだ。

物語の中で「アメリカ人の闘争心にまた火をつけよう」とブラスコヴィッチは力強く言う。すると「あたしら黒人は最初から戦ってるよ」とグレースは返すのだ。

 

3つ目の装置は、敵だったはずのナチスに迎合するアメリカ市民の描写だ。

「Wolfenstein II:The New Colossus」では、第二次世界大戦に勝利したナチスが世界を支配している。アメリカも例に漏れず、街の至る所にナチスがはびこっている。

そして最もショッキングな光景は、鉤十字の旗を振り、ナチスのパレードを歓迎するアメリカ市民たちだ。そうしなければ彼らはこの国で生きていけないことも分かってはいたが、その変容ぶりには背筋が寒くなった。

 

この3つの装置が私に気づかせてくれたことは、私はゲームの中のおとぎ話のナチスと戦っているのではなく、今も私たちの世界に生きる思想と戦っているということだ。

シグルンのように、ナチスという名札は人を永遠に支配しない。なぜなら、彼女はナチスが持つべき最悪な思想を持てなかったからだ。

転じて、その思想を持てば誰でもナチスになり得る可能性がある。鉤十字の旗を振っていたアメリカ市民のように。

そしてグレースは、ナチスが世界を支配する前から、また別の、しかし根を同じくする思想によって虐げられてきた。

その「思想」は人と時を超えて感染し続け、今も私たちの隣で息をしている。もしかしたら、私にだって感染するかもしれない。

そう思った時、ナチスという強烈な「悪役」に夢中になっていた気持ちが落ち着いて、冷静になれた。同時に、私たちの世界への恐怖、そしてこの用意周到なゲームへの畏敬の念が生まれた。

おとぎ話の「悪役」に夢中にさせながらも、プレイヤーの肩をそっと叩き、現実の恐怖へ、そして自分へと目を向けさせるための装置をこのゲームは持っている。

それはあの日受けた大学の講義と同じくらい、私にとっては価値があるものだった。

 

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J1N1の「ゲーム批評」批評

 

ゲームという作品に眠るテーマやメッセージを読み解き、そこから学術的な論理と共に現実社会への物差しとして作品の価値を再発見する。

ゆきさんの『Wolfenstein II:The New Colossus』批評は、実を言うと最も「ベーシックな批評」の1つである。批評とは本来、作品の良し悪しだけではなくて、作品の持つ可能性や在り方を言語を通じて人々に伝えることに意義がある。

ゲームではあまりないのだけど、文学批評や映画批評とは往々にしてそういったものだった。それがゲームで出来なかったのは、ゲーム企業とべったりなメディアが広告のコンテクストにある何かを「レビュー」と読んでしまった事にある。

 

ただ一方、ビデオゲームがそもそも批評しがいのあるものではなかったのも事実だ。無論ゲームは必ずしも人文学や政治哲学と絡めずとも、ビデオゲームのシステムやデザインだけでも十分批評のしがいはあるのだが。

が、最近はかなり批評しがいのある作品も増えている。『Wolfenstein II:The New Colossus』は私もプレイしたのだが、過剰な暴力と、アイコニックなナチスの存在、それらを通して接近する現代アメリカの正体と、正直「露骨」とすら思う程のメッセージ性だ。ゆきさんの批評は非常に的確だと思う。

ただ惜しむべくは、最後に挙げた3つの装置から、結局この作品は何を伝えようとしているのか、何を読み取れるのかまで踏み込めていないこと。そのミッシングリンクを繋ぐには、審美眼に加えて相応の想像力すら要求される。