先日から公開を開始した #ゲーム批評祭 優秀作品!
第二弾は週末リキオさん(@anthracene1410)の、『クラッシュ・バンディクー2』の批評です。
赤ダイヤのY座標から滲み出るズッコケ感 週末リキオ
才色兼備、クラスで人気者の彼女が、実は重度の赤面症。
優しく運動神経もいい部活の先輩が、家に帰ると甘えん坊なズボラ男。
欠点は、時としてその人の魅力を倍増させる。
サグラダ・ファミリアは、未完成だからこそ人を惹きつけるのかもしれない。
『クラッシュ・バンディクー2』
筆者はこのゲームをこよなく愛している。
「宇宙初の奥スクロールアクションゲーム!」という景気の良いキャッチコピーとともに世に売り出され、ミリオンセラーを叩き出した、ノーティードッグを先駆けとして開発されたプレイステーションゲーム群『クラッシュ・バンディクーシリーズ』。
以下では『クラッシュバンディクー』と表記することにする。
クラッシュバンディクーは、ゲーム界を沸かせた文句なしの名作群である。実際ゲーマーの間での評価も高い。
だが、いつの間にか日本での新作は期待されなくなり、『キングダムハーツ』や『モンスターハンター』のような長らく愛される存在になることは叶わなかった。過去の名作と呼ばれるにとどまってしまったのだ。
なぜクラッシュバンディクーはいまいちみんなに愛されなかったのか。
筆者はその理由を、以下のように分析する。
全体的にダサいから。
これに尽きる。
まず第一にキャラクターがダサい。
シリーズ通しての主人公である哺乳類「クラッシュ」の時点で両腕が両頬から生えているという斬新な骨格をしている上、なぜか常に斜視気味で全然可愛くない。オレンジ色の体色はどぎつすぎて一瞬そういうバグかと思った。
主人公以外のキャラクターも基本可愛くない。というか顔色が悪い。貧血気味のやつしかいない。
様々なキャラクターを操作できるレースゲーム『クラッシュ・バンディクー レーシング』なるものもあるが、プレイアブルキャラクターの9割が気色悪いため、ほぼ不可避的に豆大福みたいな顔のシロクマばかり使っていた。
また、キャラクターから目を離してみても、色々ダサい。
本シリーズは『スーパーマリオブラザーズ』のようにアクションステージを順々にこなしていくゲームシステムなのだが、そのステージ名がいちいちダサい。
「ぶらさがりん ちかどう」
「ボワボワ さぎょういん」
「カリブのうみは まっかっか」
「むじゅうりょくで ゴ〜」
冗談みたいな名前しかない。「ゴー」ではなく「ゴ〜」である。ネーミングセンスが完全に近所のダジャレおじさんのそれだ。和訳の問題ではあるが。
あと、サウンド周りもダサい。被弾時に呻き声っぽいSEが流れるが、それがネット界隈では「どう聞いても「パリパリゴリラ」と言ってるようにしか聞こえない」とネタにされている。さっき聞き返してみたが、思っていた以上にパリパリゴリラだった。
他にも、ステージクリア時にクラッシュがやる意味不明なダンスも「意味不明だ」と有名である。
冗長になってしまったが、以上のようにダサい点を列挙するときりがない。クラッシュバンディクーのこういう点を見てみれば、『キングダムハーツ』や『モンスターハンター』になれなかったのもご理解いただけるだろう。
それならば逆になぜ評価されているのかというと、そういう「外ヅラ」以外の部分が充実していたからだ。
お世辞抜きにクラッシュバンディクーのアクション力学はかなり高品質である。入力と出力の親和性が非常に高く、独特の慣性と当たり判定は、少し癖がありつつも慣れれば気持ち良い操作感を実現させる。
やり込み要素も十分で、歯ごたえのある難易度。筆者はこのゲームを3歳の時に初めてプレイしたのだが、幼い頃からこんなゲームに出会えたことは幸運だと思う。
だから、高評価もまた当然のことなのだ。
まとめると、クラッシュバンディクーは完成されたクオリティと、それを霞ませるほどの致命的なおっさん臭を兼ね備えた作品といえる。
筆者には、そんなこの世界が愛しく感じられて仕方がない。
こんなにも面白いのに、ブランド化しようのないダサさで溢れている。例えとして「すごい機能的だけど納豆の臭いがするカバン」が思いついたが、それは最悪すぎるな。
確かにダサい。でも、だからこそクラッシュバンディクーはクラッシュバンディクーなのではないだろうか。そのズッコケ感にこそ、クラッシュバンディクーのアイデンティティがあるのではないだろうか。
才色兼備、クラスで人気者の彼女が、実は重度の赤面症。
優しく運動神経もいい部活の先輩が、家に帰ると甘えん坊なズボラ男。
欠点は、時としてその人の魅力を倍増させる。
サグラダ・ファミリアは、未完成だからこそ人を惹きつけるのかもしれない。
さて、そんなクラッシュ・バンディクーシリーズだが、筆者はその中でも二作目である『クラッシュ・バンディクー2』が大好きである。
なぜ『2』が好きかというと、このゲームにクラッシュバンディクー史上最大のダサいところがあるからだ。
突然だが、「いずれ到達することになる場所やものが、事前に見えるというゲーム上の演出」と言われて、ピンと来るだろうか。
「スーパーマリオブラザーズ終盤で、ステージ背景にクッパ城が見えるアレ」である。
「ドラゴンクエストで、ラダトームを出てすぐ海の向こうに竜王の城が見えるアレ」と言い換えても良い。
筆者はこの演出が大の好物である。山脈の向こうにクッパ城を捉えた時には、「決戦の時が近づいているんだな」と血が沸いたのを記憶している。
プレイヤーにいつかの未来を思い描せる––––そんな粋な演出が、実は『クラッシュ・バンディクー2』でも用いられていた。それがタイトルにもあるとおり赤ダイヤの存在である。
『2』にはカラーダイヤという、作中5個しかない隠しアイテムが存在する。
ステージ中の隠れエリアを発見するだとか、別のステージからワープしてくるだとかそれぞれ難解な条件を満たさねばゲットできない。
そういうカラーダイヤのうちの一つ、赤ダイヤはステージ1-2『ツルピカの ゆきやま』にあった。
カラーダイヤはステージの奥地に隠されるのが通例だが、この赤ダイヤは違う。
普通にプレイしていても、見えるところにあるのだ。
雪山の洞窟内に平然と浮かんでいるため、ほぼ全てのプレイヤーが赤ダイヤの存在に気づく設計になっている。
ただし、見えるといってもそれは天井すれすれの位置に浮かんでいて、取ることができない。クラッシュを普通にジャンプさせても届かない高さにあるのだ。
ではどうするのが正解かというと、一度そこは素通りして、後々別のステージ2-2『ぶっとび サ〜フィン』で見つかる隠しワープスポットから飛んでこなければならない(「サーフィン」ではなく「サ〜フィン」)。そうすることでやっと赤ダイヤはゲットできるというわけである。
幼心にノーティードッグのこの小粋な設計には胸が踊った。
「今は手の届かないあの赤ダイヤを、いつか手にする日が来るのか–––––」
いつか到達するであろう高みを、目に見える形で記憶にとどめ、少年の筆者のやる気を奮い立たせてくれたのだ。
憎い演出である。
しかし、そこはクラッシュバンディクー。そのダサさは伊達ではなかった。
というのも、その赤ダイヤ、実はその場でも取れたのである。
別ステージからワープなんてしなくとも。
「近くにある鉄ブロックの上で一旦静止して、左方向にスライディング→ジャンプをしてすぐさまスピンアタック→ボディープレス」
すれば取れた。
ボタン操作でいうと、『←』を押しながら『◯×□◯』の順で素早く入力すれば良い。気づく人は少ないが、このアクションをするとクラッシュが普通にジャンプした高さよりも少しだけ高くまで跳び上がることができるのだ。
どういうことかというと、
「製作陣は届かない位置に赤ダイヤを配置したつもりだが、それほど高くもなかったので頑張ればギリギリ取れちゃった」という事態が起きていたのである。
だっせ〜〜〜。
この赤ダイヤの存在こそが、クラッシュバンディクーの魅力を物語っていると思う。完成されたシステムがあるのに、まるで隙だらけ。『2』はそんな世界観を見事に説明してくれた。
だからこそ、筆者は『クラッシュ・バンディクー2』のことが大好きなのだ。
そして、そんな世界観を産み出してくれたノーティードッグ製作陣に心から感謝を伝えたい。あと「パリパリゴリラ」は実際なんて言ってるのかも教えて欲しい。
そういえば、2017年に『クラッシュ・バンディクー ブッとび3段もり!』というゲームがプレイステーション4、その他ハード向けに発売された。「ぶっとび」っていう言葉好きだな。
3段もりというタイトルの通り、『クラッシュ・バンディクー』『2』『3』のいわゆる三部作をまとめてリメイクしてくれた贅沢な作品だ。
はっきり言って超良いゲームだ。操作性が大幅に変わることなく、原作の良いところを全部そのままに、美麗グラフィックで楽しめる。
つい先日このゲームをプレイする機会があった。
ふとあの赤ダイヤの存在を思い出した筆者は、三部作のうち『2』を選択し、1-2『ツルピカの ゆきやま』に足を運んでみた。
あれ?
赤ダイヤがないぞ。
リメイク前の原作では赤ダイヤが浮いていた位置に、何もなかったのだ。
「どういうことか」と思いながら少し動きまわってみると、すぐに見つかった。
どうやら以前浮いていた位置より、少し高めに浮いていたようだ。ジャンプしないと画面から外れてしまうため、一目では気づかなかったのだ。
しかし位置が高くなったことによって、かつて使用できた裏技は通用しなくなっていた。あの技を使っても到底届かない。
製作陣によって、修正が施されたのだ。
筆者は、つい笑ってしまった。
これだとみすみす「あの赤ダイヤの位置は製作側のうっかりミスでした」と公式自ら証明しているようなものではないか。
「実は裏技を使ってゲットできるというのは、製作陣が残した愉快犯的な隠し要素だった」みたいな解釈もありかなと思っていたのに。
修正のせいで別にそんな奥の深いゲームじゃなかったということがバレちゃったではないか。
そんな空回り具合さえも、愛しく感じられてしまう筆者はおかしいだろうか。
『クラッシュ・バンディクー2』を愛している。
とにかく、伝えたいことは以上だ。
(終)
クラッシュ・バンディクー2 コルテックスの逆襲!
プレイステーション
1997年発売
週末リキオ
Twitterアカウント:@anthracene1410
―――――
J1N1の「ゲーム批評」批評
ビデオゲームを批評する視座として「ダサい」という水準はこれまで読んだことがない。
面白い、つまらない、享楽的、退廃的、美しい、醜い、無数の評価軸がありながら「ダサい」とは一体どういうことか。
週末リキオさんは恐ろしい程に一貫的に、『クラッシュ・バンディクー2』という名作のダサさを論理的に説明してしまう。同時制作に携わっていたNaughty Dogの社員がこれを読むことはまずもってありえないが、万一そんなことがあれば心底気の毒に思う。「つまらない」と言われるならまだしも、「ダサい」と言われるとは。
私はかなり『クラッシュ・バンディクー』シリーズはやり込んでいて、『バンジョー&カズーイ』や『スーパーマリオ64』と双璧をなす3Dプラットフォームの名作だ。
なのでもちろん、あの「赤ダイヤ」を知っている。一見して、いかにも取れそうで取れない「赤ダイヤ」。見えるところにわざと置いておき、しかし正攻法では絶対に取れない、一種の罠。パブロフの犬。実際には裏口から入らないと取れない赤ダイヤ。
だが何と、実際には「正攻法で」取れてしまう。これは非常な皮肉で、本来その正攻法は正攻法でなく裏口と呼ぶべき攻略手段だ。正攻法こそ「裏口ルート」である。
少なくとも、私はアレをノーティの粋な計らいというか、つまり正攻法でも裏口からでも、いずれにせよ与えるものだと思った。それは同時に、喉に刺さった小骨のように、しかし懐疑として、本当にそれはノーティの意図したものか偶発的なものか、誰しもあの名作をプレイしたファンの間に記憶されたのだ。
「脚本の人そこまで考えてないと思うよ?」というアレである。
だがリマスター版が出て、「正攻法」で取れなくなった。赤ダイヤを取る手段は2つから1つに減った。
脚本の人は本当にそこまで考えてなかったのである。(因みに、元ネタの『月刊少女野崎くん』では「そこまで考えている」。)
ダサい。ダサすぎる。
あのダサさをこれほどまでに言語化する。それは真にゲーム批評と呼ばずして何と呼べるのだろうか。