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『天気の子』はセカイ系でないが、だからセカイを変えることができる【映画感想/批評】

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以下、『天気の子』に対するネタバレが含まれます。面白いので劇場公開しているうちにみてくれ。

 

著/J1N1(@J1N1_R1

 

 

『天気の子』はセカイ系ではない

 

セカイ系。

 

その単語を耳に入れた途端、一瞬で脳内に積乱雲の浮かぶ青空と、灰色のコンクリートと一面の緑、そして何よりも制服を着た少年少女(少女は少し野暮ったく、あらゆる苦境に耐えられそうな強さ、あるいは耐えざるを得ない辛さを兼ね備えてる方が良い)を思い浮かべたあなたは、立派な社会人オタク。

 

このセカイ系と呼ばれるスタイルは、『新世紀エヴァンゲリオン』などに端を発すると言われているが、実際のところその定義、そして個別事例は非常に曖昧なので、ここであえて厳密に説明はしないが、しかし我々20代、30代の社会人オタクにとってこうした作品は定期的に摂取せざるを得ない、そういった魅力と中毒性を併せ持っている。

 

無知で、無力なジュブナイルが、「ボク」「キミ」という一人称・二人称の間で生じる絆によって自分たちの存在を確たるものとし、そこから自分たちを否定する世界に対し挑戦・抵抗した結果、勝利したり無残に敗北したりする。




という点で、『天気の子』は、まんまそういうセカイ系ド真ん中、というのは先行した評論家にも指摘されている点だ。

 

小さな名前もない島からやってきた帆高、両親を亡くした陽菜。この限りなく弱く、社会にとって排除されつつある2人が出会うことで、この物語はモメンタムを得る。

 

陽菜には天候を変える力があった。そこで帆高は陽菜の能力で商売をすることを思いつく。陽菜も経済的に助かる上に、何より「生まれて初めて誰かの役に立てた」ということに達成感を覚え、仕事を続ける。

 

しかし、その能力は陽菜自身の命を代償に発動するものだった。一方、東京は異常気象が続き、陽菜は帆高とセカイのために自分を犠牲に天気を変えてしまう。だが残された帆高は彼女の決断を認められず、警察組織に追われながらも約束の鳥居をくぐって彼女を救い、東京の大部分を水没させても陽菜に「自分が生きたいように生きてほしい」として、彼女を救う道を選ぶ。

 

先ほど挙げた「セカイ系」との類似点を指摘せずにはいられない、なるほど確かに新海誠の原点回帰といっても良い作品に仕上がっている。今で言う「エモい」ってやつだ。

 

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しかしながら、新海誠は多様な感想を尊重しつつも

 

『セカイ系を作っている』という意識は、昔から特になかったんです。」

 

とスッパリ、セカイ系との類似点を否定している。

 

実は、『天気の子』をセカイ系というジャンルで納めるには、つまるところ20年前の美少女ゲームやアニメにおける、オタクカルチャーの文脈でノスタルジーに浸るだけの作品ではない。

 

いや、これまでの新海誠を期待して、典型的なセカイ系を期待して本作を視聴するとむしろ「得体のしれない胸のざわつき」に襲われるのだ。

 

アニメーションの限界に挑戦する写実性

 

恐らくその最たる特徴が、新海誠が得意とする写実性である。新海誠はアニメーション映画の中でも随一、何もかもを細かくリアルに描く点で評価されている。

 

『天気の子』で描かれる背景、つまり日本の東京は、圧倒的な手間と情熱をもって細かく描かれている。帆高や陽菜にかけられる作画コストなど、比較にならないほどのコストだ。一瞬で映るとてつもない背景を観て、「もったいない」とさえ感じる。

 

徹底的なロケハンの元で、ビルの窓から葉の葉脈までビッッッッッシリと描く、恐らくアニメーション史上随一であろう写実性を誇る新海誠のこだわりが、所謂セカイ系における「キミとボク」というパースペクティヴにはない、セカイの実在を確たるものにしていることが、『天気の子』と既存のセカイ系との違いに思う。

 

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だが、『天気の子』はそういったレトリックにするにはあまりにも直接的に、ときに過酷に、社会を写実的に描写している。

 

本作で描かれる東京はとてもリアルだ。若者が夢を叶えるラ・ラ・ランドではなくて、社畜として駆り出されるサラリーマンに、ストレスから欲望を吐き出そうとする風俗街、圧倒的な経済格差など、うんざりするようなありのままの東京が描き出される。

 

この描写としての写実性設定としての写実性が両方重なることで、本作はアニメーションの限界に挑戦するかのような、リアリティある東京を描く。

 

本来、実写よりも非現実的なアニメーションで、実写以上に現実的なセカイを構築する試みといえる。

 

特に帆高が陽菜と出会えずホームレスをす序盤の数十分は、見ているだけでも辛い。東京という街全てが、徹底して帆高にとっての迷宮と化すように感じるからだ。

 

彼の写実性、その極めつけは新海誠ならではの、「企業タイアップでは”ないにも関わらず”、むしろ制作側からお願いして実在の企業の商品やブランドを作中に登場させる”逆プロモーション”」があるが、これが一層この「写実性」に磨きをかけている。*1

 

 

www.youtube.com

 

 

こうした何重にも重ねられた、アニメーションの限界に挑戦するかのような写実性、リアリティを追求した結果、『天気の子』を観た我々はどのような印象を抱くだろうか。

 

そう、脳では「これはアニメである」と認識しているはずなのに、その「アニメ」があまりにもリアルで、『天気の子』のセカイが我々のセカイに地続きに接続されているかのような、奇妙な感覚を得るのである。

 

帆高がすする「どん兵衛」も、夏美姉さんと一緒に取材に行った秋葉原の街並みも、全ては映画を見ている我々と地続きの社会だから、何とかこの荒唐無稽とさえいえるセカイ系的な物語にグイグイと感情移入してしまう。

 

だからこそ、我々は帆高と陽菜の絆を、それも最大多数の最大幸福を追求するようなものではなくて、自分たちの価値観のために他を犠牲にすることも厭わない、自己中心的とも、自己確立的とも言える決断を、完全な他人事として割り切ることが難しくなる。

 

だって、そこは我々が良く知る、雑多な池袋のラブホテルで彼女が到達した決断であり、代々木で消えつつある廃ビルのワンフロアで彼が貫いた意志だから。アニメだから、創作だからと、他人事にまで割り切ってしまうのではなくて、そうした徹底した写実的な社会からこの2人の生き方を「若いねぇw」と小馬鹿にできない。彼らの決断を、自分事にまで繋げることができる。

 

とは言え、前提となる筋書は若さがほとばしるような、それこそ新海誠もリスペクトするセカイ系に端を発する0年代のオタク・カルチャーに準ずるものだから、冷静に考えれば大人の我々には「他人事」もいいとこなのだ。作中の圭介のように簡単にあしらえるはずなのだ。「お前ら2人だけでセカイを変えたって?自意識過剰もほどほどにしろ」と。

 

それでも、この作品を見た後に得も言われぬ感情が胸にしこりのように残って、一定時間後には叫びたくなるような、ソラニンの如き『天気の子』の”青さ”は、新海誠チームの膨大なリソースとスキルとセンスによって構築された写実的セカイがなしえる、とんでもない力技と言わざるを得ない。

 

 

新海誠「2000年代初頭、セカイ系とは『社会をすっ飛ばして、個人と個人の間で、世界の運命を変えてしまうもの』と批判の意味も含めて、そんな言われた方をしていました。でもなぜ社会がないのかと考えると、時代として“社会の存在感が薄かった”ということがあったと思うんです。リーマンショックの前だし、3.11の前だし、なんとなく終わりなき日常が続いていくんだろうという空気があった。だからこそ、漫画にしても映画にしても、作り手が本能的に、社会の見え方が薄い作品をつくっていたんだと思います」。

 

一方『天気の子』については、「僕は、本作を“帆高と社会の対立”の映画だと思っていて。個人の願いと、最大多数の幸福のぶつかり合いの話だと思うので、そこに社会は存在している。帆高は大人の社会で働こうともするし、警察も出てくるわけです」と社会と関わっていく物語だと話す。「僕がつくるものがどうしてそうなったかというと、かつてのように、無条件に社会がそのまま存在し続けるとは思えなくなってきているから。そういった感覚があるからこそ、アニメーションの中にも社会を描くことが、どうしても必要になってきているのではないかと思っています」。

 

https://movie.walkerplus.com/news/article/200868/p2/

 

日本社会と相対した新海誠が伝えたかったこと

 

これは新海誠も少し言及していたけれど、「セカイ系」と一言に言っても何故そうした作品がつくられ、同時に受け入れられたかといえば、ちょうどその頃(95年~05年ほど)にはバブル崩壊があり、就職氷河期で若者が苦しむ中、追い打ちをかけるようにリーマンショックが起きた、日本の若者にとってかつてない「暗黒の時代」だったからだ。

 

まだ、アニメや漫画が暇つぶしのエンタメとして割り切る余裕があった頃と比べて、当時の若者にとって身に起きる全てが切実な問題で、従来のユートピア的な英雄譚を受け入れる余裕はなかった。

 

その苦しみに呼応するよう、アニメ・漫画のカルチャーも少しずつ不条理や不合理を受け入れていった。そのうちの一つが「セカイ系」だ。もはや、社会は次の世代を育む少年少女の愛を応援する代わりに、むしろその愛を引き裂き、子を取り上げようとする、そう若者の目には映っていた。

 

だから、仮に『エヴァンゲリオン』ほど優れた作品が他に存在しようと、『エヴァンゲリオン』ほど広く受け入れられた作品は他に存在しないのである。

 

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エヴァはいずれ「平成のアニメ」として歴史の残るだろう

 

あらゆるメディアがそうであるように、必然的にアニメや漫画を代表するポップカルチャーにおいても政治的な文脈が組み込まれるようになった。まだテレビ新聞が圧倒的な権力を持つ時代において、ポップカルチャーこそ真っ先にこの逼迫した時代の深刻さに寄り添い、その深刻さを描いたのである。

 

時代の要請に応じて、その時に生まれたり評価される作品が変化すること自体珍しいことではない。例えば、ベトナム戦争で若者たちが戦争へ駆り立てられたアメリカでは、彼らのアイデンティティを否定する映画が続々と生まれ、評価される「アメリカン・ニューシネマ」と称される作品群が生まれた。日本においても安保闘争時代には、映画も小説も権力に対する懐疑を臆せず主張する作品が生まれたものだ。

 

 

 

では、何故。新海誠は現代に『天気の子』を作ったのだろうか。

 

最大多数の最大幸福を否定し、キミとボクのだけの幸福を肯定したのか。「みんなの役に立てて嬉しい」とはにかむ陽菜を、「天気なんて、狂ったままでいいんだ」と帆高が連れ戻せたのはどうしてか。

 

新海誠は小説版のあとがきでこのような事を書いている。

 

「(『君の名は。』の大ヒットを受けて)僕としては、その人達を怒らせてしまったものの正体はなんだろうと考え続けた半年間だった。そしてその半年間が、『天気の子』の企画書を書いていた期間でもあったのだ。」

 

つまるところ、『天気の子』とは新海誠自身の物語でもある。『君の名は。』でセカイという圧倒的な表面積全てと接触した彼が、好評も批判も全て圧倒的な洪水を受け入れる中、セカイと誰よりも向き合う稀有な経験を得たのだ。(それは、物語の最序盤と終盤、暴風雨の中で揉まれる帆高を思わせる)

 

『天気の子』で描かれる新宿や代々木の街の、とてつもない写実性に圧巻されるのは無理もない。単にスタッフの技術が向上したのもあるだろうけど、根本的に新海誠はセカイというものに対しての理解があったからだ。だから彼は、その美しくも醜いセカイを正面から描くということができた。

 

その上で、帆高と陽菜に、セカイよりも我々を選ばせたというのは本当に興味深い。

 

それほどセカイを理解しておきながら、新海誠は広いセカイよりも、狭いセカイを選んだ。いや理解しているからか。新海誠はついに、やっと、この映画を観ている人たちに向けて「伝える」ことができた。

 

これまでの「晴れ女」が人柱の巫女として皆の犠牲になってきた中、そんなことをしなくてもいい。そのためなら、セカイそのものを敵に回してもいいと主張した。

 

この作品に対して「警察に対する偏見が」という批判があるが、少しその指摘は偏狭だと思う。実は『天気の子』においてセカイの全てが帆高と陽菜に対して敵対的だった。水商売へ誘うキャッチ、陽菜の正体を拡散するマスコミ、SNSにおける無造作で無責任な書き込み。その全てが「天気の子」である陽菜の純粋さを弄んでいる。

 

帆高はそれらをみた上で「この世界なんて元々狂っているんだから」と陽菜に伝える。そしてそれを陽菜が受け入れる。

 

あまりにもリアリティのある、新海誠のメッセージだ。「特別な人間」をどこまでも搾取しようとする社会、少数の犠牲で多数を救おうとする国家、そんなものはクソくらえだ。水没したって構わない。そんなものよりも、自分たちを掴み取れと。

 

バブル崩壊から数十年立経っても、この国の見通しは不透明だ。少子高齢化で先行きは不透明、老後2000万円問題まで持ち上がっているのに、最低賃金さえ中々上がらない。そんな現状を、多くの若者が仕方ないと受け入れる現代に、『君の名は。』で誰よりも「今のセカイ」を知った新海誠が本作を投げた意義は、我々の想像するよりも大きい。

 

リアルに対するフィクションの勝利 政治的正しさの文脈の中で

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ただその上で、もっと踏み込んで批評すると、『天気の子』は僕らオタクという価値集団にとっても、強いエンパワーメント的なメッセージを含む物語だと感じた。

 

先程述べたように、『天気の子』は今若者にとって様々な障害が重なる現代の日本において、『君の名は。』のヒットを通じてリアリティあるセカイを描きつつ、それを帆高・陽菜の絆を対比させた、新海誠の強いメッセージ性のある物語だ。

 

けれど、僕はそこにもう一層のレイヤーを付け足したい。リアルなセカイと若者の対比に加えて、リアルなセカイとフィクショナルな若者の対比、つまり「現実」「空想」の対比としてみたいのである。

 

何度もいうように、本作のセカイは本当にリアルだ。アニメーションならではの表現で、実写では描けないリアルなセカイを描く。暴力的で、排他的で、機械的。だけどそこには高層ビルの合間から見える太陽の美しさだったり、今はもう見捨てられた廃ビルの寂しさも同時に存在している、東京の街。

 

それに対して、登場する人物は結構アニメチックだと思う。悪く言えばウィーブ的というか、早い話「媚びた」感じがする。ツインテがあざとい陽菜ちゃん、初っ端からお色気で始まる夏美さんもそうだけど、個人的には細目でミステリアスなんだけど、実はかなりヘタレな圭介が実は一番グッと来たりする。声の小栗旬もビックリするレベルのはまり役。女性オタクの価値観は知らないけど、正直めっちゃあざといキャラクターだなと思う。立ち位置もすごくおいしいし。

 

けどこういう、実に漫画的ではあるんだけど、同時に漫画だからこそ魅力的だと感じられるキャラクターが、実写以上の説得力があるセカイと対峙して、しかもガッツリと勝ってしまう。夏美さんが警察から巻いて、圭介が帆高を貧しさから救って、東京のはるか上空で陽菜と帆高が手を繋いで落ちていくって描写が、この上なく新海誠として強く主張したい部分じゃないかと思った。

 

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つまり、「アニメでもいいじゃん」ってこと。政治的正しさで避けられがちな表現かもしれない、でも可愛い女の子でいいじゃん。現実にはいない造形かもしれない、でもかっこいい男の子でいいじゃん。そんな奴らがセカイを敵に回して、しかもぶっ飛ばすなら最高に気持ちがいい。

 

このセカイとキャラの対比が、僕は最高に心地よかったし、何と言ってもすごくポリティカルに感じた。今、こういう事を主張したっていいんだと思えた。

 

そりゃそうだ、だって『君の名は。』は邦画史上に残る大ヒットを記録した。もうみんな、アニメなしじゃ生きられない。フィクションにこそ希望を抱く。そういう時代になったんだと、新海誠自身が証明したんだから。

 

 

 

実は全く同じ構造の作品がアメリカにも存在する。ギレルモ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』だ。半魚人の怪物が変人のおばさんと、アメリカ政府を敵に回した上で彼らをボコボコにして海へ還っていくという物語。

 

驚くべきことに、2017年のアカデミー最高賞を受賞した。

 

黒人、同性愛者、その他あらゆるマイノリティを肯定し、向上する映画がノミネートする中で、その頂点が「半魚人」だった。

 

デル・トロ監督はこの答えに対して明確に答えた。彼は昔の、ちょっとバカバカしいコミックが好きだった。未開のアマゾンに半魚人現る!とか、核実験で生まれた怪獣が東京を襲撃!とか。

 

だけどいつも勝利するのは「人間」で、敗北するのは「怪獣」だった。デル・トロは怪獣が好きだった。だから自分が撮る映画では、「怪獣」に勝たせることにした。

 

本来はありえない逆転劇。怪獣が勝ってしまえば物語は成立しない。そりゃそうだ、「現実」が「空想」に負けるなんて、ナチスにアメリカが負けるよりも何倍もありえない。でもデル・トロは現実なんてクソくらえだぜと中指を立てた。怪獣がトランプ信者の軍人をガブッと食いちぎったのである。

 

2000年代に僕らが見ていたものが続いてきて、『天気の子』になって、20代の母親が小学生の女の子を連れて行って見るような映画になっているんです。

だからもっと誇りに思っていいと思うんですよね。自分が好きなものを。

https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1565336106&p=5

 

僕は『天気の子』が新海誠の最高傑作だと思う。

 

構造こそ、新海誠が研究してきた「セカイ系」に似ているものの、『天気の子』は『君の名は。』を通じて彼自身が強く現実の「セカイ」に対する理解を得て、そこから我々が十分に共感できるほどのリアリティを背景にもたせ、その上で若者たちが多数より自分たちを選べるアンセムを贈り、同時にフィクションがリアルに対して悠々と勝利することでオタクカルチャーの反撃まで描いてみせた。

 

既に、これまでの新海誠の作品とは全く違う。いや、現代でこれほどのアニメーションを、これほどの重責をもって描いた作品は未だかつて知らない。

 

単に閉じた世界を相手に、使い古された文法を売るのではなくて。日陰者だったカルチャーを背負って、堂々とセカイの正面に立ち、その価値と美しさを最高の技術とセンスで描く。

 

『天気の子』はセカイ系ではないが、だからセカイを変えることができる傑作なのだ。



*1:ただし今回は前作の成功を受けて企業からのオファーも多数あったという。