著/J1N1(@J1N1_R1)
私は『ガールズ&パンツァー』(以下、ガルパン)が苦手だった。
「え?そんな人いるの?」
と一部に言われそうなものだが、実際苦手だった。TVシリーズからOVA、劇場版まで全部見た上で、本作が完成度の高いアニメであることは認めるが、でもある一点においてのみ苦手だった。
ところが先日、劇場公開されている『ガルパン』の最終章第二話を見て、その考えを完全に改めた。
少なくとも、この最終章第二話は私が苦手だと感じていた部分がむしろ完全に救われていて、端的にいうと普通に劇場で人目憚らずボロボロ泣いてたのである。仮にも一度「苦手」と思わせた作品に対して、ここまで評価を変えるということが果たして可能なのかと素直に疑問を抱いたほどだ。
本来、このように作品を、特に同一シリーズで対比させるのはあまり喜ばしいものではない。特にガルパンおじさんを前にして比較すれば「うるせえ、ガルパンは全部聖典なんだよ!」とお怒りの声を受けることは間違いない。
だがこの評価の変化は、間違いなく私の価値観が変わったことよりもガルパン制作陣による新しい挑戦によるものだと考えているので、それでも今回「従来の『ガルパン』の何が苦手だったか」を論じた上で、「最終章第二話の何が素晴らしかったか」を論じたい。
ガルパンは「正しすぎる」
ガルパンは基本的にアニメとしてこの上なく完成度が高いと思う。本当に私もそこは認めざるを得ない。
作画や音響といった基本的な部分に関しては抜かりがないし、純粋に戦車同士の闘いをスポーツと解釈して女子高生を搭載するなんて発想、常人に思いつけるもんでもなくましてそれを限りなく精密に実現しているのだから、これは本当にマスターピースといえるだろう。
ただそういった完成度にもつながってくるのだけど、この作品は非常に多様な目標により、絶対的に揺るがない物語の「正しさ」が存在している、ように私は感じる。
―――
ガルパンの物語の大きな目標は二つあり、一つは西住みほの姉との衝突だ。
西住みほは、西住流という戦車道の名家の娘なのだが、西住まほという姉がおり、彼女と常に比較され続ける生活、そして根本的に弱者を認めない西住流の在り方に疑問を呈し、一度戦車道そのものを辞める決断をする。
そのため、戦車道の部活自体がない高校へと転向するのだが、そこで紆余曲折の事情があって結局戦車道を再開。仲間と共に西住流とは別の自分の戦い方を探し、それを姉にぶつけて突破するという、早い話『北斗の拳』みたいな目標だ。
もう一つの目標は、先程挙げた西住みほにとっての仲間の居場所である母校の廃校を免れるために、戦車道の大会で優勝するというものだ。
転校した先でようやく戦車道の実力抜きに自分を尊重してくれる友人を見つけた西住みほが、彼女たちや新たに出会う学園の仲間と共に、自分の母校を守るために優勝を目指していく。
この「自分の姉を超えること」「自分の仲間を守ること」という2つの複雑な目標、「戦車道で優勝する」という簡易な手段を通して達成することで、物語は難しい背景を抱えつつも簡単にアウトラインだけを追えるという非常に読みやすい構造を伴っている。
更にもう一つ、隠れた目標があり、それが「各国の戦車を統合活用した”融和”の実現」だと私は考えている。
本作に登場するのはいずれも第二次世界大戦で活躍した戦車ばかりだが、言うまでもなくこれらの戦車を使うというのは、いかにスポーツという建前を持ってしても、歴史や戦争という非常にビビッドなテーマへ直結することは避けられない。
それは本作の監督、水島努監督にとってもかなり「意識的」だったのだと思う。
そこで、ガルパンに登場するライバル校がいずれも(かなりステレオタイプ的な)第二次世界大戦戦争の参戦国を模した高校・生徒・戦車であると同時に、逆に全くバラバラの戦車や生徒から構成された大洗高校がこれらを次々に破ることで、「国家の垣根を超えた”融和”を実現させる」という目標が存在している、と私は考えている。
というのも、仮に主人公の大洗高校がナチスドイツの戦車だけで構成されていて、それが次々にイギリスやフランスを模した高校を打破するというのは、いくらなんでもまずい。
ある種、歴史の再現である高校・大会に対して、西住みほを中心としたなにものにも縛られず、それでいて誰よりも仲間や団結を思いやる高校が勝利することによって、本作の事実上の主役である戦車たちが利用された先の大戦を「克己する」ことで、真に戦車道が戦争ごっこではなくスポーツであることを証明するというのが、本作の前提となっているように思う。
その花園を正しさという履帯で走破するなんて、とんでもない!
以上、姉という壁への挑戦、母校そして居場所の守護、戦車を通した各国の融和という3点の目標を掲げる大洗学園、そして西住みほは、まかり間違っても敗北することがない。(ごく一部の試合を除いて)
まず決勝戦に黒森峰が来る以上、それまでに負けることは絶対にない。姉を超える物語なのに、そもそも姉と出会わないでは話にならない。もちろん、学校を廃校にされるのも、エロゲのBAD ENDでもあるまいしまずないだろう。
こうした絶対的に正しい目標が3点も掲げられている以上、その道程はほとんど決まったようなものである。まだ姉妹の確執や戦車の性能比較だけならまだしも、それらが重なりあったとき、すでに大洗の勝利は火を見るより明らかと言えるだろう。
それ故に、相手だけ弾が全然当たらないとか、当たってもいつも弾いているとかいうご都合主義がある上に、それを意図的に疑わせないように作られている、そういった一種の独善さすら感じられる。
とはいえ、まず正しい目標があって、ご都合主義的に物語が進行するのは『ガルパン』だけではない。古くは『水戸黄門』、『宇宙戦艦ヤマト』、『スターウォーズ』に至るまで、むしろ正しい主軸が存在する物語こそエンターテインメントとしては王道であり、そうした名作同様に私はこの「王道」それ自体を嫌うわけではない。
三重にも重なった目標も、まず戦車道という未知のルールを導入する他に、その戦車を大量に使いたいというミリタリー的な欲求の充足、かつ戦車それ自体の運用が4~6人はザラであり、だからこそクルーの団結が必要不可欠というスポーツマンシップをカタルシスとするために、必要なものだったと言えるだろう。
にもかかわらず、こうした『ガルパン』における正しさのみに違和感を覚えたのは、とても皮肉な話だけど、あまりにもライバルであるキャラクターや戦車が魅力的すぎたからだ。
大きな声では言えないけど、80年代のB級アクション映画でシュワルツネッガーがキューバ人をバッタバッタとなぎ倒したり、アメリカ兵が英語を話す中身スペイン人のナチスを一方的に打破するのは、ある種爽快感がある。
なぜなら、敵はどう見ても倒されて当然と言わんばかりに、低クオリティでやる気がない、人間味に欠ける存在だからだ。彼らにも家族や友人がいるなどと考えるまでもなく、正しさでなぎ倒す暴力性は一種の様式美とさえ言えるだろう。
一方、『ガルパン』のライバル校は違う。端的に言って、普通にかわいい。
キャラデザの熱量が全然違うのである。聖グロも、サンダースも、プラウダも、アンツィオも、黒森峰も、直截に言って普通にかわいいキャラクターばっかりで、個性も表情も豊かな彼女たちの努力が、いかにあと一歩という所でも、物語の構造上必然的に大洗によって敗北するのが、純粋に悔しいという気持ちがあった。
個人的に、一番悲しかったのがアンツィオ戦だ。わざわざOVAとしてリリースされたこのエピソード、純粋に好意的なキャラクターばかりでも、装備で劣る彼女たちがどんな戦い方をするのかと思ったら、ほとんどギャグみたいな負け方をしていた。カルパッチョとカエサルの戦いはアツかったけどね。
『劇場版』では満を持して彼女たちが共同で「大学選抜チーム」と戦うことになって、これにはオタクの私もニッコリだったわけだが、今度は愛里寿とかいうロリコ……オタク殺しのクッソかわいい子が出てきて、でも西住将軍にはやっぱり勝てなくて、悲しいなぁと。
もちろん、実際の戦争ではないからライバル校の生徒たちが死ぬわけでもなくて、むしろミホメルの仲間になっていくんだけど、でも彼女たちのキャラクターの解像度があまりにも高すぎて、彼女らにも壮絶な努力があり、硬い絆があるのだと信じる中で、ミホメルの正しい履板に轢かれるのは、あまりに忍びない。
加えて、私はかなりのミリオタなんだけど、やっぱりかの戦争で戦い抜いた名車がボコボコ負けてるのを見ると、「いやいや、この戦車は本当はもっと強いんだぞ!!」と鼻息が荒くなってしまう。そもそも軽戦車や豆戦車は、そんな対戦車戦闘を意識してないのに……!
これは実際スター・ウォーズやガンダムでも感じることがあるけど、「絶対的に強い存在が、正しい目的を掲げて、ヒール/ライバルを蹂躙する」という王道自体は楽しいけど、作家が作品を愛しすぎて、肝心のそのヒールが魅力的なとき、彼ら彼女らが蹂躙されるファンの悲しみは一体どこへ行くのだと、オタクは思う。
大戦に登場した戦車でスポ根モノをやる、という極めて危険なテーマでありながら、許容範囲のノーマンズランドを縫うように『ガルパン』作り上げた偉業は大きい。
だがそのために、皮肉として『ガルパン』の完成度は高すぎたのである。その結果、「あっちにも勝ってほしいし、でもこっちも負けないでほしい」というオタク特有のジレンマが臨界状態に達し、ギギギギギギギーーーー!!!と首を掻っ切りたくなるので、私は『ガルパン』が苦手だったのである。
「正しさ」を疑う最終章 BC自由学園編
かなり前置きが長くなったのだが、こうした「正しさ」によるジレンマがTV版、アンツィオ戦、劇場版を通して拭えなかった。
(※以下の内容は最終章第2話のネタバレを含みます。まだ見てないなら映画館へGO)
さて、2017年12月9日から公開が始まった最終章である。少なくとも最終章の第一話の時点では、「少し変わったかな」という印象こそあれど、基本的にはいつものガルパンだった。
大筋としては、河嶋桃という先輩にあたるキャラクターの成績が芳しく無く、彼女が推薦で入学できるように、伝統的な戦車道の大会「無限軌道杯」を優勝するため、かつて戦った全国の学校と戦車道でぶつかるという物語だ。
一回戦の相手は、フランスをモチーフとした「BC自由学園」。FT-17、ARL-44、S35などを主たる戦車として登録しているが、「エスカレーター組」と「受験組」との間の亀裂が原因で連携面に難ありというのが下馬評だった。
しかし、実際には新しい隊長「マリー」によって両者は仲直りしており、その下馬評の裏をつく形で大洗チームを待ち伏せし、ピンチに陥れる……のだが、割と致命的な状況(一本の橋で全戦車が立ち往生し、その間何十発と砲弾を受ける)を特に理由なく無傷で脱出し、そこから大洗の報復が開始する、という場面で第一章は終わる。
やっぱり大洗は圧倒的に「正しい」し、故に強い。加えてBC自由学園はステレオタイプで、皆が期待していた『ガルパン』なのである。だから正直、第二章にもあまり私は期待していなかった。
そして、第二話、大洗の反撃の場面から物語は始まる。大洗の秋山はBC自由学園の連携はあくまで見せかけのものと考え、それを瓦解させるために、自軍のB1-bis(BC自由学園と同じフランス軍の戦車)を敵地に送り込んで、撹乱する作戦を立案する。
その結果、作戦は見事に成功。実はB1-bisとS35の砲塔はほぼ同じであり(当時のフランス軍は砲塔を何故か車体よりも先に作る例もあった)、BCの生徒たちは「味方に撃たれた」と思い仲違いし、同士討ちで戦力の半数を失ってしまう。
だが本作の見所はここからである。異常を察知した隊長であるマリーがFT-17に飛び乗り、BCの車長である安藤と押田に「どうしたのか」と即座に尋ねるのだ。事情を聞いて「それは誤解に過ぎない」といとも容易く両者の反目を解決するマリー。この時点で、マリーは明らかにこれまでのライバルとは異なっていた。
これまで、大洗のライバルたちはどれも優秀で、かつ仲間想いであったが、仲違いをしている仲間同士を説得させ、融和させることはそれこそ主人公の西住みほの、いわば専売特許だったのだ。仲間を団結させる隊長のカリスマ、それがこれまでで最も効果的に描かれたシーンである。
そしてマリー、BCの残存勢力は合流し、迫りくる大洗の包囲網を脱出する。そこで彼女たちが一斉に歌い出すのが、名誉あるフランス大陸軍の凱歌、「la chanson de l'oignon」。
大洗の車両は無傷、対して半数を失ったBC。その戦力の差は圧倒的だというのに、BC自由学園の側に敗色は全く見られない。自らの勝利を当然のものと確信し、彼女たちは自由と名誉のために戦う戦士である。
一方、ここから大洗の心理は無論のこと、セリフすら消え去る。ただ砲火と凱歌が鳴り響くだけの戦闘で、BCの戦車は次々に撃破されていく。しかし、決死の覚悟で押田のARL44が大洗の攻撃からマリーのFT17を守り、その間隙をついて安藤のS35が敵を撃破する。
そしてマリーはFT-17の機動力を活かして大洗の懐に飛び込み、フラッグ車であるヘッツァーの尻を補足したその瞬間、ランドシップの真横について砲塔がそれより先に自分を狙っていた……。
結果的に敗北はしたものの、BC自由学園の最後の猛攻は、凱歌と砲火のみで彩られる極めて印象的な演出、常人離れした安藤と押田の連携、そしてマリーの一人称視点での突撃と、決して彼女たちが単なる「当て馬」ではなく、大洗と全く同じ真の「ライバル」であり、血の通った「少女たち」なのだと、どんな言葉や論理よりも納得させる迫真の数分間であった。
正直言うと、ここでちょっと泣いた。
もちろん、『ガルパン』がこれほどライバル校の生徒たちの戦いをイキイキと、敬意をもって描いてくれたことで、戦車道というスポーツを通して少女たちのダイナミクスが発揮されていた……というのもそうだけど、
純粋に、映像として神がかっていたのである。
特に絶対的に不利な状況でマリーの一人称視点で大洗軍の攻撃をかいくぐって敵フラッグ車へ猛攻をしかける様は、他ならぬTV版第12話において、西住みほのⅣ号が、姉である西住まほのティーガーを討ち取るシーンのセルフオマージュのようで、ここにもう西住みほは絶対に勝利する「正しさ」に束縛されず、また他のどのチームもそういった「正しさ」を持ち得るのだなぁと想い、まぁともかく泣いたのである。
よりメタな話をすると、私個人にとってそういった「正しさ」によって敗北した、数々の名戦車たちに対して、今回BC自由学園の(お世辞にも強力で、かつ有名とも言えない)戦車たちが本当に力強く、誇らしげに活躍している様子が本当に響いた。特に、私はフランス軍が大好きなのである……。
(あぁ、BC自由学園にFCMがあれば……いや、でかい戦車は大抵負ける法則があったなこのアニメ)
「正しさ」を疑う最終章 知波単学園編
惜しくもBC自由学園が敗北した次の試合、相手は「知波単学園」だった。エキシビションマッチでは大洗の足を引っ張り、完全にネタ枠だった彼女たちだが、大洗との出会いを通して彼女たちもまた大きく成長していた。
知波単学園はこれまで少し困ったら「突撃」、困ってなくても「突撃」という、これまた先の大戦における大日本帝国軍をステレオタイプ化したような学園だった。もちろん、そうした天然らしさも彼女たちの可愛らしさではあったのだが、それは明らかに「正しさ」から外れたものだった。
だが、最年少である知波単の福田が、エキシビションマッチでの敗北から大洗から助言をもらい、ただ「突撃」にこだわることだけが勝利への道ではないと知る。しかし、そのまま「突撃はもうやめだ」と伝えても聞いてもらえないと考え、「足踏み突撃」「さよなら突撃」などと新たな突撃を考え、立案する……。
「ちょっと待て。それって突撃といえるのか?」
「馬鹿だなあ。名前に突撃ってついているから突撃だろう。」
「それもそうか。よし突撃!!」
という、知波単らしい、いつもの軽快なジョークを交えつつ(それは知波単への何よりのリスペクトだ)、彼女たちは完全に西住みほの虚を突いて攻撃を仕掛ける。
だがそれこそ、普段価値観の違う先輩や仲間に対して、「彼女たちの文脈で」わかりやすく噛み砕いて、かわいらしい名称の戦略を伝える(パラリラ作戦、モクモク作戦など)、西住みほのリーダーシップだったのである。
そのリーダーシップを、しかも隊長である西ではなく、後輩ですらある福田が伝えている。ガルパンの伝統が大きく変わっているシーンだ。
しかも、同時に仲間もまた福田のことを信頼しており、福田が夜戦が怖いと言えば、スピーカーを出して(敵に発見されるリスクすら無視して)皆で歌い出す。で、またこの歌が単細胞と思いきやメタファーを交えたインテリジェンスな歌で、彼女たちの意外な側面が見えて本当にええんや……。今回歌の演出良すぎじゃ……。
(余談だが、こうした自分たちの美徳である突撃を捨てて、長期的な勝利を得るために汚い手段を使うというのは、言うまでもなく史実における大日本帝国陸軍の変化でもあった。戦争での劣勢が深刻化する日本軍は、敗色濃厚ともなれば半ば勝負を捨て、「万歳突撃」によって華々しく散ることが美徳としていた。
だが、1944年のペリリューの戦いにおいて、中川州男大佐率いる日本軍守備隊はおよそ6倍以上の戦力を有する米軍に対し、自分本位での突撃ではなく、徹底した持久戦を部下に命じた。その結果、3~4日で終わると称された防衛戦で73日も耐えきってみせたのである。
そしてそうした教訓は、後の硫黄島の戦いや、沖縄戦にまで引き継がれ、大局的に日本軍の勝利へ寄与したわけでないが、極めて大きな影響を戦争それ自体に与えた。特に硫黄島の戦いは、巨匠クリント・イーストウッドによって『硫黄島からの手紙』という映画になっているので、必見。……というか、隊長の「西」の元ネタが明らかに硫黄島で戦死したバロン西だし。)
とはいえ、西住みほも決して一方的に負けはしない、いつもの名将の如き冴えで、ぬかるんだ地面を活かして逆に知波単を罠にハメてしまう。知波単も半ば自暴自棄になり、もう「突撃」しかあるまいと言い出す。
さすがにこれまでか、というシーン。
「あぁ、まぁこの辺で大洗がトドメさして終わっちゃうのな」
なんて思いながら残ったポップコーンを流し込もうとしたその瞬間。
西隊長が、
渾身の力で、
こう言い放つ。
「撤退しよう。」
「転進ですか……?」
「これは転進ではない、撤退だ。」
これまで、隊員の意思疎通のために「突撃」の解釈を曲げて様々な戦略を試してきた知波単。良くも悪くも、それが日本人的なコミュニケーションへのアイロニーもあったに違いない。
また、西隊長はこれまで幾度となく優柔不断な面を見せてきた。色々な意見を別け隔てなく聞くと言えば聞こえはいいが、実際には福田を初めとした人に意見を任せてばかりで、それこそ西住みほのようなリーダーシップには程遠かった。
その西隊長が、「撤退」と言い放つ。言うまでもなく旧日本軍のカリカチュアである知波単学園にとっても禁句だ。
だがそれを、誤魔化すでなく、媚びるでなく、堂々と隊長命令として撤退の判断を下す。
そして隊員たちもその強い意志を感じ、ついに「突撃」を辞める。
そして知波単は軽装甲の機動力を活かして、月下の轍に従い、大洗の包囲網を突破し、次の機会を狙うという場面でこの映画は終わる……。
おい。
二回泣いたわ、クソが。
いや、あのさ、本当にさ。
知波単って正直、ガルパンで一番の「ネタ枠」だったわけね。ただ、俺はさっき苦手と言ったガルパンの「正しさ」と同じぐらい、ライバル校がネタ枠(かわいい枠)になっちゃうのが正直悲しかったのよ。特にアンツィオ戦とか(ええい、セモヴェンテ da 90/53をもってこい!)。もっと活躍させてくれてもいいやんと。
その知波単がさ、単に大洗に対していい勝負をするだけでも嬉しいんだけど、何よりも、これまでの「ネタ枠」としての個性やかわいらしさをそのままに、これまでと違うことにも取り組む、その上で更に、これまでの個性を捨てる決断をするって成長。これもう完全に主人公だし、大洗ですら中々できなかったことじゃん。
水島努監督が、やっぱり全部のキャラクターを愛してくれてたんだなぁってのも本当に嬉しいし、何よりガルパンの正しさによる一方的な物語を、一つの側面としながらも、次は全く違うベクトル・メソッドで物語を描く(これまでの良さを維持しながら)ってのが、もう本当にすごくて。
それにね、特に知波単戦のときが顕著だったけど、大洗の戦車に対して知波単の戦車は弱いのよね、日本軍のだから。けど軽戦車や豆戦車に価値がないかって言うとそうでもなく、機動力を活かした偵察や挟撃が強いんだぜっていう、色々な戦車の価値を提示してるのも嬉しい。(これは、劇場版でCV33の活躍でもあったよね)
「卒業」のために
誰かが言ってたんだけど、『ガルパン』最終章のテーマはズバリ「卒業」なんじゃないかと。オープニングでも西住みほたちの服装はおそらく卒業用の礼服だろうしね。(しかもOPをよく見ると、最後桜が散ってる)
それは、これまで戦車道を通じて色々な表情や人生を見せてきた「彼女たち」の卒業であると同時に、『ガルパン』という気付いたら大成長してたコンテンツの終幕でもあり、そして作者や俺らオタクにとっても卒業でもある。
そういった、何重もの卒業を迎える今となって、あぁやっと西住みほと大洗の正しさがなくても、もう『ガルパン』というコンテンツ全てが起爆剤であり、推進剤となって、物語を進められる程に成長していたんだなぁと。
そして彼女たちは、先輩としてライバル校をも成長させたのかなって。特に知波単の福田が大洗のバレー部からのアドバイスを受けて成長したことが顕著だけど、大洗がいなくなっても、この先ずっとポジティブな循環が続いていく世界がここにあるよって、そういうことを最終章で伝えたいのかなと思う。
俺がさっき言った「正しさ」、もっぱら予算とか、尺とか、わかりやすさとか、加えて作品の趣向として選択された「正しさ」に対して、そういった制約が「卒業」と共に取っ払われて、それによって大洗だけではない、本当に色々なキャラクターと戦車の「顔」が見えてくるようになった。
もちろん、西住みほが戦う「桃ちゃんを合格させる」という目標は大切だし、大洗が最終的に優勝する可能性は高いんだけど、軌跡として必ず王道一直線を最短距離で走る必要はないのかなって。
これまでずっと大洗と、ライバル校の活躍を丁寧に描写し続けてきたからこそ描ける、まさに「卒業」に相応しい傑作に仕上がっていると思う。本当に、次の最終章も楽しみでならない。
諸君、ガルパンはいいぞ。