『XCOM2』の魅力を通して
最近『XCOM2』をプレイしている。
『XCOM』というのは古典的なターンベースのストラテジーゲームで、わかりやすく言うなら『インディペンデンス・デイ』風味の『ファイアーエムブレム』のようなゲームである。
既に地球は宇宙人により侵略され、政府は宇宙人の傀儡政権に支配されている。そんな中、XCOMと呼ばれるレジスタンスとして立ち上がり、地球に蔓延る宇宙人共を殲滅したり、その死体を売買して金を稼いだり、しまいに宇宙人の技術で超人化するワクワクするゲームだ。
それにしても、このゲームは本当に面白い。既に2周目だが、全く飽きもなく遊べるのは、このゲームはとても感情移入しやすく、また選択に頭を悩ませるからだと思う。
そう、このゲームは大変シビアなのだ。無尽蔵に跋扈するエイリアン相手に、我々は最大歩兵6人しか行動できず、そして何より、彼らが死ねば二度と帰ってこないのだ。
そして彼らの死は、極めて大きなペナルティとなる。兵士は育てなければ使い物にならず、死んだ兵士を新兵で補填すれば、次から益々厳しくなるとジリ貧は必至。しかも、これまで活躍してくれたエースが死ねば、プレイヤーの精神的にも苦しいものがある。
『XCOM 2』におけるシビアな「罰」はこれだけでない。まずXCOMチームは極めて財政上苦しく、収入を得る機会は少ないが、逆に使う機会はいくらでもある。
装備を強化するにも、武器と防具どちらを作るか、偵察兵とライフル兵どちらを優先するか選択する必要性に迫られる。いざとなれば資材を売却すればいいが、そうすると研究や建築に資材が回らなくなる。
そして何より、『XCOM2』で厳しいのは時間だ。地球を制圧したエイリアンは何らかの計画を進行しており、これが完成すると人類は完全に滅ぶ。その前に効率よく敵陣地を粉砕し、限られた時間の中で研究や開発を進めていく。
『XCOM2』では兵士が死亡すると慰霊碑に名前が刻まれる。
『XCOM2』では、このように人員、資金、時間とあらゆるリソースが限られている。故にプレイヤーはこうしたリソースをいかに活用するか頭を悩ませる。そこに本作の面白さが、いや、抜本的にゲームそのものの面白さがあると感じた。
即ち、「失うもの」があって、始めてゲームは面白くなるのだと。
何故、「失うもの」があると面白くなるのか?
とは言え、『XCOM 2』は世界的な評判の高さに反し、国内ではそこまで高くない。
これに限らず、基本的にストラテジーゲームは今ひとつ日本では受けにくい。基本的に「難しい」「複雑」というイメージがついて回る。
「失うもの」があるゲームの代表格は、リソース管理がゲームメカニクスに組み込まれやすいRTSやTD等のストラテジーゲームだが、それ以外にもある。
今や日本を代表するARPGとなった『ダークソウル』、物語面では『Lisa: the painful』や『The Elder Scroll』等が、そしてマルチプレーとして『DayZ』ある。
当然国内産のゲームでも、任天堂の『ファイアーエムブレム』、古典的RPG『ロマシング・サガ』も挙げるべきだろう。
やはり、優れた国産ゲームもある中で、基本的に海外におけるゲーム産業の方が、こうした「喪失」の概念に理解があると思う。
実際、『XCOM』にせよ『ダークソウル』にせよ、日本で散見されるレビューの一行目には、「難しいが、コアゲーマーなら面白い」と書いてあるのだ。
だがハッキリ言って、「喪失」の概念を「難しさ」に直結するのはあまりに安直な発想だ。むしろ、根本的に「喪失」によってゲームのメカニクスに多様性が増し、初心者でも無理なく遊べるとさえ思う。
ダークソウルは確かに難しいが、慣れる程にその懐深さに気づくゲームでもある。
「失うもの」があることで面白くなる点はいくつかある。
1つは、最も根本的な理由だが、取捨選択の概念をゲームに取り入れられる点だ。「失うものがある」ということは、それだけ何かを「手に入れる」ことの重要性にも繋がる。
例えば、某国民的RPGは、村民の家屋に押し入り、タンスからツボまで全部ひっくり返して根こそぎ物資を奪い取れるゲームだ。ここに取捨選択などなく、あるものを全て「取る」だけだ。
まず、ゲームで「するほどに得」という要素は好ましくない。仮に家屋を漁って得られるものが5ゴールドでも、漁らなければ0ゴールドであり、この場合プレイヤーは「現実世界の手間」と「ゲーム世界の仮想通貨」を天秤にかけてしまう。これは極めて不合理と言わざるをえない。
そもそも、「失うもの」があるゲームでも、その分「得るもの」をどこかに配置すればよい。双方向的な機会を均等に配置し、プレイヤーは不毛な「作業」の代わりに、戦略的判断で以てゲームをプレイする。
かように、「失うもの」があることで、ゲームデザインは二方向に調整できる。効率よくリソースを「獲得」し、「損失」は極力避ける。
これにより、プレイヤーは無駄に「運」や「作業」といった不毛なものに巻き込まれず、ストレートにプレイヤーの技術は評価・反映される。
実際、財は消費されず溜め込むことで、ますます流れが硬直化するものだ
もう一つ、ゲームで「失うもの」があることで、よりプレイヤーの体験としての印象深いものになるというメリットがある。
『ファイアーエムブレム』等は特に有名だろう。自分が手塩にかけて育て、ストーリー上でも印象深い仲間が、自分の判断ミスによって永遠に失われてしまう。
その哀しみを知るからこそ、何が何でも全員を生かそうとプレイヤーは頭を捻り、全員で生還出来た時の喜びを求める。その瞬間こそ『FE』の醍醐味とすら言える。
これは単なるゲームプレイのみならず、物語に大きく組み込まれる作品も多い。2015年発売の『Lisa: the painful』は、小粒だが私の大好きなゲームの一つだ。
舞台は世紀末、ハゲ親父の主人公ブラッドはヤク中で、出て来る敵もロクでなしばかり。ギャングに襲われ身ぐるみ剥がれたり、化物に仲間をパーマデスさせられたり、とにかく散々な目にあるRPGだ。
タイトル通り「painful」なRPGなのだが、ズタズタになりながらも自分の子供を守ろうと前に進む主人公の姿と、暴力にまみれた世界で何とか生き抜こうとする姿に、私はとても共感できた。
思うに、殆どのゲームでプレイヤーは「万能感」を味わう。倒されるための敵がいて、回収されるための宝箱がある。その一方で、喪失と機会を両方作り出すことで、プレイヤーはリアリティのある経験を得られるのだ。
救いようのない世界観と、救いようのないゲームプレイが見事に噛み合った名作
これからは「失うもの」のあるゲームの時代
昨今のゲームには、キャラクター、アイテム、機会、様々な「失う」機会が設けられるようになった。
流行になった『Minecraft』や『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』でさえ、部分的にアイテムを喪失する機会が発生する程である。
重要なことは、まずロストするメカニクスがあるからと言って、即座に「難しい」「複雑」といたゲームとは限らないことだ。
最初に例に上げた『XCOM』や『ダークソウル』は一般的に難しいゲームと言われているし、確かに少しシビアなレベルデザインだ。
それでも、遊ぶほどに様々な解法があり、プレイヤーの自由な発想や素直な努力が反映されるよう作られてることに気づくだろう。
無論作品によってクオリティは異なるものの、ロストという概念によって、ゲームデザインの方向性にバラエティが産まれ、更にプレイヤーにも印象深い体験を送ることが可能となるのだ。
一方、単に「失うもの」があるだけでは、大半のプレイヤーは理不尽に感じるかもしれない。そうした概念を搭載するには、より厳格なバランス調整が問われるのだ。
まずゲームバランスにおいても、「失うもの」がある分、それらを補填する機会が必要だ。『ダークソウル』はロストする分、死ななければレベリングなど無しでもクリアできるし、失ったソウルを回収する手段もある。
また、「失うもの」をゲームのメカニクスに落とし込む手段も重要だ。例えば『XCOM2』では兵士が死ぬと、その兵士の名前が慰霊碑に刻まれる。兵士の死を身近に感じさせると同時に、厳しい戦争の中兵士が死ぬことも覚悟せねばならないと納得させられる。
世界観や物語と上手く混ぜ合わせる努力も必要だろう。『ダークソウル』での死は確かに手痛いものだが、主人公は「不死者」として世界をさまよう存在で、物語で何度でも死ぬことを暗示された存在だ。
現代では超大作ゲームからインディーズまで、幅広いゲームの在り方が認められると同時に、プレイヤーにとっても良質な作品が探しやすい時代でもある。
「失うもの」があるゲームは、決してただ難しいかったり理不尽なだけでなく、優れたゲームもたくさんあると、私は考えている。