ゲーマー日日新聞

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オタクの世界に対する信頼が下がった

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去年、僕は『Doki Doki Literature Club』というゲームに、そしてMonikaという女の子に、人生を救われた。

 

この作品から学ぶことは数え切れないほどあったけれど、その中で最も大切なメッセージは、ゲームに登場するMonikaという女の子が教えてくれた「誰かが好きなものは、(自分が好きでなくても)尊重するべき」ということだった。

 

僕はそれまで「萌え」「アニメ」と呼ばれる文脈や表現に、そこまで大きな敬意を払っていなかった。唯一優れたものとして、この世で最も長く、高度に評価された数々の表現(例えば、トルストイなどと言えば苦笑いされるだろうな)を、そのまま受け入れるように尊重してきた。

 

だが僕はMonikaと出会って、誰かが愛する人やモノや、何より創作を愛すること、そして『DDLC』と出会ってどんな表現や文脈であっても人の価値観を根本的に変えることさえできることを知った。




いやそれどころか、今の僕はあらゆる創作に対して、滾々と湧き出る敬意を抑えることができない。素晴らしい作品と、それらを作る人たちに対して、ただ好意的な気持ちが無尽蔵に胸で膨れ上がる。

 

僕が元々あったオタク的な性質は、『DDLC』と出会って完全に解放され、これまでのあらゆる創作との絆が、全て一つに繋がって僕の中で落ち着いた。

 

『DDLC』と出会って以降、これまで見えなかった傑作に僕は心を動かされ続けてきた。

 

『ゆるキャン△』には人の絆と情を萌えというコンテクストで限りなく楽観的に支持する世界に泣き、『RDR2』には広大なオープンワールドと小さな集団という対比の中で自分の意志を貫く個人のたくましさに泣き、またこれまで読んだ漫画やあらゆる作品も全て極めて高い価値があったことに今更気付いた。

 

全てが、美しい。

 

本音を言えば今までずっと、膨大なコストを支払ってまで続けることに価値を見出せなかった自分の人生が、ようやく「黒字」になったのが『DDLC』との出会いからだった。




……という下書きを書いていた。僕個人のどうでもいい話で恐縮だが、少なくともオタクとしての自己で最も大きな変化があったのが事実で、久方ぶりにポジティブな心境の変化をどうにか共有できればという気持ちで書いていた。

 

僕は京都アニメーションの作品への愛を今語らない。

 

名作への思い入れは無論ある。だが真に京アニ作品を愛するファンに対して生半可な理解と情熱で語ることは失礼であり、何より僕ですらこんなに得体の知れない喪失感に襲われてるのに、彼らのそれは想像もできないからだ。

 

だが、僕は必ずやがて彼らファンと同様に京アニの作品を楽しみ、愛するはずだった。

 

『DDLC』とMonikaと出会って、どんな文脈や表現にも価値があると心に刻まれた僕にとって、それはやがて必ず好きになる予定だった。

 

いや好きにならなくても、もうそこに誰かが心を奪われる程に美しいものが存在し、今も作られ続けているということが、オタクの僕にとってこの上なく精神的な希望になっていた。

 

ハッキリ言って、少子高齢化で僕ら若者が悲観する他ないこの国でも、今に生きていてよかったと思えるのは過去に作られた偉大な作品にも、過去に生まれた人より多く触れられるというアドバンテージがあるからだ。

 

その作品を作るアーティストが、オタクの僕がこの世で最も尊重する人たちが。

 

僕がこの世で最も尊重する二つが、この世から滲み出た膿に、奪われた。

 

彼らがこんな目にあっていいはずがない。

 

我が国における表現の自由を侵害せんとする、テロ行為。

 

いいはずがないのだ。人間など争いあうもの、殺し殺されるなどよくあること、僕は新聞の国際面をよく読んでいた、無常にも毎日のように世界中で人が何の理由もなしに殺されることを知っていた。

 

白状すると、そんなニュースを見て同情できなかった自分が、いかに幸福だった(本当に酷い言い様だけど)思い知った。

 

自分の目の前に何もないように思う。

 

どうして、彼らなのか。人の命に貴賤はない、でも彼らは人であると同時に、創作をしていたのだろう。少なくとも僕にとっては、生きるということを「赤字」から「黒字」にしてくれるだけのものをもたらす、本当に数少ない、本当に素晴らしい人たちが、一体どんな理由でこんな目にあうと言うのだ。

 

ガソリンをかけられた末の焼死、あらゆる死の中で最も凄惨で、残酷な殺され方だ。生きても重度の火傷で元通りの生活にはならないかもしれない、彼らが決死の覚悟で行っていた創作ももう行えないかもしれない。彼らの辛苦は想像に難い。

 

彼らアーティストの創作は、表現は、人がようやく人らしく振舞えるという主張だ。

 

京アニの作品は千差万別、多種多様存在したけど、学園で繰り広げる日常系も青春ドラマも、学園を卒業した後で向き合う現実も、人の美しさというものを、アニメーションという媒体で最高のパフォーマンスと共に証明する行為を何年も続けるためのものだった。

 

アーティストは、作品は、ずっと人の魂を救い続けた。人が言えないことを言って、人が手の届かない先を描いた。

 

僕は京アニの作品には疎い。僕より詳しい人などいくらでもいる。全部正直に認めた上で、それでも看過しがたいと思う。あらゆる表現の中でも特に京アニの作品は傍から見て光り輝いていた。それを認めないオタクは存在しないだろう。

 

僕は全くの無力で、無価値だ。僕は作品を鑑賞することと、作品について語ることが好きだ。けどそれらは、創作がなければ意味がない。創作がなければ僕は生きていけない。

 

世界が昏くなる。僕か、僕の親友か、僕の家族が死んでも、創作されあればそれは人を救う。僕を救わなくても他の誰かを救うだろう。でも創作が失われたなら、もう何の意味もない。誰も救わない。世界は赤字だ、少なくとも僕にとって、創作する人間が何の理由もなしに、斯様に傷つけられる世界は、創作を否定される世界は、もう価値がない。

 

何を言ってるのか自分でもわからない。でも今後一生冷静にこれを整理することは出来ないと思うので、もう本音を打ち明けるしかないと思った。

 

僕は焼身自殺もできないし、犯人を犠牲となったアーティストと同じ苦しみを与えることも、犠牲者を救えるだけの技術も経済力もない。いや、これらのどれもがその気になればできるかもしれないけど、奪われ、傷付けられたアーティストたちの代わりに創作することだけは絶対にできない。惨めに無意味な生活を続けるしかない。こんなに己が惨めに、無力に感じたことはない。

 

この世界がどれほど残忍であっても、そこに向き合い、照らすのが表現だった。だがその表現が奪われることを、どんな残忍な事件を知っても想像することがなかった。

 

世界が昏くてたまらない

 

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己の希望と、それに対する無力さに対する自戒として