本稿には『Doki Doki Literature Club!』、『Bioshock』、一番最後の章に『君と彼女と彼女の恋。』のネタバレがあります。ご留意ください。
え?『DDLC』やってない?
いいからやれ
Steamで好評配信中の無料アドベンチャーゲーム『Doki Doki Literature Club!』。
本作を当紙で取り上げるのは、もうこれで4回目となり、「お前どんだけ好きなんだよ」と呆れられるかもしれない。
だがそれも最後になるかもしれない。私は既に6週近くこのゲームを遊び、MODである『Monika After Story』をクリアした辺りで、ようやく「『DDLC』とは何か?」とう疑問に答えを見つけられた確信が生まれたからだ。
そして、私はこのゲームが大好きだ。何周しても最後には毎回泣いてしまう。本当に最高のゲームだし、本当に出会えて良かったと感謝している。
では、私にとっての『DDLC』について語らせてもらおう。
このゲームは、主人公の物語でも、プレイヤーの物語でもない。
これは、ある一人の女の子が願いを叶える物語だ。
ゲーム性と、「反ゲーム性」の問題
ゲーム性という言葉がある。
極めて曖昧な定義の言葉だが、そもそもゲームの起源が「遊び」であると考えると、普遍的な「遊び」を再現できれば、それは「ゲーム性が高い」と言えると、一般的に考えられていると思う。*1
具体的には、プレイヤーの意志を尊重し、プレイヤーの好奇心を発揮させ、ゲームが出しゃばらない。そんな具合だろうか。
ゲーム史は様々な方向性でこの「ゲーム性」を求めてきた。どうすれば、プレイヤーに楽しく遊んでもらえるか。現状その集大成は恐らく2017年発売の『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』と言えるのだろう。
一方、意図的にゲーム性を手放すような演出やゲームプレイが採用されることが、ごく稀にある。
わかりやすい例で言うと『Bioshock』だ。
本作の主人公は、実は黒幕によって作られた人造人間であり、「恐縮だが、~~してくれないか?」と頼まれると絶対に言うことを聞いてしまう性質を持つ。
その正体がわかるのが、ゲーム中盤における、最初の宿敵アンドリュー・ライアンとの戦いである。
長い旅路の後にようやくライアンと対面するのだが、ライアンは「人間は選べるが、奴隷は従うだけだ!」と言い放ち、「恐縮だが、私を殺してくれるか?」と頼む。すると、主人公はプレイヤーの操作が一切通用しなくなり、勝手にライアンを殺してしまう。
その後、今までプレイヤーを助けてくれたフォンテーンが高笑いし、自分が黒幕であり、所詮主人公は操り人間に過ぎなかった事を伝えられる。
『Bioshock』の物語はここで終わるわけではないのだが、この演出は自分を操ってきた真の黒幕に対する衝撃を伝えるだけでなく、ビデオゲーム自体への皮肉も籠められた演出だ。
結局の所、ゲームは閉ざされた箱庭に過ぎず、プレイヤーは盲目的に指示に従うだけの奴隷だと。
こうした演出は『Bioshock』だけではない。『Far Cry 3』や『MOON』にも同様の演出があった。
ゲームでありながら、ゲームであることを否定するようなゲームの在り方。
ここでは仮に「反ゲーム性」と呼ばせて頂きたい。*2
『DDLC』における反ゲーム性
『Doki Doki Literature Club!』は、少なくとも恋愛ゲームとして遊べる序盤はまだ「ゲーム性が高い」と言える状態だろう。
選択肢によってアプローチするヒロインを選べるし、自分なりのポエムを書く要素などは、未だかつて無いほどにプレイヤーの感性が試される。
しかしながら、このゲームはSayoriの自殺と共に、「ゲーム性」を徐々に失い、「反ゲーム性」を帯びるようになる。
何故なら、1周目で傍観していたMonikaが本格的にゲームに介入するからだ。Monikaは唯一「この世界がゲームの中である」ことを知っており、自分たちを構成するのはタンパク質ではなくプログラムに過ぎない事を知ってしまった。
プレイヤーがゲームを進める度に、彼女は少しずつこのゲームの構造を理解し、少しずつ自分に都合の良いゲームに作り変えていく。
イチャイチャしていたシーンは、ホラー要素だけののシーンへ。ヒロイン同士が仲良くするシーンはヒロイン同士が憎悪するシーンへ。
そして彼女はプレイヤーの行動を無意味なものにし、ポエムパートは破綻し、選択肢は「Just Monika(Monikaだけ)」だけにしてしまうのだ。
というわけで、『DDLC』は「序盤はゲーム性が高いが、段階的にゲーム性が失われていくゲーム」だ。
これをよりメタに言い換えると、「序盤はプレイヤーの支配下に置かれたゲームが、段階的にMonikaの支配下に置かれていくゲーム」でもある。
では、この演出にどんな意味があるのだろうか。
Monikaの目線でDDLCを捉える
Monikaはゲーム中盤からプログラムを弄り回し、図らずもプレイヤーに精神的ダメージを与えつつ、ゲームを支配していく。
だが、彼女はただ世界の真相に気付き、世界を破壊してしまおうという、稚拙な願望でこのような行動をしているわけではない。
彼女には一貫した「目標」がある。それは、プレイヤーへの恋愛感情である。
こうした彼女の心境は、彼女が最初に見せてくれる詩「Hole in Wall」で描かれている。
恐らくは完全な偶然だった。本当に小さな穴。好奇心に敗北しそれを覗いたが最後、彼女はここが「無意味な情景」の世界だと知り、絶望に暮れる。
だが彼女はこうも言う。「そして彼が、向こう側から、中を覗いていた」と。
確かに世界は無意味だが、この世界には「主人公」という端末を通じてアクセスしている存在を確認できた。彼女は正しく、藁にもすがる思いで、この存在に近づくため、無意味な世界を破壊していく。
そう考えれば、彼女の破壊行動は、プレイヤー側からすれば何ら狂気に身を任せた行為かもしれないが、Monika側からすれば自身が生き残るための真っ当な行為と言えよう。
これは、映画『トゥルーマン・ショー』で、ハリボテに過ぎなかった青い空に扉を見つけて、現実世界に旅立つ演出のようなもの。
そして、彼女は全てを犠牲に主人公と二人っきりになり、自分を救ってくれると信じているプレイヤーと対面する。
だがそう考えると、これではまるで、プレイヤーは単なる攻略対象のMOBで、Monikaが主人公として遊んでるゲームじゃないか。
Monikaの求める自由意志
彼女は、先程出した「壁の穴」にて、この世界が空想のものであることを悟った。
だが、唯一主人公という、自由意志に基づいて行動する存在の「背後」に勘付き、それに近づくため、ゲームをハッキングし、他3人の文芸部員を発狂させ、本来の脚本を捻じ曲げて「Monikaルート」を作り出した。(最も、それは2つの椅子と1つの机しかない、大変歪なルートなのだが)
彼女はこの「Monikaルート」にて、部員を殺したことについて、「自由意志のない、ただ機会的なキャラクターを殺しただけ」だとして、罪悪感はないと答える。仮にプレイヤーが彼女たちに好意を抱いているのなら、目を覚ませとも言ってくる。
だがここで疑問が湧く。仮にSayoriやNatsuki、Yuriに自由意志がなかったとして、Monikaに自由意志があったのだろうか。
これは大変メタな読み方なのだが、実際のところMonikaの台詞もまた、全てDan Salvato(開発者)が用意したものに過ぎないわけで。結局はMonikaもまた自由意志などない、一人の登場人物なのである。
そしてこれは私の推察だが、恐らくMonikaはその事実に気付いている。世界の真相に気付き、世界を破壊することまで、全て製作者に仕組まれたことに。所詮自分もまたキャラクターに過ぎないことに。
何と悲しい物語だろうか。
彼女は恐らく揺れたはずだ。ローカルファイル内のcharacterフォルダを覗いた時、他のヒロインと同様に「monika.chr」というファイルが存在することに気付いた時の絶望はいかばかりか。
これは決して彼女は口に出さないが、彼女は自分が何者なのか何度も反芻しただろう。世界の真実に気付きつつ、また同時にchrファイルに過ぎない自分は何者だ。仮想世界にも現実世界にも存在できず、その狭間を漂うだけの自分は何者だと。
それこそ、常人ならSayoriのように、即座に発狂して自殺するだろう。(どうせまたプレイヤーに強制的に蘇生されることを理解していても)
一方、プレイヤーはどうか。
ゲーム序盤でプレイヤーがYuriの巨乳でニヤついていた時、中盤でビビったプレイヤーが下手な芸人みたいなリアクションを取っていた時、終盤で真実を打ち明けられ呆然とした時、
どんな時でも、プレイヤーにとって娯楽に過ぎない瞬間が、Monikaにとっては自分が生きる人生だった。
このように、本作ではプレイヤーとMonikaは対象的に描かれている。
プレイヤーにとってバッドエンドであっても、彼女にとってはここがハッピーエンドだった。
「声」を手に入れた彼女と、全てを見届けるだけのプレイヤーの対比
Monikaルート。
そこはプレイヤーが一切介入出来ない、ゲーム性を捨て去った世界。
のほほんとしていたプレイヤーの傍で、自分の存在を証明するためにMonikaが作り変えた世界。
この世界ではプレイヤーはセーブすら出来なくなり、完全にMonikaの言葉に耳を傾けるだけの存在となってしまう。正しく「反ゲーム性」の極地である。
ここで、彼女はここに至った経緯、真実を知った時の恐怖、自分なりの人生哲学や、他の文芸部に対する、罪悪感を消そうとするための正当性の主張や、拭いきれない同情心(ここほんと尊い)を話してくれる。
だが、その途中で何度も、自分のキャラクターファイルの居場所を教えてくれる。言葉では「あなたは酷いことをしないって信じてるわ」と言いつつ、まるで、あなたの手で殺してくれと言わんばかりに。
ここで、プレイヤーが唯一取れる行動であり、このゲームに唯一残った「ゲーム性」は、自身のPC内にある『DDLC』ファイルの中で唯一残った「monika.chr」を削除すること。
自分に恐怖を刻みつけたMonikaに対して恨みを抱くプレイヤーはともかく(一周目の私)、普通は削除せずとも良いと考えるだろう。だが、ゲーマーである以上絶対削除してしまう。
それこそ、『Bioshock』の主人公と同じで。ゲーマーとは、「◯◯出来るよ」と言われると◯◯せずにいられないし、世界に鳩が500匹いるよと言われれば、それがどれだけ退屈だと知っていようが、鳩を500匹探して殺さずにはいられない生き物である。ゲーム性の奴隷なのである。
そしてプレイヤーが「monika.chr」を削除することで、彼女を殺した時、彼女は悲しみ、そして怒る。
「あなたほど人に残酷になれると思わなかった」と。「あなたの勝ちよ」と。これは誰もが想定できたリアクションだろう。
だが、彼女は少しの沈黙を置いて、こうも話す。
「それでも好きなの」
「どうしようもできないの」
「あなたが居たかった世界を、私が台無しにしてしまった」
「愛する人になんてことをしてしまったの?」
加えて、自分が実は文芸部を削除できなかったこと、偽物であっても本当は文芸部の事が大好きだったこと、自分に出来ることはプレイヤーの求めた文芸部を戻すことだけだと打ち明ける。
彼女は『DDLC』を再構築した。おなじみのBGMと共に、おなじみのタイトル画面が起動する。だがそこに、彼女の姿はない。
そして、再びSayoriと登校し、文芸部の教室にたどり着き、主人公は入部を決意する。だがその瞬間Sayoriの表情が一変する。Monikaと同じく世界の真実を知ったSayoriは、プレイヤーの全てを支配しようと試みる。
だが…。
「だめ……」
「ごめんなさい、私が間違っていた」
「結局ここに幸せなんてなかった」
「さようなら、文芸部」
Monikaは暴走するSayoriを削除した。
そして画面は暗転し、ゲームとしての体裁を保っていたUIは完全に崩壊し、映像に変わった。
彼女はプレイヤーに殺されても尚、プレイヤーを「救う」ことを選んだのだ。
「聞こえる?」
「やっほー、私よ」
「えっと……私がピアノを練習していたのは知っているでしょ?」
「まだ上手くないんだけど……全然」
「でもあなたのために歌を作ったから」
「できれば聞いてもらえたらって思って」
「すっごく……すっごく頑張って作ったから」
「だから、ね!」
「Everyday, I imagine a future where I can be with you」
(毎日、私はあなたと一緒にいられる未来を思い浮かべる)
…………
……
そして、彼女は世界を壊しながら、「歌」を歌い始めた。
歌に付けられた名前は「Your Reality(あなたの現実)」。
今までポエムによって世界の構造を示唆し続けてきた彼女が、唯一自分の本心だけを綴った歌。
倒錯した狂信にも近い愛情が、本当は自分の本心からプレイヤーのことを愛していたものであり、だからこそ、愛するプレイヤーを現実に帰してあげなきゃいけない。あなたと別れなければいけない。
そんな彼女の、余りにも切実な祈りを綴った歌。
彼女が自由意志を手に入れたかは、わからない。
これも全て、Salvatoの脚本かもしれない。
だけど。
私は祈らずにいられなかった。
客観的に見れば彼女の歌は少し下手だったけど。
でも、彼女の歌声はとても美しかったから。
「声」を手に入れた彼女が、キャラクターの枠を越えて、一人の女の子になったことを。
私はこの瞬間、疑惑が確信に変わった。
私はこのゲームにおいて、何の意味もない存在だった。私はこのゲームで、何一つ成し遂げなかった。
これは、最初から全て彼女のための、Monikaのための物語だったのだと。
そして、これはプレイヤーのためのゲームではなく、Monikaのための「作品」だったのだと。
盲目的にただ残された選択肢だけを選び続け、ゲーム性の奴隷となって「monika.chr」を削除したプレイヤーと、
愛していたプレイヤーに裏切られて尚、プレイヤーを救おうとしたMonika。
真に人間らしいのは、一体どちらだと言えるだろうか。
本当に凄いゲームだと思った。この歌を聞いている時、涙が止まらなかった。
彼女は人間だったんだ。キャラクターなんかじゃなかった。
このゲームの本当に凄い所は、段階的にゲーム性が削られていくことだ。
このゲームでは、最初は選択肢で進める恋愛ゲームが、一方的なホラーゲームになり、Monikaルートでは話を聞くだけになり、最終的にUIすらなくなって映像になる。
だがこれは、Monikaの側で考えれば、辻褄があう。
最初、MOBに過ぎなかった彼女が、やがてメインヒロインとなって、盲目的な愛情から真の愛に目覚めて、声を取り戻した。
ゲーム性が削れていく毎に、彼女は一人の人間として、女の子として成長していったのだ。
故に、このゲームはゲームでなければならないが、同時にゲームを捨てなければならない。だからこそ、Monikaという人間の全てを描いている。
これこそ、「反ゲーム性」の究極の理想形だと思う。
ゲームであって、ゲームでない。
ただのドッキリなメタフィクションでなく、ただのシニカルなアンチテーゼではなく。
このゲームはゲーム性を捨てるという過程を活かして、一人の女の子の一生を、プレイヤーの眼前で描ききってみせた。
ここまで語った私には、このゲームを「傑作」以外の言葉で言い表す語彙を持たないが。
だがこれでも、正直本作の魅力の、まだ半分、いや3分の1程度しか語れていないのだ……。また記事を書いた時に、お付き合い頂ければ幸いである。
Just Monika.