「ビデオゲーム」と「政治」。
一見して全く無関係な2つのファクターは、ここ数年で急速に接近しつつある。
何故政治とビデオゲームが出会ったのか、今後ビデオゲームはどうなるのか。作品、コミュニティ、市場、そして他のメディア。様々な視点を通して、両者の関係性について考察する。
- 2018年度のE3で見られたゲーム業界の政治的関心の高まり
- 「gamergate」を中心とするビデオゲームにおける政治闘争の発生
- 現在進行系のハリウッドにおけるバックラッシュ
- ビデオゲームと政治は今後どう関わっていくべきか?
2018年度のE3で見られたゲーム業界の政治的関心の高まり
ビデオゲーム。筆者である私が半生かけて付き合いのあるメディアだ。
時に現実逃避のための桃源郷、時に人と競うための闘技場。
そんなユートピアに主張や思想に対する微かな熱意を感じ取ったのは、今年6月に開催された国際的ゲーム祭典「E3」の出展をチェックしていた時だ。
まず、海外におけるビデオゲームのジェンダー問題を取り扱うメディア「FEMINIST FREQUENCY」が、2015年からE3における主人公の性別について調査した資料を元に、グラフで比較したので確認して欲しい。*1
ご覧の通り、全体的に少しずつ男性主人公が減少し、女性・両性選択の主人公が増加することで、ジェンダーの比率としては毎年少しずつ五分五分に近づいている。
また資料が異なるため掲載していないが、2015年以前から着実にこの傾向は強まっている。
ZERO COUNTSによると、2012年度のE3での女性主人公は2%、2013年度で6%、そして2014年度で9%と、2015年時点で既に相当数のジェンダーフリーな作品が発表されている。*2
また、2014年には後述するゲーム業界におけるジェンダー議論「gamergate」が発生しており、こうしたコミュニティの変化も抑えておくべきであろう。
だが2018年において本当に驚いたのは、単純な「数」が多いという点ではなかった。
今年は何より、「期待の新作」においても積極的に女性主人公、選択可主人公が増えており、
更には「待望のシリーズ」においてさえ、こうしたジェンダーフリーの方向に「変化」しているのだ。
何年何十年とシリーズが続く名作シリーズでさえ、こうしたジェンダーレスな志向を取り入れ、変化している事こそ、「政治の接近」を感じずにいられなかったのが、率直な意見である。
以下は特に印象に残った作品のリストである。
・主な「女性主人公」「性選択可能主人公」のAAA級新作
『A Plague Tale: Innocence』(Asobo Studio)
『Anthem』(Bioware)
『Cyberpunk 2077』(CD Projekt)
『CONTROL』(Remedy Entertainment)
・主な「女性主人公」「性選択可能主人公」に変化したAAA級シリーズ
『The Last of Us PARTⅡ』(Nautydog)
『Gears 5』(The Coalition)
『Darksiders III』(Gunfire Games)
『Surge 2』(Deck13)
『Assasin's Creed: Odyssey』(UBIsoft)
『Battlefield V』(DICE)*3
『Wolfenstein Yangblood』(Bethesda Softworks)
このように、ある程度ビデオゲームに関心のある方なら誰もが知るような大作シリーズそして新作が、「性」という重要なファクターを切り替えそれを高く掲げた事こそ、ビデオゲーム業界の政治的関心の向上を認める証左ではないだろうか。
We treat history with great respect, as we did before with Battlefield 1942 and Battlefield 1. With that, we also wanted to empower player choice, diversity and inclusion, so our players can fully customize the way that they want their soldiers look and play.
— #Battlefield V (@Battlefield) May 23, 2018
BFV公式アカウント「 歴史修正主義の意図はない、だがプレイヤーの多様性や包摂性は重視する。」その2つは両立できるものなのか?
さて、ここでもう少し2018年度のE3におけるジェンダーを掘り下げよう。一つ興味深いのが、「FEMINIST FREQUENCY」にも指摘されたような、そもそも男性女性どちらともつかぬ主人公やLGBTの存在だ。
例えば『Ori and the Will of the Wisps』や『TUNIC』のような人間ではない主人公や、男性の胸部を肥大化させたりできるカートゥーン調のアクション『Rapture Rejects』などが挙げられる。
更に、E3で最も注目されているであろう大作の一つ、『The Last of Us PARTⅡ』では女性主人公のエリーが新たな女性キャラクターとキスをするシーンが話題となった。
また『Cyberpunk 2077』も「同性愛」を認めたロマンスを実装する予定だ。
このように、単に女性の立場向上のみならず、そもそも既存の「性」に囚われないゲームも、トレンドとして増えつつある。
追記しておくと、『The Last of Us』に前作から関わっていたNeil Druckmann氏は後述するゲームを取り巻く政治的運動Gamergateにも積極的な発言を行っている。
Another must watch video by @femfreq for anyone who makes or cares about videogames. http://t.co/rKf41PNy93
— Neil Druckmann (@Neil_Druckmann) August 27, 2014
ゲーム業界における典型的ラディカル・フェミニストの動画を「絶対に観ろ」と紹介するNeil Druckmann。彼は『TLoU』のディレクターであり、ノーティドッグ社の副社長であり、イスラエル出身アメリカ人でもある。
更に、ここまでジェンダーの話題を主に取り扱ったが、実際にE3で見られた変化は、性別だけでなく人種や民族、身体的特徴にも及んでいる。
Ubisoftの『Beyond Good and Evil 2』は、女性が主人公の伝統的なアドベンチャーゲームだが、14年ぶりとなる新作で外見的にわかりやすくアフリカ系としての特徴を外見に反映させた。
『Battlefield V』は女性兵士の存在も驚きを呼んだが、よく見るとその兵士は義手を嵌めている。
またフロムの新作『Sekiro: Shadows Die Twice』では主人公はからくり仕掛けの「忍義手」を駆使して戦う作品として、キャラクターたちは身体的障害を負っている。
また昨今では、ビデオゲームに欠かせなかった「暴力」をメカニクスから外した作品が注目されている。
『A Plague Tale: Innocence』は明らかに無力と思える主人公を操作して、ペスト菌に汚染されたフランスから脱出する作品と思わる。
アメコミ『スパイダーマン』を原点とする『Marvel's SPIDER-MAN』は無論不殺が前提だ。
そして小島秀夫監督の『DEATH STRANDING』はひたすら荷物を運ぶゲームプレイを見せるという、驚きのパフォーマンスに出た。
「gamergate」を中心とするビデオゲームにおける政治闘争の発生
こうしたゲーム市場における大きな潮流の変化には、一体どのような背景が存在するのか。
それには、ビデオゲームを買うゲーマー、そして評価するメディアの影響は計り知れない。
興味深い事にこうした変化が生まれた2014年前後において、ゲーム史において初といえる、コミュニティレベルでの大規模な政治的な議論、「gamergate」が発生している。
そこで、ここからはコミュニティレベルから、ビデオゲームと政治について追っていこうと思う。
(以下、gamergateに関する記述は、話題が話題なために、参考にした資料共々、万人が納得する中立的・客観的と断言できる内容であると保証できない点をご了承いただきたい。)
それは2014年9月に起きた。
事の発端は、Zoey Quinnと呼ばれる女性ゲーム開発者が、海外大手メディアKotakuの記者との親密な関係にあるために、Quinn氏の作品がメディアにより好意的に取り上げられている、という噂が4chanに立ったこと。
無論これをKotakuは否定した*4が、Quinn氏とKotakuに対する非難が止むことはなく、時に個人情報を伴った脅迫メッセージまで寄せられた。それと同時に、批判に対してカウンターとなる批判を重ねる声も増加。
米国内外問わずあらゆるメディアで両者意見をぶつかりあう「gamergate」と呼ばれるムーブメントの始まりだった。
この運動は4年経過した今現在も尚続いており、世界中のゲーム開発者やyoutuberなど無数のアルファ発信者が言及し、ゲーム史においてかつてない「政治闘争」へ発展したのである。
渦中にあるフェミニストゲーマーのマスコット
しかし何故、ただ2人の人間を巡るスキャンダルが、ここまで巨大なムーブメントへ発展したのか。
まず前提として、既存のゲームメディアに対しての不満は、一部ゲーマーの中で強く根付いていた点が挙げられる。日本でも見られるように、ゲーム企業とゲームメディアの癒着を疑問視する見方が4chan等の掲示板では根強く存在した。
それが顕著となったのが、同年9月に発見された「GameJournoPros」なる、ゲームジャーナリストによるメールグループの露呈だった。
IGN、Kotaku、Polygonら大手メディアの記者や編集が名を連ね、中では「今後どのようなゲームを語るか」「どんなトレンドをプッシュするか」といった内容まで議論しており、メディア側が徒党を組んで世論を誘導しているという見方もあった。*5
つまるところ、gamergate議論の争点の一つは、「ゲーマー vs メディア(及び一部ゲーム企業)」という、ゲームに関する報道を問う議論だったのだ。
流出したGameJournoProsのメール。gamergateを利用してQuinnの作品を注目させようと主張する等、事件は本当に政治闘争と化していた。
もう一つの争点が、ゲーム業界が女性やLGBTに対して不寛容な環境であるという指摘と、それに対する反論だった。
特に、フェミニストたちがよく挙げるゲーム業界の問題点は、
・主に男性顧客に偏った(暴力的な)ゲームジャンル
・男性に偏った開発者
・ビデオゲームにおける女性の著しい性的な表現
・イベント等における女性コンパニオンの存在
等である。
特に非難されやすい初期のTomb Raider。近年の続編ではむしろ女性側からも高く評価されている。
近年では、こうしたジェンダーフリーを訴える言説が強まるに連れ(時に脅迫的な表現も混ざりながら)、ゲーム企業側も対応を変えたり、作品そのものを修正・延期・変更するケースも出てきた。
例えば、『OVERWATCH』のトレーサー、日本でも『ストリートファイターV』のレインボー・ミカや春麗、『DEAD OR ALIVE Xtreme 3』も、表現変更を余儀なくされた。
更には、かの任天堂でさえ『トモダチコレクション』が同性愛を前提にしていないという理由で批判を受けた時、「作品でいかなる社会的主張も行うことは意図していない」と表明したが、非難が募るに連れ謝罪、次回作のゲームデザインを考え直すとまで説明した。
『トモダチコレクション』騒動では英国の人気コメディアンもジョン・オリバーも言及する事態に。
そして興味深い事に、こうしたフェミニスト的な立場に基づく業界・作品批判、同時にLGBTや女性に対して寛容であるインディーズ作品への称揚を積極的に行ってきたのが、先述したGameJournoProsに登録した一部大手メディア(Joysticq、Kotaku、IGN等)だった。
実は、Quinn氏が批判に晒される中、彼女はPatreonを通じて複数のゲームジャーナリストから寄付を受け取っている事も明らかにされている。
そして彼女と同時に、gamergaterによって非難されるKotakuは、「セクシーなビデオゲーム」に対して誰よりも批判的なメディアであり、度々作品毎に懐疑的な記事を発表していた。*6
こうして、本来別の議論であったはずの、フェミニズムとジャーナリズムの問題は過激化する闘争の中で同じの論点となり、そこに対して批判的であるgamergaterと、擁護するアンチgamergaterという陣営に分かれているのがgamergateなのである。
その一方、gamergate側もまた過激かつ悪質な批判を行い、時には全く無関係のメディアや女性にまで完全な噂で攻撃対象となっていた。
中には、騒ぎに乗じてヘイトクライム同然の行為に手を染める人間もおり、それによってメディア側が萎縮したのは言うまでもない。それ以前に、個人的な人格攻撃も多く、到底「議論」から程遠いものになっていた。
だが少なからず、ビデオゲームというメディアが、よりパブリックな在り方としてどうあるべきなのか考える、貴重な機会となったことも事実だ。
現在進行系のハリウッドにおけるバックラッシュ
とは言え、このgamergateに関する話、どこかで聞いた覚えがないだろうか。
実際、この構図は現代のトランプ政権下におけるアメリカの政治議論に、限りなく性質が近い。
また同時に、北米ビデオゲーム市場と人材的・文化的・立地的に少なからず縁のあるハリウッドにおいても、同じ政治的な流れは生まれている。そこを少し確認しよう。
例えば、本年度アカデミー作品賞を受賞した『シェイプ・オブ・ウォーター』のギレルモ・デル・トロ監督は、インタビューでこう話している。
「現代と似た社会情勢を抱える62年を舞台にして"おとぎ話"を語る。(現代が)憎しみに溢れた時代だからこそ、愛の物語を描くことの重要さが増していくんだ。1962年という舞台は、現在のアメリカの鏡。でも現代を舞台にしたら、政治討論が始まってしまう。(観客は分断される)だから「昔むかし…」とおとぎ話にすれば、みんな聞いてくれる、というわけなんだ。
即ちこれが、明確に政治的な情勢を反映した上での作品である、ということをデル・トロ監督自ら語ったことになる。最低でもポリティカルなテーマが含まれている、という点はかの小島秀夫氏も認めている。*7
実際、作中のほとんどのシーンは強烈なマッチョイズムに支配された政府の人間に対し、女性、同性愛者、黒人、半魚人らが総意で彼に反抗し、殺害するまでを描いた政治的闘争の物語であった。
これだけではない。作品賞受賞作10本のうち、『レディバード』、『ゲットアウト』、『君の名前で僕を呼んで』、『ペンタゴン・ペーパーズ』、『スリービルボード』らが明確に、現代アメリカにおいてリベラル側が特に強調する政治的アジェンダを取り扱った作品となっているのだ。
『ペンタゴン・ペーパーズ』のスピルバーグ監督などは、「政治的な環境や歴史的な物語を語らなくてはいけない、そういう使命を感じることがある」とまで断言している程。
『ペンタゴン・ペーパーズ』新聞社が政府による圧力や商業的な制約を克服して不正を暴露するまでの実話を描いた作品だ。
興味深い点は、映画製作サイドが政治的関心を高めると同時に、これらを揃って表彰され、また興行的にも成功している点である。つまり、批評家や業界人、またこれらを鑑賞する観客サイドさえ、(比較的リベラルな)政治的関心の高まりが見られるのだ。
中でも、アカデミー賞授賞式において主演女優賞を勝ち取ったマクドーマンドのスピーチは強烈なものだった。映画のスタッフや制作スタッフの中に、一定数の有色人種や女性を採用しなければ契約しないという強烈な条項「inclusion rider」を打ち出したからである。
だがこれも、米国におけて凄まじい勢いで規模を拡大し、時に過激な手段も厭わないトランプ支持のオルタナ右翼に対する「バックラッシュ」と見るのが妥当であり、まさに業界を越えた闘争なのである。
そして時には、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのジェームズ・ガン監督がSNSでの10年前の発言から解雇されるなど、やはりここでも過激な牽制で作品の芽が摘まれることもある、という点にも触れねばなるまい。
inclusion rider、日本語訳で包摂条項。主に演者が出演条項に付加する形で要求する。
無論、北米ゲーム業界におけるgamergateとハリウッドの政治的関心はまた別のものであろう。だが、先鋭化する現代欧米の政治事情において、最早あらゆる文化や表現が政治的な影響から免れることが難しくなりつつあるのも事実だ。
それはここ、日本においてもまた例外でない。先述したように、『SFV』や『DOAX3』は日本のゲームだが海外の批判により表現変更を余儀なくされた。
今、世界的な進出を目論んでいる日本のゲームパブリッシャーにとって、それだけ政治的正しさ(ポリティカルコレクトネス)は無視できない存在だ。そうなれば、当然ゲームの作品の中にも、何か政治的な影響が見られる事も増えるだろう。
(尤も、日本のビデオゲームは政治的正しさという点で初期から様々な施策を行っていた。)
ビデオゲームと政治は今後どう関わっていくべきか?
さて、ここまでビデオゲームと政治について様々な視点で論じてきたが、読んでいる方には少なからず「政治に関わって欲しくない」「論争の火種になるだけ」と考える方もいるかもしれない。
それはご尤もな考えだ。私自身、自分の故郷が罵詈雑言の砲火で丸焼けになるのは見たくない。だがあらゆるメディアは時代場所を問わず常に政治と密接な関わりを保ってきたのが事実だ。
先程述べた、欧米の映像業界を取り巻く、政治的な映画への注目は言うに及ばず。彼らも古くは大国アメリカへの不信感からアメリカン・ニューシネマが唸りを上げ、歴史に残る傑作を輩出させたのだ。音楽やアート、文学もまた例外ではない。
政治的な意図が一切ない作品、ただ影響を受けただけの作品、政治を含めた人間の心理や背景を描いた作品、政治的な思想を土台に作り上げた作品と、深度も方策も別物であれ、ともかく政治とメディアは極めて密な関係にあった。
かの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を撮ったジョージ・ミラー監督は自身の作品におけるフェミニズム的な志向についてこう語っている。
本作における〈フェミニズム〉はストーリー上の必然なのでであって、先に〈フェミニズム〉ありきで、そこに無理やりストーリーを付け加えて映画を作ったわけではない。〈フェミニズム〉はストーリーの構造から生まれてきたものなんだ。
一方ビデオゲームは、他の媒体と比べて大きく政治と距離を取っていた。単に子供向けの販促故に、というだけでなく、技術的な探求、ポップカルチャーの側面、市場との距離感、そういったものも原因であろう。
だが、その認識は徐々に揺らぎつつある。良いか悪いかはともかく、市場的にも文化的にも耳目を集めている現代のビデオゲームは、今後ますます政治と密接なものになるだろう。少なくとも私はそう考えている。
その動機がNeil DuckmannやEA社のような直接的な政治ムーブメントであったり、商業的な目論見であったり、単純な配慮であったり、そもそも政治的の作品を作りたかったりと、多種多様なものであろうと。
今回紹介したケースは、いずれも政治の中で特にジェンダー(性)が中心であったが、母数として圧倒的に多い女性に対する意識変化が起きれば、やがて民族的・身体的・宗教的・文化的なマイノリティに対する趣向の変化も起きるだろう。
そして、我々はこうした変化に対して、危機感以上の期待感を抱いても良いと思う。
何故なら「常識への懐疑」、それこそがビデオゲームを進歩させてきたからだ。
敵を殺すのが当たり前なら、敵を愛するRPGがあっても良い、そうして『moon』や『Undertale』が生まれた。
かの任天堂の『スマッシュブラザーズ』も既存の格闘ゲームに対してのアンチテーゼであり*8、『スプラトゥーン』も既存のシューターのノウハウを継承しつつ新たなアプローチを見出した。
常識を疑うことでゲームは進歩した。それが政治的な潮流や目線によるものであっても、新しい風であることに変わりはない。
表現を萎縮させる一部言動は看過できないが、もう少し冷静な議論ができるなら、この刺激を新たなゲームへの可能性と待望することも出来ないだろうか。
いずれにせよ、メディア、ディベロッパー、パブリッシャー、コミュニティ、全てがこの議論に近いうち直面することは、避けられないであろう。
youtu.be海外の人気youtubeチャンネル「Extra Credits」曰く「全てのメディアは政治的であり不可避」。(英語版)
最後に、かの『メタルギア』シリーズで知られる小島秀夫監督を紹介して、この記事を締めくくろう。
ハードウェアの制約から生まれた『メタルギア』は、ステルス・ゲームというジャンルをつくったが、そこには一貫して「反戦・反核」というメッセージがある。私の親の世代は、第2次世界大戦中に生まれている。私たちの世代は子供のころから直に戦争体験を聞いて育った。身の回りの映画や小説などからも、戦争や核兵器の悲惨さや不条理を学んだ。ゲームというメディアが本来的に「戦い」や「競争」と相性がいいのだとしても、いやだからこそ、「反戦・反核」を訴えることはできるし、伝えることが必要だと思っていた。その思いがステルス・ゲームを産んだのだ。
・・・実はもうちっとだけ続くんじゃ。
次回は「現代」でなく「過去」において、ビデオゲームがどのように政治的な影響を受け、政治的なメッセージを包摂していたか特集する予定。乞うご期待!
また記事執筆にあたって、校正や編集において協力して頂いたK氏とI氏には、感謝を捧げたい。
そうそう、よかったらこの記事と合わせて自分の意見を発信してみてほしい。いくつか拾って後の記事の参考に役立てるぞ。
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*1:Gender Breakdown of Games Featured at E3 2018 — Feminist Frequency
*2:E3 2014: Genre/Gender Breakdown | Zero Counts
*3:厳密には『BF1』時点のDLC、『BF4』のキャンペーンに女性兵は登場済み
*4:ただし両者が恋愛関係であることは認めた
*5:https://www.4gamer.net/games/036/G003691/20141107133/
*6:https://kotaku.com/the-real-problem-with-that-controversial-sexy-video-ga-478120280
*7:3ページ目)小島秀夫が観た『シェイプ・オブ・ウォーター』 | 文春オンライン