著者:ハリーハート(note)
小学生のころ、ジャムおじさん注意報が発令されました。
時は1990年代、いわゆる世紀末。
突然声をかけられパンをおごってくれる謎の老人とエンカウントした報告が、学校帰りの子供たちから数多く寄せられたのです。
『知らない人からものをもらってはいけません』というのは、九九よりも先に教わることです。
大人たちは恐怖しました。
得体の知れない存在が我が子にパンを与えているのです。
毒でも入っていたらどうしよう? 誘拐されるのでは?
そんな保護者からの心配とは裏腹に、ジャムおじさんは人気者でした。
ジャムおじさんは神出鬼没、だけど出会えばパンをもらえる。
昨日は公園にいた、その前は商店街の近くに。
ジャムおじさんの情報は共有され、重宝されました。
ジャムおじさんに話しかけられてもパンをもらってはいけないと教師たちは言います。
その言葉から私は、ジャムおじさんは自前の四次元ポケット的な場所から手作りのパンを取り出して子供に与えようとするタイプのおじさんだと思っていたのですが、実際はそうではなく、話しかけられた場所の近くにあるパン屋さんやお菓子屋さんで、好きなものを買ってくれるタイプのおじさんだったのです。
つまりジャンルとしては、パン屋というよりむしろ石油王です。
なぜ、そんなことを知っているのか?
「ぼうや、パンでも食べるかい?」
ある日、私の前にもジャムおじさんが現れたのです。
さて、そんな小学生時代の私にも当然、卒業式はありました。
その卒業式当日、私は二択を迫られていました。
既に遅刻はほぼ確定なので一刻も早く学校に向かうか、このまま世界を救うかの二択です。
父は仕事に、母は一足先に学校に行ったおかげで、自由にゲームを楽しめる時間が生まれたことに気づいてしまった私はテレビにメガドライブを接続して、バーチャレーシングのカートリッジを挿入したのです。
バーチャレーシングというのはF1の車を運転してレースをするゲームなんですけど、ゲームの中の世界がすごくリアルなCGで描かれていて、運転席に自分が座って実際にハンドルを握って操作してるみたいなモードもあって、とにかく少年時代の私はそのモードでプレイするのが大好きで、イメージとしては車を運転してるというよりもロボットをコクピットで操縦してる気分でした。
それまでうちにあったゲームは獣王記とワンダーボーイ�Vの二本です。
どちらもファンタジー世界が舞台の作品で、獣王記はモンスターになって敵と戦うゲームで、ワンダーボーイ�Vはモンスターと一緒に敵と戦うゲームです。
それゆえ、リアリティーを追求しているバーチャレーシングの世界は私に大きな衝撃を与えてくれたのです。
バーチャレーシングの中でもお気に入りのモードが二つありました。
フリーランとストーリーモードです。
フリーランは文字通り好きなコースを選択して気のすむまで走ることのできるモードであり、ストーリーモードはゲーム自体には搭載されていないのですが、プレイヤーが自分の脳内で編み出した物語でゲームを楽しむという、小学生なら誰でもやってるやつです。
【このコースのタイムをあと三秒縮めなければ世界は崩壊してしまう】
というストーリーでゲームに挑んでいた私は必死でした。
ここのカーブはブレーキを踏まなくてもいけるんじゃないか、ここでアクセルを踏むタイミングはもっと早くていいんじゃないか。
まだ運転免許も持っていない少年は世界を救うため、限られた知識で試行錯誤を繰り返し0.1秒単位でコースタイムを更新しつづけたのです。
そしてついに三秒の壁を制覇して、世界は救われたのです。
胸をなでおろし登校した私。しかし、教室の扉を開けて教師が口にした言葉は今でも耳から離れません。
「何時だと思ってるんだ。お前は卒業する気がないのか?」
クラスメイトたちはランドセルの中でカビてしまった食パンでも見るような視線を私に向けています。
やれやれ、私は心でため息をつきます。
これがヒーローの孤独というものです。
私がバーチャレーシングでタイムを三秒縮めていなければ、とっくに滅んでいた世界なのに、感謝どころか文句をぶつけてくるそのたくましさにめまいを覚えます。
だけど、それでいいのです。
「気にするなよ」
「そうよ。私たちはあなたのこと、ちゃんとわかってるよ」
空想の親友と空想の恋人がいつものようになぐさめてくれるから。
二人とも性格も顔も頭もよくて運動神経抜群のお金持ちで声は林原めぐみです。
それから二十年経ち、気づけば私も三十代になっていました。
そしてそれは、本当に偶然のおとずれだったのです。
ある日、近所を歩いていると、前方に帰宅中とおぼしき二人の男子中学生の姿。そのうちの一人がおもむろにこう声を上げたのです。
「あー、腹減ったけど金ないしなあ」
次の瞬間、これまでの人生の中で芽ばえたことのない感情が地面から顔を出しました。
その学生に何か食べ物を与えたくなったのです。
「だったらそこのラーメン屋で何か食べる?」
そのようなことを話しかけようとしたのです。
私と学生たちの間には、ほどよい車間距離があいています。
私はやや早足になり、彼らに接近します。一歩一歩。
気づけば私は頭突きできるくらいの距離までせまっていました。
ゲームで例えるなら、グラディウスでバリアを展開したような状態。
バリアが二人の少年。自機が私。それくらいの距離。
だがそこで私は冷静になり、立ち止まったのです。
一体、今、自分は何をしようとしたんだ? あきらかに尋常ではないぞ。まるで変質者です。
天に誓って言いますけれど、私は何か下心や、やましい考えで少年たちに食事をおごろうとしたのではないのです。
本当に、純粋に、目の前に空腹状態の存在があったので、それを満たしてあげたい衝動にかられただけなのです。
心理学用語でいうところの『餌付け』です。
そこで突然、思い出しました。
小学生のころ、ジャムおじさんと呼ばれるおじいちゃんがいて、その人に何かをおごられそうになったことを。
『たたかう』『まほう』『どうぐ』『にげる』
一般的な人のコマンドです。
だけど小学生の私のコマンド一覧は『にげる』『にげる』『にげる』『にげる』となっており、つまり逃げることしかできないのです。
「ぼうや、パンでも食べるかい?」
ジャムおじさんに話しかけられた私は一目散に逃亡しました。
その判断は間違っていないと今でも思います。
もしあのとき、逃げなかったらどうなっていたことでしょう?
きっと、パンをおごられていたはずです。
ジャムおじさんに関しては、ある時期からぷっつりと話題にのぼらなくなったように記憶しています。
バイキンマンにやられたのか、ポリスマンに捕まったのかは定かではありません。
生きていればそのぶん思い出は蓄積されていきます。
嫌な思い出や怖い思い出もそれなりにあるでしょう。
ただ、私の中でジャムおじさんの思い出が入っている引き出しには『警戒』や『恐怖』ではなく『不思議』というラベルが貼られているのです。
いわゆる変なおじさんと遭遇して教室で泣いている女子を見たこともあります。だけど、ジャムおじさんの話をする子供たちはみんな笑顔だったのです。
観測できる範囲の中で、彼は純粋な善意の人でした。
なぜ彼は、ただ、与えつづけることを選んだのか?
そこで私は、祖父の言葉を思い出したのです。
私の祖父は、よくこう言っていました。
「全てのゲームライターは魔法使いである」と。
好きなものを好きというのは、たやすい。
だけど、その自分だけの『好き』を再構築して、他の誰かにも『好き』になってもらえるように伝えることはとても難しい。
特にゲームは本や映画と違い、開始直後からプレイヤーの見る世界は違います。何をしていいかわからない人だっているでしょうし、あまりゲームを買わない人にとって商品の単価は安くありません。
ゲームファンであっても、無限ではない時間の中で、できるだけ優れた作品にふれたい──というよりもハズレを引きたくない気持ちが先行して、人気シリーズの続編や人気ジャンルばかりを追いかけてしまう人も少なくありません。
そうして一部の人だけが盛り上がる世界は、一時的には潤ってもその先に待っているのは先鋭化と衰退です。
だけどゲームライターは違う。
ゲームの無限の可能性を信じている彼ら彼女らは、失敗を恐れず、地雷をものともせず、果敢に勇敢にゲームをプレイしつづけるのです。
人気タイトルが発表されればその素晴らしさを優雅に歌いあげ、新規ユーザーを獲得してゲーム人口を拡大します。
まだ誰にも知られていないけれど光る作品を発掘すれば、そこにスポットライトをあて、一躍時代の寵児へと成長させます。
そのスポットライトをあてるのは作品だけではありません。
それはときに業界の闇と呼ばれるものにも向けられ、浄化を試みます。
大好きな世界だからこそ、常に楽しくありたいからこそ、不正は許さないのです。
無論、厳しい視線は作品にも向けられます。
露骨な提灯記事はファンでなくとも見抜けるものです。
ゲームライターは真実のみを語ります。
明らかな妥協やユーザーへの不誠実さを感じれば、それを実直に評価へ反映させます。
ゲームライターはライターである前にプレイヤーなのだから。
しかし、ユーザーの思い違いやデマに惑わされた暴論から作品を守るのもゲームライターなのです。
あなたのその怒りは、ほんの少し視点を変えるだけで、こんなにも豊かなものに変化するのですよ。
そういう提案も提供してくれます。
やはり、ゲームライターはプレイヤーである以上にゲームライターなのです。
気づけば、ゲームと同じくらいゲームライターに興味を持つ人も現れてきます。
ある日、そのライターの新しい記事が掲載されていました。
あまり興味のないタイトルだけど、あの人がこんなに評価しているなら買ってみようか。
どこかの誰かに、新しいゲームを手に取らせる。
これが魔法でなくて、何なんですか。
かれこれ一時間以上、この文章を書いているのですが、断言できることが一つだけあります。
私はゲームライターにはなれないということです。
ニンテンドースイッチで配信されているバーチャレーシングをおすすめする文章を書こうとしたのですが現時点で4133文字費やしているのに、それに関する記述は一文字もありません。
『ずっと大好きな作品です。面白いのでプレイしてください』
4170文字目にしてついにいえました。
伝えたい言葉は26文字で足りました。
これでプレイしようと思うのは、既にバーチャレーシングの面白さをわかっている人だけでしょう。
冗談ではなく、本気でわからないのです。
好きなものを、人に伝える方法が。
私は好きな小説や映画があれば、買ってプレゼントするのが一番だと思っています。
というより、興味を持ってもらえる術を身につけていないのです。
だから、全てのゲームライターさんを心から尊敬しています。
まぎれもなく、あなたたちは天才です。
せめて一瞬でもその才能に近づきたかったのですけれど、やはり無理でした。
だけど、一つだけ思ったのです。
私はゲームライターになれない。
だけど、ジャムおじさんにならなれるんじゃないかって。
この怪文書がゲーマー日日新聞さんに掲載されるだなんて思ってはいません。
高校生が好きな声優と結婚できる程度の可能性しかしょう。
絶望的ではなく、ゼロです。
しかし応募概要を読んでみると、著名なライターさんに読んでもらえるようです。
そう、つまりこの文章は今これを読んでいるあなた一人のためだけに書いています。
SEGA AGES バーチャレーシングは税込み999円(令和元年 5月6日現在の価格)
こちらに1000円分のニンテンドープレイペイド番号を用意しました。
これをあなたにプレゼントするので、これでバーチャレーシングを買ってください。
既にもっている場合は他の人に譲渡していただいてかまいません。
さあ、おじさんのパンをお食べ。
―――――
J1N1の「ゲーム批評」批評
ゲーム批評を読んでゾッとするという体験はこれが始めてだった。ゲーム批評祭において屈指の変態度、それがこの男の批評である。
この一見何の脈絡もない不審者のエピソードから、私やレビューに媚びへつらいだし、プリペイドをばら撒く行為のナンセンス、ナンセンス、ナンセンスさ。気に入らない、不愉快だ。
正直言って、こんな批評載せたくないのが本音だ。「おじさんのパンをお食べ。」じゃねえんだよ、お前が不審者になってんじゃねえか。
だが検討に重ねた末、この批評を載せることを決断せずにいられなかった。いや悔しいがこの男の文章は間違いなく、「文章を書いてる人間」の文章であり、また「文章を読んでいる人間」の文章なのだ。
文章とは不思議なもので、間違いなく「パワーのある文章」というのは存在する。それが仮に不快なものであろうと、しかし優れたテキストなのがわかってしまう。私も腐っても書き手の一人であるからして。
言うならば、「不条理ゲーム批評」と呼ぶべきだろうか。西村賢太とか、夢野久作とか、その類である。ゲーム批評にも色々な形式があり、今回のゲーム批評祭にも種々寄せられたが、不条理ゲーム批評は初めてだ。
因みにプリペイド番号はTwitter上で晒しておくことにする。果たして本当に使える番号なのかどうかすら私は知らないのだが。
最後に、「この怪文書がゲーマー日日新聞さんに掲載されるだなんて思ってはいません。高校生が好きな声優と結婚できる程度の可能性しかしょう。」この一文は非常によろしくない。怪奇的だが、陳腐すぎる。