ゲーマー日日新聞

ゲームを「ゲーマー目線」で語る独立系ゲーム紙 | 依頼等はメールに | note https://note.mu/j1n1 | 連絡先ak47ava(at)gmail.com

映画『ジョーカー』を絶賛してはいけない理由【評価/感想/レビュー/ネタバレ】 

スポンサーリンク

 

 

 

f:id:arcadia11:20191006175700j:plain

著/J1N1(@J1N1_R1

 

以下、作品に対するネタバレが含まれているので気をつけてください。

 

『ジョーカー』を観た。素晴らしい映画だ。しかしだからこそ、この作品を決して絶賛してはいけない。この作品をただ「狂気に満ちている」等といった凡百の表現で絶賛し、そこからバズを起こすのは本当に危険だと感じたからだ。

現に、映画館が「子供に『ジョーカー』をみせないでください」と異例の警告をしたり、米軍が動くまでの事態となっている。紛れもなく2019年最大の問題作だろう。

 

私はこれまで本紙で無数の作品を評価してきた。それはあくまで、「この作品をより多くの人に知ってほしい」という共有への欲望からだ。

だが、今回は違う。本批評において、私は『ジョーカー』がいかに危険な作品か「警告」するために、本作を絶賛しようと思う。

人が一度関心を持ったものを遠ざけることは絶対に不可能だ。だから流行に身を任せるにせよ、DCファンの情熱に駆られるにせよ、読者諸賢は『ジョーカー』を好きなだけ鑑賞すれば良い。だがその前に、一つ心に置いてほしいものがある。

 

 

アーサーの狂気の中に眠る、普遍的な人間性

『ジョーカー』の物語はいたってシンプルである。「ネタバレすることなど特にない」がある意味ネタバレと言えるかもしれない。

ホアキン・フェニックス扮するアーサーは、ゴッサムシティの貧民街で母親の世話をしながらコメディアンを目指している。しかし彼は突然意味もなく笑い出す癖があり、他者とコミュニケーションが満足に取れない。周囲からも「気色悪い」と距離を取られ、ときには暴行をも受けてきた。

そういったゴッサムの不条理や、自身の過去と接するうちに、アーサーが抱いていた「他人を笑わせたい」という夢が少しずつ歪んでいく。それは、アーサーが突発的に犯してしまったある罪を契機に一転し、アーサーは「ジョーカー」へと成長していく。

こういった内容は、既に公開された2分24秒のトレーラーの中からもまるきり把握できることだ。哀れなピエロが、闇社会を支配するジョーカーへ化ける。何もかも欠けた男が、全て満ちたピエロとなる。そこにはSNS等で話題になる「衝撃のラスト5分間」や「誰も想像しない展開」といったものがなく、非常に淡々としている。

www.youtube.com

 

しかしだからこそ、『ジョーカー』は恐ろしい。何も驚くようなことがない、等身大のアーサーという人間を見つめ続けることで、次第に我々は後にジョーカーとなる人間に対して感情移入してくからだ。

2時間あまりの上映時間のうちおよそ1時間45分はアーサーの物語である。本作は淡々とアーサーの日常を描く。都会の古いアパートで少しボケかけた母親を世話しながら、地下鉄やバスといった貧困層が集まる交通手段を使いながら、売れないコメディアンとしてギリギリの生活を送る。

そうした生活の中で、ジョーカーは徹底的に疎外され続ける。突然笑い出す癖から周囲に「気味悪い」と距離を取られ、痩せこけた肉体からストリートキッズに暴行を受ける。そして何より、コメディアンを目指すアーサーのジョークを誰も笑わない。実際には彼は誰かを「笑わせる」ことがなく、むしろ彼が「笑われる」ばかり。

そういった徹底して社会の爪弾きものであり続けるアーサーの姿は、痛々しいと同時に極めてリアルでもある。他者との接点を作るために、自分が面白いとも思っても居ないことで甲高く笑い続ける姿は、ピエロを演じるコミュ障そのものだ。

もちろん、ここでホアキン・フェニックスの怪演が常に光っていた。アーサーは口下手な男でありだ。そうした彼の複雑な表情と、奇っ怪な行動の中で、アーサーの狂気の中に埋もれた普遍的な人間性を見事に再現している。

こういった丁寧な描写、そしてホアキン・フェニックスの演技によって、正直に白状すると私はこのアーサーの痛々しい日常に感情移入せずにいられなかった。このアーサーという人間の生き方に、不覚にも自身を重ねてしまったのである。

恐らく、同じように感情移入した人間は日本にもアメリカにもいる。経済的に恵まれない、社会に適応できない、周囲と打ち解けられない、他人の感性が理解できない、これらに一つでも当てはまった瞬間、スクリーンの道化が他人事ではなくなってしまう。

「これまで生きてきて、自分が存在しているのかもわからなかった」というアーサーの台詞は、突き刺さる人が多いと思う。

「ジョーカー」と聞いて想像する狂人とは、かけ離れた普遍的な人間性はまさしく、往年の『ダークナイト』等で描かれた「一般市民と同じように悩み、苦しむスーパーヒーロー」と同じ、我々と何も変わらないヴィランの姿だった。

f:id:arcadia11:20191006180139p:plain

アーサーが利用する地下鉄やバスはアメリカ貧困層の象徴でもある



しかし、アーサーが突発的に富裕層の証券マンを(自己防衛のために)射殺してしまった時に、彼の人生は一変する。

そのニュースは新聞やテレビを通じて人々に浸透し、それが肯定的に評価されてしまう。貧困層にとって富裕層は敵であり、市民は当時アーサーが偶然ピエロのメイクをしていたことを真似し、ピエロの仮面を被って各地でデモや暴動を起こすようになるのだ。

次第に、アーサーは「誰かを笑わせる」という自分のコメディアンの夢を叶える道筋を理解する。誰も自分の笑いを理解せず、同時に自分も他人の笑いを理解できなかったが、「気に入らない人間たちが死んだり、苦しむ様」はどんなジョークよりも「ウケる」ことを理解してしまう。

そして遂に、蛹が羽化する。アーサーは自らを苦しめたあらゆる敵に報復し、自身の憎悪と憤怒をテレビを使って拡散する。それに感化された市民は次々に暴動を起こし、ついには彼は「ジョーカー」として彼らの精神的な支柱となるのだ。

このジョーカーに化けてからというものの、光を使った演出が非常にうまい。ジョーカーの凶行の尽くに逆行が入り、あたかもそれは至福の時間のような美しい演出がなされていくのだ。

上映時間のほとんどをアーサーの苦痛に満ちた日々なだけに、彼がジョーカーとなって世界を混沌へ陥れていくカタルシスは尋常ではない。アーサーとしての彼に感情移入した人間ほど、劇中の市民と同様にそのアナーキズムに同調し、爆炎の中でダンスを踊る悪魔の姿に共感するだろう。

そのようにこの作品をたっぷりと楽しんでしまった一部の鑑賞者は、この作品を心底「名作」と思い、SNSで惜しげもない賞賛を拡散するだろう。そう、まさにここが本作最大の恐ろしさである。

 

本作は、ただ単に完成度が高いだけの映画ではない。

 

f:id:arcadia11:20191006180108p:plain

ジョーカーとなることで自己を受容し、完全な自信を取り戻す。

 

映画『ジョーカー』はそれ自体が「ジョーカー的」である

何度も言うように『ジョーカー』は特段革新的な演出も、あっと驚く展開も用意されているわけではない。

ただ丁寧にアーサーが社会から阻害されていく暗黒を描き続け、それが最後にジョーカーとして化けて民衆の怒りを代弁する煽動者へ化けるカタルシスを味わうだけだ。ある意味で、非常に娯楽的な映画と言える。そこには未知の心境も、驚天の開悟もない。

そう、誰でも何となくは『ジョーカー』を楽しめてしまう。アメコミ映画としてブレない娯楽がある。

政治的文脈や歴史的背景に詳しくなくとも、とことんブラッシュアップされた映像と共に「自分を虐げてきた社会を破滅へと追いやる」という欲望を見事に叶えてくれる本作は、多くの人にとって「70点以上」の作品になる。

f:id:arcadia11:20191006180345p:plain

一見して”芸術的な”映画だが、本質はむしろエンターテインメント

 

私が思うに、映画『ジョーカー』はそれ自体が既に「ジョーカー的」なことが、何より恐ろしいと思う。

ジョーカーは、他のヴィランのような超能力を持っているわけではない。だがその代わり、誰もが持ちうる、口に出さない邪悪な心理に忍び寄り、その抑圧された欲望を爆発させる悪のカリスマだ。

故に、市民の悪意が残るうちは彼は絶対に死なない。誰もが潜在的に持つ悪意そのものであり、言語とパフォーマンスを通じて大衆を動かす「ミーム」。

映画『ジョーカー』は、まさにそんなヴィラン・ジョーカーそのものといってもいいエンターテインメントだ。

 

ごく単一の思想信条を元に、自身が何となく抱く不満や不遇を、文句なく「社会に反抗する権利を持つ」大いなる建前を手に入れたジョーカーという指導者と共有する。こんな映画が、つまらないわけがないのである。

この作品に登場するジョーカーの信者たちは一様に白いマスクをかぶり、それは白人至上主義を惹起させる。

映画業界でも政治的多様性が重視される現代アメリカにおいて、最も弱者となりうるのは白人男性であり、そういった人間が声をあげて戦う様はまさに本作の醍醐味である。男女、人種を問わずヒーローが集まって人類の敵と戦う、マーベルの『アベンジャーズ』とは非常に対照的だ。

だがもちろん、ジョーカーが代弁する苦しみは白人男性だけのものではない。はるか遠く離れた島国の、日本人の我々にさえ響く言葉がずっと続く。その言葉やパフォーマンスに、彼がどれほど苦しんだかというストーリーで裏付けすることで、本当に驚くほどジョーカーという人間が正しく思えてくる。

 

実際の所、本作にはジョーカーの行動や理念を否定する人間はほとんど現れない。ジョーカーはずっと正しい存在として、スクリーンの中で生き続ける。仮に警察に捕まり、その先で救急車にぶつかろうと、彼はボロボロの四肢でも笑って踊り続ける。

(厳密にはアーサーが憧れていたコメディアンのマレーが、「結局の所、お前は自分の憐憫で正当化しているだけ。」と致命的な批判を叩きつけるのだが、ジョーカーはそれを絶対的な力で粉砕してしまう。)

こうしたエンターテインメントとして完成された本作を観た人が、突然街中で警察に襲いかかることはなくとも、少なからず肩の荷が下りるのではないだろうか。自分が求めていた答えを誰かに代弁してもらった、そんな気分になるのではないだろうか。

誰もがこっそり持っている悪意を媒介に伝達するミーム、故に私が本作をジョーカー的だと考えている。まさに本作は、「(表立っては認められなくても)多くの人をハッピーにできるコメディ」なのだ。

f:id:arcadia11:20191006180742p:plain

 

この仮説を確信的なものにするシーンが、実は最後の最後に待っている。

ゴッサムが混沌の街へと堕ちた瞬間、場面は真っ白な精神病院へ切り替わる。そしてジョーカーがカウンセラーに対して「That's life(それも人生さ)」と告げる。つまり、ここまでの話全てが、結局のところジョーカーが口で伝えた「お話」に過ぎなかったことになる。

元々、ジョーカーの出自については謎に満ちている。本作に限らずジョーカーは往々にして自身の話で嘘をつくし、本作のあまりに人間的な出自はアメコミファンにとっても「解釈違い」と不愉快だっただろう。だから、そもそもこの話もあくまで「ジョーカーが作ったお話」に過ぎなかったのだ。

このオチは、一見して2時間あまりの本作の冒険を全て「夢オチ」で終わらせてしまっている、一種の手抜きのようにも思える。だが私にはこのオチこそ、トッド・フィリップス監督の「最後の良心」だったのではないかと思う。

つまり、これは警告だったのだ。「どう?これまでアーサーの姿に同情し、ジョーカーの姿に心酔したでしょ?でもそれは全部ジョーカーの口からでまかせ(バッド・ジョーク)に騙されていただけだよ。」と。

面白いことに、この最も肝心とも言える部分は、本作を取り扱うwikipediaのページの「あらすじ」欄で唯一省かれている……。

www.youtube.com

 

本作が危険でも、絶対に見てほしい理由

本作『ジョーカー』がジョーカー的である以上、私は本作を安易に絶賛するべきでないと述べた。

本作には誰もが共感できる人の苦しみと、それを打開する暴力のカタルシスがあり、それらが「ジョーカー」という象徴によって誰にも親しみやすい形で、驚くほど完成度の高いエンターテインメントとして仕上がっているからだ。

だが、同時に私は一人でも多くの人に本作を観てほしいとも思う。なぜなら、結局のところ本作はこの世界の歪を、どんなに「政治的に正しい映画」よりも直截に指摘しているように感じたからだ。

 

私がここ数年、ずっと自分の脳裏から離れない傑作映画を一つ紹介しよう。ティムール・ヴェルメシュ原作の小説『帰ってきたヒトラー』、その映画版である。

この作品はドイツでも問題作となったので覚えている方も多いと思う。タイトルどおり、ヒトラーが何かの偶然で現代に蘇り、「ヒトラーの格好をした変人」のコメディアンとしてネットやテレビで話題となるものの、少しずつ現代ドイツ人の心理にヒトラーの言葉が再び侵食していくという物語だ。

これだけなら単なるコメディとして笑えるのかもしれない。だが本作を読んでいくうちに、ヒトラーの発言、そして振る舞いがあまりにも的を得ていることに気づくだろう。現代ドイツ人が抱く、少子高齢化への不安、移民に対する怒り、富裕層との格差、そういったものを尽く指摘し、的確な言葉で糾弾するヒトラーの発言には、いかに理性や武力をもっても抗うことが難しい、そんなとてつもないミームとしての力。

 

そもそも富も血筋も持たないヒトラーが独裁者となるには、民主主義の手続きが必要不可欠だった。つまるところ、ヒトラーを求めたのは他でもない、ドイツ人だったのである。

ドイツ人が心から抱いている欲望をヒトラーが代弁し、そこに熱狂した大衆がヒトラーを支持した。侵略、差別、隔離、すべて一部の国民が心の底で抱いていた、どす黒い欲望そのものであり、ヒトラーはそれを汲み取っただけに過ぎない。

つい、うっかり、ヒトラーを「かっこいい」と思わせてしまうように、この小説はつくられているのである。

この小説は極めて危険だ。最終的にヒトラーを肯定するようにしか読めなく描かれている。だが作者はこのリスクを承知で、あえてこうヒトラーを描いた。ただ一面的にヒトラーを批判し叩きのめすだけでは、もう読み手の心は動かないと知っていたからだ。

www.youtube.com

 

 

加えて私は、本作に限って映画版の方が気に入っている。小説版は映画公開前に読むほどのファンであり、素晴らしい作品だったが、映画の作り方はそれ以上に巧妙だったのだ。

小説版では復活したヒトラーがナチスを復活させようと思考を巡らせるところで終わるのだが、なんと映画版では「既に小説版『帰ってきたヒトラー』が流行した後のドイツ」を描いており、既にヒトラーが国民の熱望を受けており、完全なスターとなってしまった世界を描いている。*1

原作でヒトラーを「芸人」という前提で助手をしていたサヴァツキという男が、映画版ではヒトラーの人気上昇と共に彼が本物のヒトラーであることに気づく。そして彼を殺すために追い詰める。その中でヒトラーは

「彼らの本質は私と同じだ」「私は人々の一部なのだ」

と言い放つ。その瞬間、「はい、カット!」の声と共に画面は一転し、サヴァツキは役者が演じる偽物だとわかる。そして本物のサヴァツキは、精神病院の白い隔離室に閉じ込められていたのだった……。

 

この改変から伝わるのは、制作陣たちの「焦り」だ。

元々、原作ではヒトラーの主観でコメディ調で描かれてきたのに対し、映画版では本当にヒトラーそっくりの男が徐々にドイツ人のカリスマとなる様子を三人称視点で描き、最後にサヴァツキとの対決において完全な勝利を収めてしまう。

そんな原作が発表された2012年から3年後の2015年、次は映画版が公開された。この当時、ドイツでは移民の増加に伴う移民排斥運動が激化、その中で極右政党である「ドイツのための選択肢」などが台頭するなど、憎悪と憤怒に基づく国民の感情的なムーブメントは加速度的に高まっていたのである。

だからこそ、原作で最後までふんわりと笑いを加えていたのに対して、映画版では明確に釘を刺した。「ヒトラーは”既に蘇っている”。」と。

SNSの発達も伴って、日々人々の苛立ちが募り、そこから自分たちを代弁するカリスマを盲信するようになる中で、もう「コメディ」で済まされるような状態ではないと、映画の制作スタッフは苦渋の思いで本音をぶつけたのではないだろうか。

毒をもって毒を制する、ヒトラーをもってファシズムを制する。

『帰ってきたヒトラー』はまさに劇薬である。ともすれば、読んでいる人間がヒトラーの語る夢の虜になりかねないし、現にそうなった人は何人かいるかもしれない。しかしだからこそ、一面的なファシズム批判などでは到底実現できない、とてつもない説得力をも持っている。

 

したがって、私はあえて『ジョーカー』を傑作と認めようと思う。

エンターテインメントとして、そのジョーカー性のみを傑作として認めるのではない。この映画は間違いなく、現代の社会に必要な「劇薬」だ。

暗雲に満ちた現代社会で苦しむ落伍者が、大衆の怒りと憎しみを糧に悪魔として育つ。そういった人間が誰しも心の底で僅かにでも抱く願望を叶えるエンターテインメント、まさにこの映画それ自体がジョーカー的であることは間違いない。

だからこそ、”批評家”に本作はかなり批判されている。そもそも、昨今のハリウッドで主役に性的・人種的マイノリティを起用する流れは、言論が偏る現代に対するバックラッシュだ。”愚かな大衆”を啓蒙するべきだというハリウッド流れに、本作『ジョーカー』は真っ向から反対している。

だが、大衆をただ”愚かな大衆”として切り捨てる、「正しいだけの映画」では変えられないものもある。建前や偽善では人の心に訴えられない。

だからこそ、今必要なのは「ジョーカー」だ。

混沌と破滅で嗤う、道化師だ。

 

今から11年前、映画『ダークナイト』が公開された。

そこで悪の権化として登場するジョーカーは、演じるヒース・レジャーの精神さえ蝕む程の存在感を発揮した。

だが、その最後において、ジョーカーを倒すのは他ならぬバットマンではなく市民だった。ジョーカーが「文明人など自分が危険になれば平気で野蛮になる」という目論見を、市民たちが打ち砕いたからだ。

バットマンはジョーカーに言う。「ゴッサムの人は証明した。彼らは良心を信じる善意の人々だとな」と。

 

そして現在。ジョーカーを誕生に市民たちが熱狂する映画、『ジョーカー』が公開されてしまった。

本作のような傑作が現代に蘇った事は映画ファンとして喜ばしいが、それと同時に本当に悲しいことでもあるように私は思う。

 

(追記:もし本気でジョーカーが監督が言ったように「本作に政治的意図はありません」というメッセージを鵜呑みにしているなら、ジョーカーの言うことを「本気」にすることの意味を冷静に考えおなしてみてください。

少なくとも「政治的意図がある」と言って政治的な作品を作る人間はまずいません。詐欺師が自分が儲ける意図があると言わないように。)

*1:まるきり、ミゲル・セルバンデスの『ドン・キホーテ』後編のような